蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

南の島へ

2006年01月25日 | つれづれに

 見上げた夜空にオリオン座があった。キーンと音を立てそうなほどに引き締まった寒気に、一瞬呼吸をためらう。夏空を支配する巨大なサソリ座、そのサソリに刺されて命を落とす漁師オリオンは、いま冬空で一段と美しく輝いている。
 暖房に倦んだ身体を醒ますために、セキュリティーのセンサー・ライトのスイッチを切って庭に降り立った。遠く国道を走る車の音が妙に近くに感じられる。澄み切った冬、時折そんな夜がある。1月がやがて終わる。まだ春は遠い。ブルッと背筋を震わせながら、南の島の苛烈な日差しが無性に恋しかった。
 一人の画家と出会ったのは南の島が縁だった。小雨振るある日、彼の講演会に招かれ、展示されている絵に見入っていた時、たまたま私達がその島を訪れていた同じ日付が記された一枚の絵を見付けた。大地を鮮やかな赤で塗り込めた強烈な絵だった。「大地は命です。赤は命の色です」と語る彼の言葉に、初め違和感があった赤の大地が、すっと心に溶け込んできた。佐賀・唐津に住む画家・乗田貞勝氏との出会いだった。以来家族ぐるみの付き合いが始まり、アトリエを訪ねたり、新宿伊勢丹の個展を訪ねたりして、次第に我が家や横浜とロスの娘の家に彼の絵が飾られるようになっていった。
 彼はその頃既にバリ島に通うこと20年余り、ひたすらバリの絵だけを描き続けていた。現場主義、自然派を謳う彼は、朝の日の出と共に東のビーチにキャンバスを立てて朝日を描き、昼間は山と大地に向かって自然と人の営みを描き、夕暮れが近付くと再び西の海辺に座って壮麗な日没を写し取っていく。年毎にその絵は透明になり、一つの境地に辿り着こうとしているかのようだった。
 これ又偶然知り合って、その作品「地球交響曲」シリーズにささやかなひとコマ・スポンサーとして参加するようになった映画監督龍村仁氏との共通の接点もあった。監督と一緒に、台風に追われて広島から新宿の個展に駆けつけたこともあった。そこで絶妙のセンスと言葉で虫を綴る西沢杏子さんという素敵な詩人にも巡り会った。
 その「地球交響曲・第2番」に登場する素潜りのかつての世界記録保持者であり、映画「グラン・ブルー」のモデルとなったジャック・マイヨールは、幼い頃唐津の海で育ち、そこで出会ったイルカが彼の生涯を決めた。乗田画伯とも親しく、訪日したときは必ず唐津に寄って画伯と一夜の語りを楽しんだという。「今度来たら一緒に呑みましょう」と誘われていたのに、実現しないままに、先年ジャックは不可解な自殺を遂げて逝ってしまった。「彼は日本語を全然覚えようとせんとですよ」渋い男前の画伯が、素朴な佐賀弁丸出しで話してくれる。会ってみたかったダイバーだった。イルカの養老院を作るというジャックの夢はどうなったのだろう。
 インドネシア・バリ島から広がった人の輪。偶然を幾つも綴って、人生は限りなく豊かになっていく。今年、福岡・岩田屋で隔年の乗田貞勝展が開かれる。そして龍村仁監督の「地球交響曲・第6番」のクランク・アップも近い。6年ぶりのバリに行って、南十字星を探してみようかな……そんなことを想いながら、オリオンの腰帯を飾る三ツ星の煌めきを見上げていた。
       (2006年1月:写真:乗田貞勝「耕到天」)

