雲ひとつない秋晴れに、少し厳しさを残した日差しが眩しく降り注ぐ。人声も途絶えた穏やかな団地の昼下がり、まだ色づかない八朔の実をおよそ50個と数えた目線の下、南天の葉裏に空蝉が秋風に吹かれていた。40年近い時を経た団地の庭で、今は毎年数十匹のセミが羽化して抜け殻を残していく。孫達が来るたびに、見付けだしては玄関の下駄箱の上に並べて帰るのだが、夏の忘れ物のように、たった一個の潜み隠れる空蝉だった。
地中に7年、羽化して1週間、ひたすら待ち続ける短いようで長いセミの一生だが、春から秋に掛けて、時にかしましく、時に懐かしく、時に哀しく鳴き続けたセミの声は、もうすっかり途絶えてしまった。
「歴史資料館の駐車場で見つけました。羽にほかの虫をとまらせたような珍しい蛾ですが、何と言う名前でしょう?」と、九州国立博物館環境ボランティアの仲間から写メールが届いた。早速インターネットで検索しようとして、空しく挫折した。日本で見られる蝶は、手元の図鑑では246種、これに対して蛾の種類は多いと知ってはいたが、インターネットに示された図鑑によれば、何と合計 80科 6021種!検索用の写真だけで1万枚を超えていた。1ページ50枚の写真をめくり続けると200回となる。さすがに、その根気はない。50回ほどの検索で、あえなくギブアップ。それにしても、昆虫界は凄まじい。人口一人当たり4億という個体数も頷けると、妙に納得しながら秋の夜長の検索を諦めたのだった。
昨夏、玄関先のハナミズキに異常発生したイラガの幼虫。万人に忌み嫌われる毒蛾なのだが、カメラに収めてそのあまりにも繊細緻密な造形と色彩に感動したことは以前書いた。以来、博物館通いの書類ケースのポケットには、そのイラガの写真がいつも納めてある。「虫は苦手!」という仲間がいたら、早速その写真を披露して「よく観ないから、好きになれないんだよ!」と教育的指導を施してほくそ笑んでいる。博物館の職員にも、仕事柄虫に接しているうちに、知識が増すごとに愛着を感じ始めた人がいる。嫌いなものから目を逸らすと、ますますそのものを疎ましく思ってしまう。もう一歩踏み出して見詰める……そこの踏み切りが出来れば、世界はもっともっと広がり、自然の豊かさが身体に滲みこんで来る筈なのに……。「あなたは、嫌いな虫はいないんですか?」と訊かれて考え込んだ。「ウーン、さすがにゴキブリは殺しますね」と。
旅立ちまで4日、スーツケースのパッキングを終えて、その隙間に埋める土産物を考える。前回はケースの3割がお土産で埋まり、娘のコンドミニアムの床に山積みして4人で大爆笑した。あれもこれもと少しずつのつもりが、いつの間にかスーツケースをズッシリと重くする。親心を測る重量である。そのくせ、大事なものを詰め忘れたりもする。2年振りの娘宅訪問に、舞い上がり、惑いながら、こうして今日も暮れていく。
日差しの下を、5センチほどのトカゲの子供が横切った。この夏、キアゲハの幼虫や蛹を貪った親から生まれた子かもしれないと、ふと思う。陋屋の庭で繰り広げられる食物連鎖の闘いである。それも又よし。大自然の掟に棹差す愚かさはもう要らない。
晩秋から初冬のカリフォルニア。2年前のカタリナ島の海にダイブした時の16度の水温の冷たさが肌に蘇る。それを打ち消すように、メキシコ・ロスカボスの真夏の海の暖かさも蘇ってくる。夕映えの海面に飛んだウシバナトビエイや、視界を埋め尽くしたギンガメアジの群舞、戯れ遊ぶシー・ライオン(カリフォルニア・アシカ)の夢でも見ながら、秋の昼下がりの午睡を楽しむことにしよう。
(2009年10月:写真:葉末の抜け殻)