蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

推定無罪~逆転敗訴

2012年10月31日 | つれづれに

 「単純X線写真で結節間溝がダブル・フロアになっています。また正面像で大結節に骨硬化像を認めます。内旋抵抗時の方が、外旋抵抗時よりも疼痛が強く、筋力も弱いようです。またリフトオフ・テスト陽性、ベリープレス・テスト陽性で肩甲下筋腱損傷を疑います。スピード・テスト陽性で、上腕二頭筋長頭腱損傷を疑います。
 このような所見を元にMRIを拝見しますと、長頭腱が小結節上に亜脱臼しているようです。また肩甲下筋腱の小結節への付着がはっきりしません。
 以上の所見から長頭腱の亜脱臼、肩甲下筋腱断裂疑い(疑いとは言いましても、かなりその存在の可能性は高いと思っています。)とさせていただきました。
 関節鏡にて手術を行い、上記病変が観察されましたら、鏡視下に修復を行いたいと存じます。」

 半年以上前、突然左肩に脱臼したような激痛が走った。特に何か無理をしたわけではない。数時間或いは数日で、又突然痛みが消える。そんな繰り返しの中で、少し変質した痛みが慢性化し、日常生活に様々な不自由が重なっていった。特に、寝返りを打つたびに目が覚めるから、慢性的睡眠不足がこたえる事態になった。行きつけの整形外科でX線診断を受けたが、肩関節の骨には全く異常がないという。しばらくヒアルロン酸の関節注射を週一で5本、隔週で2本打った段階で全く平癒の気配なく、「腱板断裂の疑いあり」という医師の勧めで大学病院のMRI診断を仰ぐことになった。
 その結果は、「腱板の連続性は保たれているが(要するに、切れてないらしい)、ただ上腕筋頭頂部に損傷(炎症)がみられる」と、とりあえずは「推定無罪」の診断だった。
 しかし、これまでの治療で効果なく、むしろ痛みが増している感じがあって、どことなく納得がいかない顔をしていたのだろう、医師が「大学病院に肩の権威のドクターがいます。診断を仰いでみますか?」と勧めてくれた。
 予約を取り、紹介状をもらって指定の日の8時半に大学病院を訪れた。1時間、2時間、3時間、ひたすら待ち続けた。12時前に呼び出しがかかった。「やっと…」と立ち上がったら、看護婦(看護師という言い方に、いまだに馴染まない)が「もう少し掛かりますから、先にお昼を食べて1時ごろ戻って来て下さい」と病院食堂への道順を教えてくれた。
 やっとS教授の前に座ったのは、もう午後2時を過ぎていた。昨日までアメリカに行っていて患者が溜まり、今日は異常な待ちだった由。「来週から又出掛けます。」……国際的肩の骨の権威と、改めて実感した。
 MRI画像と、その日追加で撮った4枚のX線画像を診ながら、詳細な説明を受けた。「MRI技師は本物の腱板を見たことがないから、画像だけで診断するしかありません。私は3000人の本物の症例を診てきていますから、学術書に書いてないところまで診断出来ます。」と、何の気負いもなく淡々と言い切った医師の言葉に、一気に信頼が確定した。冒頭の診断書がそれである。

 難解な医学用語の連続だが、画像説明で私にも十分理解できた。要するに、まず切れているのは間違いない。全身麻酔で内視鏡を肩関節に入れて、腱板が切れていたら即縫い合わせるということだった。手術を即断した。結果、12月20日の入院手術が確定した。切らなくていいだろうという判定は、一転して「逆転敗訴」。
 原因と対応がはっきりして、負け惜しみでなく、むしろ安心したというのが本音である。「断裂の状況によりますが、大学病院に入院して手術・リハビリが2週間。その後転院してリハビリを続けます。自分で着替え出来るようになるまで、およそ4週間と思ってください。全治するまで、4か月から半年です。」
 初めての長期入院と手術。しかし、内臓でなく命に障りあるものではないから、心配はしていない。家内共々不自由を凌ぎながら、再び大晦日からお正月を病室で過ごすことになりそうである。

