蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

木漏れ日

2016年12月31日 | つれづれに

 木立の間から注ぐ日差しが、頬に優しかった。大晦日の午後、汗ばんだ額をキリッと引き締まった冬の風が撫でていく。散り敷いた枯葉がカサカサと鳴る。いつものマイベンチの倒木に座り、傍らにトレッキングポールを立てて、キラキラと揺らぐ木漏れ日を浴びていた。
 誰一人いない私の秘密基地「野うさぎの広場」は、今日も静寂の中にあった。今年の「歩き納め」だった。

 ささやかなお正月の用意もほぼ終わり、1ヶ月振りに散策に出た。このひと月、病院通いと買い物で車を走らせてばかりいた。気持ちのゆとりを失って、毎朝の日課にしていた30分のストレッチとスクワットも忘れがちになり、ちょっとした弾みで腰を痛めた。足の弱りは腰に来る。
 「少し歩いて来よう、腰にもいいかもしれない」……そう思って歩き始めたら、やはり足が重い。用心の為にいつもの枯れ枝のマイ杖の代わりに、愛用のトレッキングポールを持った。ヨセミテの滝登りや、ザイオンキャニオンのエンジェルス・ランディングの岩壁登攀、ブライスキャニオンの土柱の間を縫うトレッキングにも連れて行ったポールである。

 九州国立博物館裏の散策路は、まだイノシシの狼藉も僅かで、黄色いツワブキの花や、甘い香りを風に乗せる水仙の花で飾られていた。屈みこみ鼻を近付けて、微かな春の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
 天満宮の杜の奥で人声がする。新年の神事や飾りに、榊の枝を切っているらしい。何故だか「ロミオ~、ジュリエット~!」と意味不明の叫びをあげるのが可笑しくて、思わず一人笑いしながら山道を辿った。
 道ばたに、太い根元だけを切り取った孟宗竹がいくつも転がっている。角松に仕立てられたのであろうか。

 「野うさぎの広場」の静寂……耳元を過ぎる風の音、枯葉が転がる音、小鳥の囀り、風に揺すられた竹がカンと鳴る音……静謐とは、決して無音ではない。無作為に届く自然な音があってこその静寂感であろう。それは、20メートルの海の底でも同じだった。頭上の岩礁を打つ涛音、カツカツと小石を打ち鳴らすような微かな音、きしるような不思議な響き……そんな中に身を置いて、限りない静けさに浸っていた。レギュレーターから無数の泡となって海に溶ける呼気さえ、そこでは静寂を醸し出す自然の音だった。
 山道の行き止まりに広がる小さな空間、そこは知る人も少なく、人影に会うことも滅多にない。だから、時にピクニック気分でお握りを頬張ったり、一人用のシートを広げて横たわり、束の間の静謐に目を閉じることもある。
 今日は、野性との出会いはなかった。道端に黒い土を盛り上げるモグラとイノシシ、時たま笹の陰に尻尾を振り立てて隠れる野うさぎ……そんな出会いがあるから、自分までふと野性に還り、雄叫びをあげたくなることがあるのだ。

 厳しい寒さの後、珍しく穏やかな春日のような大晦日を迎えた。納めることの多い1年ではあった。ハレとケと、その振幅に年毎の差はあっても、人生山あり谷ありには違いない。今年はちょっと山は低く谷が深かったが、それでもこうして平坦な道に戻り、無事穏やかに1年を終わろうとしている。「病院納め」「買い物納め」「お掃除納め」「洗濯納め」……何をしても「納め」となる師走、今日の「歩き納め」で全てが納まった。納め忘れたことは、又来年初めればいい。

 博物館から下る89段の階段の脇で、パンジーを植えている人がいた。「九州国立博物館を愛する会」の人だろう。
 「お疲れ様です。いつもきれいな花をありがとうございます」と声を掛けて、心温めながら家路に着いた。

 今夜も晴れるだろう。中天やや南にオリオン座が輝き、冬の大三角が夜空を彩る。庭に佇んで、遠くから風に乗って届く観世音寺の除夜の鐘に、1年の煩悩を払って……さあ又、新しい年に思いを馳せよう。
            (2016年大晦日:写真:木漏れ日の「野うさぎの広場」)

師走の風に

2016年12月28日 | つれづれに

 3.7度の木枯らしが窓で鳴いた翌朝、宝満山―三郡山―砥石山―若杉山と連なる山々が、うっすらと雪を頂いた。学生時代に25回の縦走を重ねた連山も、今は遠く仰ぎ見るだけである。しかし、想い出の中に、踏みしめた山径の起伏がしっかりと残っている。
 77度目の除夜の鐘に煩悩を払う夜が間近になった。あと3日で、波瀾の一年が終わる。年毎に時の流れが速くなる……歳月人を待たず……そんな実感を抱き始めたのはいつからだろう?

   人生無根蒂    人生根蒂無く
   飄如陌上塵    飄として陌上の塵の如し
   分散逐風轉    分散し風を追って転じ
   此已非常身    此れ已に常の身に非ず
   落地爲兄弟    地に落ちて兄弟と為る
   何必骨肉親    何ぞ必ずしも骨肉の親のみならん
   得歡當作樂    歓を得ては当に楽しみを作す
   斗酒聚比鄰    斗酒 比隣(ひりん)を聚(あつ)む
   盛年不重來    盛年 重ねて来たらず
   一日難再晨    一日 再び晨(あした)なり難し
   及時當勉勵    時に及んで当に勉励すべ
   歳月不待人    歳月 人を待たず

  人生には木の根や果実のヘタのような、しっかりした拠り所が無い。
  まるであてもなく舞い上がる路上の塵のようなものだ。
  風のまにまに吹き散らされて、もとの身を保つこともおぼつかない。
  そんな人生だ。みんな兄弟のようなもの。
  骨肉にのみこだわる必要はないのだ。
  嬉しい時は大いに楽しみ騒ごう。
  酒をたっぷり用意して、近所の仲間と飲みまくるのだ。
  血気盛んな時期は、二度とは戻ってこない。
  一日に二度目の朝はないのだ。
  楽しめる時はトコトン楽しもう!
  歳月は人を待ってはくれないのだから!!    (陶淵明)  ネットより

 小さな丘と深い谷を連ねたような1年だった。時として弱気になり、途方に暮れることもあった。「神は、乗り越えられない者に試練は与えない」という言葉を信じ、娘たちや孫たち、兄弟姉妹、そして周りの友人たちに支えられて、家内と二人で乗り越えてきた。紛れもなく、「人は誰かに生かされている」ということを実感した1年だった。しかし、もう不安はない。
 「終わりよければ全て良し」……何とか無事に今年を終える安らぎを確かめながら、久し振りにパソコンを叩いている。
 「ブログが、ある時期からぴたりと静止してしまった事も気付いてました」と案じる温かいメールをいただいて、ふっと心の奥に残っていた小さな氷の塊が融ける思いがした。

 庭の片隅に、大好きな水仙が開いた。家内の病室に届け、無事に退院した玄関に飾り、癒しをもらった。やがて来る新しい年にも、優しく甘い香りを振り撒いてくれることだろう。
 木枯らしに枯葉を散らし尽くした蝋梅が、無数の蕾の間から一輪の花を開いた。楓の枝先では、春の芽生えに備えた瑞々しい新芽が、健気に寒風に耐えている。目を凝らせば、庭一面に春への歩みが始まっていた。

 申年が去る。全ての喜怒哀楽を包み込んで、躊躇いなく、そして潔く去るがいい。私達には、まだまだ豊かな「明日」があるのだから。
                   (2016年12月:写真:香り広げる水仙)