宝石箱・遅れてきたクリスマス

2006年01月12日 | つれづれに

 買い換えたばかりの体重計に乗り、飽食の報いに愕然としてお正月気分が吹き飛んだ頃、ロスの次女から大きな荷物が届いた。いつも私達の記念日やクリスマスに、忘れずいろいろなプレゼントを送ってくる彼女が、昨年のクリスマスは仕事でアジア各国を経巡る旅の多忙で、珍しく何も送ってこないままに年が暮れた。1月5日の家内の誕生日、長女の孫達から手作りのメッセージがファックスで届き、お祝いの電話がかかって来た。もう、誕生日が嬉しい年齢はは遙か彼方のものとなってしまったが、娘や孫達の優しい心遣いはやはり嬉しい。
 届いた荷物は、いつの間にかいつも送る私の荷造りの仕方をすっかりマスターしたかのように厳重且つ丁寧に包装されており、期待に急ぐ手が滑ってカッターで掌まで切りながら開いていった。次々に包まれた小品が出てくる。一つ一つに付けられ説明書が楽しい。
 「はろお!すっかり遅くなってしまったけど、X’mas&B.Dのプレゼントです。(というか、おみやげかなあ?)楽しんでくれると嬉しいんだけど。6月に会えるのを楽しみにしています。Toko  おまけにアーチーズの写真を。この青に注目してー!!」
 勤め先の海運会社のシンボルマークである鰐が平和の白い鳩を空に放っているカードに添えられた言葉に、一気に懐かしさが膨らんでいく。まるで宝石箱をひっくり返したような小物が溢れてきた。
 タイJim Thompsonのタイ・シルクのスカーフ、同じくタイ・シルクの身体に巻くドレスとパンツ、タイのドライフルーツ、プーケット島のT シャツ、バーバリーの財布、クアラルンプールのピン・バッジ(私のピン・バッジ・コレクションが又増えた)、マレーシアの蝋染めのランチョン・マット(4枚のうち1枚は私の山歩き用のバンダナにしよう)、エイの皮で作ったキーホルダー(オセアニアと刻印されている。ダイバー用の土産だろう)、メキシコの革製ペットボトル・ホルダー(一昨年、娘のセカンド・ハウスがあるメキシコ・ロス・カボスの街で見かけた物。欲しそうな顔していたのを覚えていたらしい)、アメリカのアウトドア・ブランドTimberlandのオレンジ色の長袖シャツ(先年ロスで探して見つからなかった物。これも山歩き用)、世界各地のクリスマス・ソングのCD(スペイン、ブラジル、プエルトリコ、コロンビア、バルバドス、ジャマイカ、ノルウエー、アメリカ)、アメリカの国立公園を描いた古い記念切手集、そしてミネソタ州とミシガン州の記念クオーター(25セント硬貨。アメリカが10年計画で全州の記念クオーターを発行している。そのコレクター用パネルも先年娘が送ってくれた。今、ほぼ半分ほどが埋まっている)。極めつけは、趣味が高じて殆どセミプロ並のダンサーとして数々のパフォーマンスの舞台に立っている娘の、サルサを踊る数場面をコンピューターで合成した写真パネルである。
 それぞれに意味があり、娘の思いが込められている。遅れてきたプレゼントは、その分暖かさに充ちていた。
 添えられたアーチーズ国立公園の写真。ユタ州南部は岩の芸術とも言うべき壮大な自然遺産の宝庫だが、その中の一つアーチーズには東京23区の半分に相当する広大な岩の原野に、およそ1500ものアーチ(穴の空いた岩)が点在している。ブライス・キャニオンやモニュメント・バレーと並んで、私が憧れている国立公園の一つである。2月に予定していたカナダ・イエローナイフのオーロラ・ツアーが都合で流れた分、この6月にロス郊外、ラグーナの娘の新居を訪ねることにした。ヨセミテ国立公園のネバダ滝やハーフ・ドームを一緒に登り、アーチーズとブライスも訪ねようという欲張った計画が、実は娘のカードの添え書きの意味合いである。
 抜けるような青空のもと、この巨大なアーチが夕日に赤く輝く姿を思って、早くも心が躍った。先に楽しみを持ちながら日々を生きる……それが出来る老後の何と素晴らしいことだろう。そぞろ神は今年も私達をいざなってやまない。
      (2006年1月:写真:アーチーズ国立公園)