 庭の隅に、クマゼミの亡骸が蟻に引かれることもなく、いつまでも転がっている。10月晦日、寒気が次第に迫り、冬将軍の先触れの太鼓が遠く聞こえ始める季節である。今年は、一段とムラサキシキブの色が映える。
                (2012年10月:写真:ムラサキシキブ)
    

青春の灯り

2012年10月22日 | つれづれに

 もう知る人も少なく、現品としても存在しないだろうと思っていたら、なんとネットで1000円で売られていた。南九州がまだ台風銀座だった昔である。停電と言えばローソクが当たり前で、懐中電灯などという便利なものは記憶にない。まして、中学生が携帯性のある発電機など手にはいるわけもない。前回のブログ「イモムシ・マスク」に書いた「燈火採集」でひと晩中照らす光源は、このアセチレンランプしか思いつかなかった。
 黒灰色の粘土のような炭化カルシウム(カーバイド)を入れた容器の上に水タンクがあり、水滴を滴らせることで発生するアセチレンガスを燃焼させる。スクリューバルブで水滴の量を調整することで炎を加減し明るさを変えることが出来るという、単純な構造である。明るく光量も多いため、かつて炭鉱や灯台などで用いられていたが、現在でも狩猟や、ケービング(洞窟探検)や、漁業等で使用されていると知って驚いた。

 灯りに寄ってくる虫たちを捕える燈火採集と並んで、もう一つこのランプの想い出がある。
 福岡市の東南部から太宰府に連なる三郡山系。当時の鞍手郡、嘉穂郡、筑紫郡にまたがる屏風状の山並みである。博多駅からローカル列車に乗り、篠栗駅を起点に登り始め、若杉山(678m)―ショウケ越(520m)―砥石山(826m)―三郡山(937m)―仏頂山(869m)―宝満山(800m)そして、西鉄太宰府駅に至るおよそ20キロ、ほぼ7時間かけて縦走する、私のお気に入りの健脚向コースだった。
 手元に昭和33年、高校卒業の年に買ったガイドブック「九州の山」がある。定価200円、初版を昭和32年に「しんつくし山岳会」が出版した、当時最も身近に愛用された登山ガイドブックであり、今も版を新たにしながら読み継がれている。昭和46年に買った9回目の改訂版も私の手元にある。この時の定価が500円。13年間で2倍半となった値段を、当時の日本経済の高度成長と物価上昇に照らすと、やたらに懐かしい。
 ザックの中で何度も雨に濡れ、変色してぼろぼろになっているが、九州各地の山に登った記録が汚い字(自嘲、今も汚い!)で克明に記されており、私の青春の山歩きの想い出がいっぱい詰まった宝箱である。
 それによると、三郡縦走の記録は昭和31年から昭和37年までに12回。(昭和38年に大学を卒業して福岡を去ったから、その後の記録はない。山歩きから遠ざかる歳月が長く続いた。)若杉山から宝満山までの時間を見ると、初めのうちは4時間45分かかっていたのが、やがて慣れるとともに4時間、3時間半と短縮され、最も健脚を誇った頃には2時間40分という記録が残っている。これが私の最速記録だった。
 この時、宝満山頂から荒々しい岩の石段の道を太宰府駅まで50分で駆け下った。通常は1時間50分ほど掛かる道である。誘って同行した友人T君は、初めての縦走の過激なスピードに懲りて「もう、君とは登らん!」と本気で怒った。若気の至りである。しかしその彼とは、その後も何度も一緒に山を歩いた。懲りない友人である。
 昭和33年8月の5回目の欄に、「夜間縦走」と記された時間記録とメモが残っている。「篠栗駅出発午後8時30分、宝満山午前4時30分」…それだけで途中の記録がない。これには訳がある。
 「悪天候をおして挙行。若杉にて雨に遭い一時断念。山頂付近に野宿を覚悟するも、やがてガスが晴れ、雲間から漏れる月光の下を歩く。ずぶ濡れの為、休むも寒気甚だしく、また不眠による過労に苦しむ。山で苦しんだ経験では、最もひどし。文字通りよろめき歩き、まことに苦しむ。しかし、下界の灯りの波、星の光芒は忘れがたい。Kと二人。」と負け惜しみのメモを書いている。実は、縦走の間、記録を取る余裕さえなかったということである。
 歩きながら眠り、気が付いたら何度も尾根道の灌木の中に転がって眠りこけていた。宝満山頂で日の出を待つ間、歯の根も合わぬほど寒さに震えていた。8月2日、真夏の夜である。(K君は、後に熊本大学の工学博士になった。)
 この時、ずっと二人の足元を照らしていたのが、このアセチレンランプだった。ヘッドランプで歩く今とは、まさに隔世の感がある。そして私の体力も……隔世の感がある。
 この朝、太宰府は11.4度と、この秋一番の冷え込みとなった。寒がりの蟋蟀庵ご隠居が「春が来たら起こしてくれ」と言ってベッドにはいる冬が、少し足どりを速めたようだ。
         (2012年10月:写真:昔懐かしいアセチレンランプ)
※写真はネットから借用。