大地の恵み

2006年01月08日 | つれづれに

 2勝2敗1引き分け。抜き上げた袋から現れた自然薯は、期待した膨らみにはほど遠かった。宝満山から吹き下ろす晩秋の風に汗ばんだ肌を嬲らせながら、腹の底に溜息が落ちていく。
 土とのふれあいに心惹かれるのは父の血だろうか。亡くなったとき庭先に並んでいた沢山の鉢たち。喘息の激しい発作であっけなく1日にして逝った父は、その前日まで息を切らしながらも庭の鉢の手入れに余念がなかった。
 広島の街中で6年間のマンション暮らしに倦んでリタイアした。毎月、留守宅の太宰府まで高速300キロを走って、その度に土の匂いに包まれながら生い茂る庭の雑草と不毛の闘いをするのが、私なりのストレス解消だった。無心に流汗を拭う一日の作業は、何故か心穏やかに、懐かしさの伴う至福の時間だった。リタイアして間もなく、「宝満自然薯の会」の存在を知って早速申し込んだ。以来5年の大地とのふれあいである。
 年会費2万円で30本の自然薯の苗と畑を与えられる。宝満山麓の畑は毎年場所を変えながら、8ヶ月の期待を育ててくれた。3月末、まだ吹く風は少し冷たい頃、最初の植え付け作業がある。畝を作り、真ん中に4メートルほどの木の枠を置き、その左右に30センチおきに苗を植え付けていく。長短2辺を開いた長さ1メートル、幅10センチほどの麻袋に、篩に掛けた山の赤土をコップ1杯分振り入れ、斜め15度に重ね植え込んで、木枠を取り去る。その開いた口に苗を置いて土を被せていく。苗は赤土を山土と思いこみ(と、オーナーは説明するのだが)、その袋の中に次第に根を伸ばし膨らませていく。育ち上がれば、畝の横の土を掘り払って袋を抜き取るだけで簡単に収穫できる。山で木の根と悪戦苦闘しながら天然の自然薯を深く掘り下げていく苦労を知る身にとって、これは信じ難いほどに見事な人間の知恵であった。
 平鍬と小型の耕耘機で30センチほど土を被せる作業の頃には、不慣れな鍬使いと中腰の姿勢に日頃使うことのない筋肉が悲鳴を上げ、30名ほどの仲間達もうんざり顔で空を見上げることになる。盛り上げた畝には苗の位置を示す細い割竹を立て、その上からマルチという銀紙状のシートを張って、1間おきに鉄パイプを立て並べていく。畝の上10㎝ほどの高さに横に細いパイプをくくりつける。ここに芽出しした最初の蔓をシッカリ巻き付かせるのが、豊かに葉を繁らせる秘訣である。ここまでの作業で2日間。その後は時折り雑草を抜きながら凡そ1ヶ月半の待機期間が続く。
 5月の連休が明けた頃、地中から伸びてきた蔓がシートの中でとぐろを巻き始める。数日毎に畑に通って、その蔓を目印の割り竹の穴から指先で折れないように引き出して横桟に誘導する。総ての芽出しが終わった頃、鉄パイプに一斉にネットを張り巡らせれば、あとは気儘に蔓を絡ませ、存分に葉を繁らせていくだけである。夏の間は時折り通って雑草を取り(マルチシートに照り返す日差しの暑さ!だから、草むしりは早朝5時からの作業となる)、パイプに巻き付いた蔓を巻きほぐしてネットに絡ませていく(これは実は台風対策の下準備である)。秋口からは零余子(むかご)の収穫を楽しめばいい。バターで炒って濃い塩水を振りかけた零余子は絶品のビールのつまみである。
 台風が接近したら慌ただしく畑に駆けつけ、一斉にネットを降ろさなければならない。放っておくと、繁った葉が風を受けてパイプが折れ、ネットを破り、蔓を切り、悲惨な結果となる。昨年はこれを怠った為に、2度の台風で壊滅状態となった。この時パイプに蔓が巻き付いているとネットが降りない。嵐が過ぎれば再びネットを戻すのだが、深く繁った葉が雨を含んでズッシリと重い。台風の吹き戻しの突風が時折り奔る中を、3人掛かりで持ち上げてパイプに戻していく。
 10月の終わり、待望の試し掘りの日が来た。その1本を掘り上げるときの期待と緊張、この一瞬を楽しむた為にこれまでの苦労があるのだ。5年目の自然薯は三度期待を裏切った。
 1年目2年目は市に並べたら5千円、1万円の値が付いてもおかしくないほどの2キロ近い野太い芋が何本も採れて、テレビ出演するほどの豊作だった。孫に掘らせたときの得意げなあの目の輝きが忘れられない。ジージ株がストップ高で跳ね上がった栄光の瞬間だった。3年目は天候と病害虫で全滅。4年目は天候と苗に恵まれず、牛蒡並の細い芋ばかりが並んだ。
 そして今回、あの巨大な自然薯を目指したリベンジの闘いは、残念ながら半分の成果に終わった。それでも1500円、2000円は値が付くには違いないのだが、かつての成果を知る私にとってはプライドが許さない。師走にかけて28本を掘り上げて今年が終わった。お歳暮代わりに幾人もの人と交わしていた約束も又空手形となって、来年に望みを繋いでいくことになった。
 土を洗い髭根を焼いて皮のまますり下ろし、濃い味噌汁で倍以上に延ばした麦とろ飯を堪能しながら、気持ちはもう来年の畑に飛んでいた。大地の恵みは五臓六腑に命の息吹を吹き込んでいった。
        (2006年1月:写真:真夏の自然薯畑)