イモムシ・マスク

2012年10月19日 | 季節の便り・虫篇

 島田に住むUさんが、半年ぶりに蟋蟀庵に泊まりにやってきた。家内の知人の縁に繋がる人であり、歌舞伎大好き(家内と意気投合したらしい)、片岡仁左衛門・命、そしてこよなく野の花を愛する女性である。家内と東中洲の「ニュー大洋」でシネマ歌舞伎「籠釣瓶花街酔醒」や博多の街を楽しみ、我が家のブルー・レイのビデオで、仁左衛門三昧の二夜を過ごしていった。
 そのUさんが、1冊の本を土産に残していってくれた。盛口満著「ゲッチョ先生のイモムシ探検記」という。加齢と共に読書スピードが落ちているのに、すっかりハマって一気に読み上げてしまった。誰にでも紹介出来る本ではないが、虫キチにとってはたまらない1冊である。

 沖縄のイモムシ……つまり、蛾と蝶の幼虫を主役にしたユニークな観察記録であり、虫嫌いな人なら怖気をふるうような、リアルなスケッチ満載の本である。そして、圧巻はそのイモムシの脱皮した抜け殻に残る、固い頭の殻(顔)のスケッチ集……筆者は、それを「イモムシ・マスク」と名付ける。なんと繊細で造形の妙に満ちた個性的な顔だろう。51年前、昆虫少年の名残りがまだ微かに残っていた20代初めの頃、乏しい大学生の小遣いをはたいて、当時の値段で1800円もする「日本蝶類幼虫大図鑑」(保育社)を手に入れた。すっかり色褪せてしまったが、今も私の宝物の本の1冊である。その世界を、久し振りに目にして興奮した。

 主役の一人(?)として、メンガタスズメの幼虫が登場する。昨年、博物館環境ボランティアの編集チームの仲間で作った「五人会」の中で、「お母さん」と呼ばれている女性の家の畑で見付かり、その名前を調べて教えたのが、このスズメガの幼虫だった。不思議な偶然である。
 登場する虫屋、蛾屋、蝶屋……それぞれ特化された虫キチ達のユニークさと、そして何故か頷きながら考えさせられる哲学的な考察が印象に残る。「彼女と虫と、どっちを取る?」と訊かれて、ためらいなく「虫!」と答える人たちである。私なんか、とても足元にも及ばない重症の虫キチたちの生き生きとした姿に、思わず快哉を叫びたくなる。
 筆者曰く「許す限りの時間と労力を虫に費やしたいと願ってしまう病(のようなもの)」に罹患しているスギモト君。生まれつき虫が好きという特異体質の持ち主で、生後1歳になる前に見たタマムシの記憶を残し、最初に自分で採った虫は、「3歳のときのラミーカミキリだった」と覚えているという、信じられないような虫キチであり、嵩じて沖縄に住み着いた。「沖縄の虫について恐ろしいほど知っている青年」……この人の知識は凄い!
 屋久島の「森の主」と言われるほど大自然の中を歩き回るのに、イモムシだけは大の苦手で、イモムシに遭遇したら「ほひゃぁ~」と叫びながら、大事なカメラを放り出して逃げ出すカメラマンのヤマシタさん。……思わず笑ってしまう。
 若い女性なのに、ケムシを見ると目を輝かせるオカピーことマユミさん。人に嫌われる蛾やケムシががことさらに好きで「ケムシのお姉さん」と呼ばれている。……男なんて出る幕がない。
 虫屋ではないけれど、4匹のクロメンガタスズメの幼虫(イモムシ)を、生きたまま、はるばる沖縄まで送ってくる虫好きな山口のケイコさん。……こんな微笑ましい虫好きさんたちによって、虫屋のすそ野が広がっている。
 林道にビニールパイプを立てて白布を張り、発電機で蛍光灯やブラック・ライトを照らしてひたすら集まってくる蛾を採るオオワダ先生。……昆虫少年だった中学生の頃、福岡市の南公園と呼ばれる林に中に泊まり込んで、白布を張り、カーバイドに水を垂らして発生するガスを燃やすアセチレン・ランプで、同じように「燈火採集」をしたことがあった。藪蚊に苛まれて悶えながら過ごした夜の思い出がダブって、妙に切なくなった。

 筆者の父が大腸癌に罹り、余命半年と宣言された。その言葉が凄い。
「いやぁ、長生きしたから、寿命だよ。ぽっくり死ぬのは、本人は楽だけど、周りがショックでしょう。ガンは、ほら、死ぬまでの準備が出来るじゃない。死に方としては、悪くないんじゃないかな」
 筆者の言う「ガンを拒絶するのでなく、ガンを引き受けて、余命を過ごそうとする父の姿」を見せて、2年もの自分の時間を生きられたという。誰にでも出来ることではない。

 台風などで南の国から飛ばされてくる蝶を「迷蝶」という。蛾の場合はメイガという種類がいて紛らわしいから「偶産蛾」ということも、この本で知った。
 福岡市で、南方系の人面カメムシ(アカギカメムシ)が集団で発見された(我が家でも先年1匹を見つけたことがある。報告するべきだったかもしれない)。福岡市でオーストラリア原産の毒蜘蛛・セアカゴケグモが、この4年間に8201匹、卵嚢3161個を駆除。
 温暖化によるものや、海外からの貨物船のコンテナが運んだものなど、原因は様々だが、筆者が結びに書いた「人間の好みや理解を超越して、自然はそこにある。人間がいかに人間に都合のいいような世界を作ろうとも、自然はその中に滲み出してくる」という言葉が心に残った。
 人が自ら招いたことではあるのだが、じわじわと自然が人を追い詰め始めているように思えてならない。
       (2012年10月:写真:「ゲッチョ先生のイモムシ探検記」表紙)

花、狂う

2012年10月13日 | 季節の便り・花篇

 2枚の葉から始まったこの花の我が家の歴史は、もう35年になる。起点は沖縄だった。住み着いた豊見城の我が家の庭に、見たことのない多肉植物を見つけ、2枚の葉を捥いで花好きな福岡の父に送った。父が丹精を込めて次々に鉢を増やして花を咲かせ、時にはご近所を招いて花を見てもらうまでになった。当時この花まだは珍しく、我が家ではやったことはないけれども、花が咲くと知らせたら、新聞社やテレビ局が取材に来るほどだった。