不思議な縁に雪舞う

2006年01月06日 | つれづれに

 飽食のお正月が終わって日常が帰ってきた。1月5日小寒の朝、折から降り始めた霙混じり雨の中を、2度目のお詣りに家内と天満宮に出掛けた。大安吉日にこだわって、今日は東京に住むあるお嬢さんの中学入試合格祈願のお札を代理で受ける。
 吹く風は冷たいのに、三が日を過ぎても初詣の雑踏はまだおさまっていない。店々で焼く梅が枝餅の鉄板のかすかな温もりを慕って参道の雑踏を分けた。歩くほどに霙が雪に変わっていく。本殿の脇の受付で祈願の申込みを書き、顔なじみの祢宜と「今年は梅の開花が遅れそうですね」と新年の挨拶を交わしながら順番を待った。
 昇殿して鏡の向こうの天神様に一礼し、賽銭のチャリンという音を後ろに聴きながら神官の祝詞に頭を垂れる。祝詞の中に2度繰り返された名前を確かめ、お祓いを受けて2礼2拍手1礼の作法で祈願を終えた。
 内庭に降り立ち、梅の花を散らした盃で御神酒をいただいて帰る道は、いつの間にか激しく降りしきる雪だった。
 不思議な人の縁である。いただいたお札は、実は私が小学校時代の初恋の人のお孫さんのものである。一緒に学芸会の舞台に立ったり、放課後の校舎を手を繋いで歩くだけの幼い恋は、中学への進路が変わると共にあっけなく終わった。自分でもいまだに解らない理由で絶交の手紙を送って、以来再会までの51年間、それぞれの人生の軌跡の中で、幼く小さな初恋の花火は記憶の底に静かに埋もれていった。
 先年、思いがけず51年振りに同級生を交えて会う機会を得て、小学校の校庭を歩いた。もう藤棚だけしか昔の面影のない校庭だったが、思い出の扉が一気に開いた。
 彼女は暖かく優しい雰囲気漂う医大教授夫人、そして乾いた歯切れ良い文章と冷徹な目線を持つエッセイストとして名を成していた。以来、幾つかの本やエッセイをいただいたり買ったりして彼女の世界に入っていくうちに、家内がすっかりファンになってしまった。家族ぐるみのお付き合いとなり、そして今では私以上に親しい友人として、家内はパソコンを通じ親交を深めている。そんな家内の度量も又見事である。
 お孫さんの入試の話を知って、家内が合格祈願の代理受領を思いついた。折り返し届いた手紙のいつもながら溜息が出るような水茎のあとに、どちらかと言えば悪筆の私達は凍り付いた。お札に天満宮グッズを添えて送り出す荷物の添え書きの手紙を、いったいどちらが書けばいいのだろう!「貴方の初恋の人でしょ!」とからかう家内に、「荷造りと出荷は僕がするから!」といち早く逃げて家内に一任、いつもなら「手紙は中身が勝負よ!」とためらいなく書き進む家内が、緊張しまくって文言や字句にこだわっているからおかしい。
 この日、家内は誕生日を迎えた。これから2週間だけ同い年の日々を重ね、やがて私が又一足先に1里塚を立てる。明けた翌日、太宰府は真っ白な雪景色だった。
        (2006年1月:写真:積雪5センチの庭)