 父が逝ったあとを母が受け継ぎ、母の死と共に私がそのあとを引き継いだ。古くなって弱ってくると、又元気な葉を捥いで鉢に挿し……そんなことを、もう何世代繰り返したことだろう。南米を原産とし、台湾から長崎に渡って全国に広がった花である。不思議に、全国ほぼ同じ夜に花を咲かせる。ご近所や友人宅にも、我が家から幾鉢かお嫁に行った。
 棘とげの小さな蕾が、やがて大筆のような蕾となり、それが次第に首を擡げ、やがて45度ほどの角度で立つと、数日で綻び始める。夜8時頃から徐々に膨らんで花びらを広げ、ある瞬間から息詰まるほどの濃密な香りが一気に溢れる。10時頃には豪華絢爛の花が漲るように満開となり、翌朝にはすっかり萎れてうな垂れるという、紛れもなく潔い「一夜限りの花」故に、人々が慈しみ愛でてきた。

 そのリズムが35年目に初めて狂った。急に冷え込んできた朝だった。そろそろ、と思っていた今年最後の月下美人を部屋で咲かせようと庭に下り立ったところ、何と眩しい日差しを浴びながら、満開の花を咲かせていた。日差しを浴びる月下美人なんて、35年一度も見たことのない現象である。気候の異常が、デリケートな花を狂わせたのだろうか?夜の闇に咲いてこその「月下美人」である。何となく気持ちがざわつく朝だった。

 いつもの散策路を歩いた。89段の階段を上り、博物館の横を抜けて北側に抜けると、小さな雨水調整池に至る。(希少種・ベニイトトンボが生息する貴重な池であり、かつて「ビオトープ」として守り育てたいと博物館に提言したが、残念ながら一蹴された。私にとっては曰くつきの池である。今では水蓮が植えられたり、亀が放流されたりして、生態系は乱れてしまった。)
 入館者が先日1000万人を超え、記念に太宰府天満宮名物の「梅ケ枝餅」が5000個配られていた。その焼きたての1個をいただいて、ポケットを温めながら池のそばの四阿を抜けると、お気に入りの遊歩道が始まる。湿地には蒲の穂が立ち、一面のミゾソバがピンクの花を敷き詰める。数珠玉も黒く色づき始め、真っ赤なトンボや、キチョウ、ツマグロヒョウモンが舞う。木陰をかすめる黒い影はまさしくクロヒカゲ。足元にはバッタが跳ね、導くようにハンミョウ(ミチオシエ)が小刻みに飛んで逃げる。檜と孟宗竹がトンネルを作るほの暗い小道は、やがて110段あまりの急な階段を経て、博物館へ至る車道に登りあがる。いつもは早足で一気に登る階段を、踊り場毎に足を止めて息を整え、風を聴き、緑を呼吸しながら、木立を群れて抜けるヒヨドリを目で追った。

 車道から、天神山の遊園地を巡る散策路にはいると、斜面には漸く平地に降りてきたススキが今真っ盛りである。その先の小さな梅林の足元の草むらは、毎年真っ先にオオイヌノフグリが咲いて、私に早春の訪れを知らせてくれる場所である。
 緩いアップダウンの山道を、少し後ろめたく思いながらドングリを踏んで歩く。玄関の棚の飾りに、いくつかのドングリをポケットに入れた。額の汗を秋風が弄って過ぎる。捲り上げた腕の汗の匂いに誘われて、藪蚊がしぶとく吸い付いてくる。たけなわの秋までもう間もなくというのに、秋の「哀れ蚊」というには些か躊躇うほどのしたたかな痒みだった。天開稲荷の脇を抜け、まだ青いウバユリの実が立つ山道は人の姿もなく、落ち葉を踏む私の足音だけが静寂を破る。
 博物館のエスカレーター・エントランスのそばに下り、うぐいす茶屋の脇から、天満宮の西高辻宮司邸の裏を抜けて、光明寺の前から国博通りに出た。

 ちょっと山野草の店「うさぎ屋」に寄り道して、ピンクの大文字草を買った。ここ数年の酷暑と日照りに加え、40日を越すアメリカへの長旅の留守で、多くの山野草の鉢を枯らせてしまった。
 やっぱり秋には大文字草が欲しいと、ふと思った。
             (2012年10月:写真:日差しを浴びる月下美人)