幸せの向こう側

2006年01月06日 | つれづれに

 例年になく暖かい大晦日だった。我が家恒例の越年は、大宰府天満宮の傍らにある古刹・光明寺の除夜の鐘を撞くことでけじめをつける。昨年、鐘撞きデビューをした孫も今年は帰って来ない。家内と二人だけの淋しい越年となった。
 かじかむ手をポケットで暖め、列に並んだ若者と言葉を交わしながら午前零時を待った。暗闇の彼方から早くも宵参りのざわめきが次第に高まってくる。合掌の後、家内が42番、私が43番の鐘を撞いて、払いきれない108つの煩悩を払う。夜空に煌めく篝火の火の粉を揺らしながら、沁みいるような余韻が響いた。余韻の中に今年の息災を祈って今年が始まった。
 一夜明けて、少し甘めのお屠蘇で新年を祝う。娘達も孫達もいない新年、大袈裟な2段重のお節料理はやめて、好きな物だけを並べた。大分・臼杵石仏群の傍らの窯元で見付けた徳利に、盃は秋の「奥の細道を訪ねる旅」で見付けた東北・立石(りゅうしゃく)寺麓の山寺焼きのぐい呑み、酒は剣菱の熱燗。肴は大分からいただいたモイカを博多名産の辛子明太で和えたもの(肉厚のモイカは糸造りと言うより豪快な短冊切りの風。甘みと明太の辛みが絶妙に絡む)、好物の数の子、頂き物の蕪で作った酢蕪、そして極めつけは私には欠かせない家内手作りのしめ鯖(締めて2日目の鯖は中味がまだ生々しく、虹色に輝いてまさに逸品。アレルギーで口に出来ない家内の垂涎をよそ目に、一人で1匹食べ上げる)、傍らには南部鉄を入れて煮込んだ丹波の黒豆が漆黒の照りで盛られている。もうこれだけで言うことはない。
 雑煮は母の博多風と父の関東風をない交ぜにした我が家風。鰹と昆布だし、これに水出しした椎茸だしを加えた澄まし汁に、湯で延べた角餅、博多独特のカツオ菜、蒲鉾、臼杵の肉厚どんこ椎茸、だし巻がはいる。さて、ここから家内と私の雑煮椀は袂を分かつ。博多女の家内はその上に湯通しした鯛の切り身を載せて、博多雑煮の片鱗を楽しむ。本当はアラという高級魚を使うのだが、今回はやはり大分から届いた鯛を載せた。私の椀には鰹節ともみ海苔を散らす。味と香りのコントラストはこれも絶妙である。
 こうして飽食の三日間の至福が始まる。母から受け継いだ我が家の味を家内が見事に昇華させ、これ以上はない味を完成させた。料理は我が家が一番旨い。それ故に私は、外食やよその家でご馳走になるのを好まなくなってしまった。結果として、美味しい物を食べに連れていってもらう機会が乏しくなった家内は恵まれないことになる。幸せの向こうに、実は「もうお節なんて作りたくない。温泉に行って上げ膳据え膳のお正月がした~い!」という家内の切実な叫びが秘められているのだ。
 先年、その叫びに応えてクリスマスからロスの次女のもとに脱出した。暖かいビーチでシャンペンを抜いてカウント・ダウンを楽しんだのだが、娘の友人のCBS放送に勤める友人のポールがガールフレンドのレスリーを連れて、「日本のお節を楽しみたい」とやってくることになった。日本食のスーパーに高速を走り、食材を整えて大わらわでお節料理を作る羽目になってしまい、「ロスに来てまで…こんな筈じゃなかったのに!」とぼやきながら家内は台所に立った。(ロスで総ての食材が揃うこと自体が驚異であった。)
 ワイン片手にやって来た彼等を辛口の熱燗でもてなしながら、お屠蘇から始まる料理の数々を娘の通訳で説明していった。初めて口にする日本のお節を、彼等は総てに箸を付けて楽しんでくれた。こうして家内の夢は呆気なく潰えたのだった。
 そうだ、松が取れたら、臼杵の河豚を食べに行こう。高速を2時間半走ると、臼杵の海辺の鄙びた宿に着く。朝食付き素泊まり4000円の宿で1万円の河豚コースの夕食を頼むと、溜息が出るほどの量で河豚尽くしの料理が並ぶ。尺皿に並ぶ河豚の薄作りは半端じゃない。厚みを加味すると、都会の3万円コースの4倍はある。しかもここでは、他では食えない肝が出る。肝を溶いたポン酢に小ネギを巻いた刺身を漬けて豪快にむさぼる快感!だから、この宿は気に入った人にしか教えないことにしている。
 幸せの向こうには、やはり幸せがふさわしい。飽食を楽しむ煩悩、こればかりは除夜の鐘でも払えない。いや、決して払いたくない煩悩である。
           (2006年1月:写真:我が家の食卓)