カマキリのさよなら

2012年10月09日 | 季節の便り・虫篇

 広縁に届く日差しの脚が少しずつ伸びて、蛇口の水がいつの間にか冷たく感じられるようになった。
 朝晩の気温差が10度。早朝、ハナミズキの落ち葉が散った道路を掃く頃は、シャツの袖を伸ばしても肌寒く、ジャージーを羽織って箒を握る。やがて日差しが高くなると半袖に着替え、それでも汗ばむ中に洗濯物を干す。もういいだろうと夏物のジーンズを竿に掛ける頃には、背中の日差しが熱い。毎年繰り広げる季節変わりの習慣だが、この衣替えもあと何年重ねることが出来るのだろう。感傷ではなく、ふとそんなことを想う。

 裏山から日が昇る前の早朝、燈篭の上に一匹のカマキリがとまっていた。多分、卵を産み終わった雌なのだろう、細くなった身体に、少し破れかかった翅が痛々しい。冷たい朝風に動きも鈍く、そっと触れるとキッと首をめぐらせて目線が合ったが、いつものように斧を振り上げることもなく、鋭い筈の目線も何となく弱々しい。カメラのファインダー越しに、しばらく見詰め合っていた。あの苛烈な夏の日差しの中、一瞬の早業で鳴いている蝉を掴み捕り、鳴き騒ぐのをものともせずに貪り食っていた逞しさはどこに消えたのだろう。この冷たい朝風を払ってやりたくなるような弱々しさだった。「もう少し待ってろよ、すぐに暖かい日差しが降ってくるから…」心の中でそんな声を掛けながら、朝の食卓についた。

 昨日の体育の日、校区のウォークラリーで2時間歩いた疲れがふくらはぎの辺りに澱んでいる。11年前区長に就任した年に、いきなり「体育の日」の当番区の役割が降ってきた。高齢化が進む中で、旧態依然の運動会はすでに限界が来ており、年々参加者を募る苦労だけが加速していた。隣りの若い区長と二人で、反対する3人の区長と連夜の激論を重ね、年齢や体力に応じたコース分けで歩くウォークラリーを提唱した。訳あって、虐めにも近い反論と戦うことが、私の区長就任の初仕事となった。失敗を許されない追い込まれた状況の中で奔走、町内の皆さんの励ましの中で、私の区は4割の所帯から人口の24%が参加して他の区を圧倒した。
 5区それぞれの公民館から出発し、2時間、1時間などいくつかのコースを選んでグループを作って歩き、最後に800人を超える参加者が小学校にゴールするのを迎えながら、心の中で密かに快哉を叫んでいた。この激論をきっかけに、5人の区長達の結束が固まり、一番まとまりのいい校区となった。一番の喧嘩相手(?)とも仲良くなり、今でも年に数回のOB会で呑めない酒を酌み交わしながら、楽しく語り合っている。
 今年も800人が集った。すっかり定着して11年、あの夏の夜の激論を懐かしみながら痛む肩を庇い、町内広報紙「湯の谷西便り」用のカメラマンを務めて感無量だった。あの年に作り始めたこの新聞も一度の休みもなく、すでに144号を重ねた。お弁当を食べ終わって抽選会で栄養ドリンクを当たり、中座して国立博物館の特別展開会式に駆けつけた。人ごみの中で、フェルメールの「真珠の首飾りの少女」に会った。

 大掃除を済ませて庭に出ると、燈篭の上のカマキリは、あのままの姿勢で斧を抱え込んだまま静かに命を終えていた。ようやく届いた日差しが、ひっそりと眠るカマキリの上に優しく降り注いでいた。朝方見詰め合ったあのまなざしの儚さは、カマキリからのサヨナラだったのかもしれない。
 「暑い長い夏だったね。お疲れさん、ゆっくりおやすみ。」残した卵から、来年、きっといっぱいのちびっこカマキリが誕生することだろう。こうして、命が紡がれていく。

 少し哀しい秋風だった。
          (2012年10月:写真:カマキリの最後の目線)