一瞬、加齢による耳鳴りかと思った。甲高く、それでいて地を這うような音が「チ~~!」と続いていた。晴れるとも曇るともない中途半端な梅雨空から雪崩落ちる湿った暑熱の下を庭に出てみたら、音の源は少し生い繁り過ぎたキブシの葉陰だった。
「そうか、ニイニイゼミか!」
昨日、宵闇が木立の間に蹲り始める7時半過ぎ、石穴神社の杜からヒグラシの初鳴きが届いたばかりだった。去年により2日早い初鳴きだった。その翌日、負けじとばかりに空気を震わせたのがニイニイゼミだった。
大学時代に、なぜか好きになった童謡がある。「夕方のおかあさん」という。(作詞:サトウ ハチロー:作曲:中田喜直)
カナカナぜみが 遠くでないた
ひよこの かあさん 裏木戸 あけて
ひよこを よんでる ごはんだよォ~
・・・ごはんだよォ
やっぱり おなじだ おなじだな
ヒグラシは、日本を含む東アジアに分布する中型のセミで、朝夕に甲高い声で鳴く。その鳴き声からカナカナ、カナカナ蟬などとも呼ばれ、漢字は蜩、茅蜩、秋蜩、日暮、晩蟬などがあり、俳句では秋の季語にもなっているが、実は梅雨半ばの今頃から、ニイニイゼミと初鳴きの先陣争いを始めるセミである。
秋が深まる9月中旬まで朝夕薄明の中で鳴くヒグラシは、少し哀愁を漂わせて如何にも秋の季語に相応しい。「日を暮れさせるもの」としてヒグラシの和名がついた。
蜩という漢字にふと惹かれる。この漢字は「チョウ」または「ジョウ」と読み、蝉の総称という。また、「虫と周」でセミの声を真似たテウ、デウという擬声語とあり、昔中国人はセミの鳴き声をテウ、テウと聞き取ったことに由来があるらしい。今は中国ではセミの鳴き声は「知了(チーリャオ)」という。
好きな作家・葉室麟に「蜩ノ記」という時代小説がある。第146回直木賞受賞作である。
「豊後羽根藩の城内で刃傷騒ぎを起こした檀野庄三郎は、家老・中根兵右衛門の温情で切腹を免れたものの、僻村にいるとある男の監視を命じられる。その男とは、7年前に藩主の側室との不義密通の罪で10年後の切腹と家譜の編纂を命じられ、向山村に幽閉されている戸田秋谷だった。秋谷の切腹の日まで寝食を共にし、家譜の編纂を手伝いながら秋谷の誠実な人柄を目の当たりにするうちに、庄三郎は秋谷に敬愛の念を抱き、次第に秋谷の無実を確信するようになる。やがて庄三郎は、秋谷が切腹を命じられる原因となった側室襲撃事件の裏に隠された、もう1人の側室の出自に関する重大な疑惑に辿り着く。」
「蜩」という言葉がよく似合う深みのある小説だった。
粘りつくような31.3度の暑さの中で、昼下がりのニニイゼミを聴いていた。カミさんが、暑気払いにお茶を点ててくれた。太宰府天満宮の参道にある「梅園」という店で売られている「宝満山」という知る人ぞ知る大宰府の銘菓が、お抹茶を引き立てる。
太宰府天満宮の裏に聳える800メートルあまりの修験者の山に名前を由来し、優しい甘さに包まれた品位溢れる銘菓である。3度登ったら馬鹿と言われるほど石段が続く厳しい山に、若いころ30回近く登っているが、その程度では自慢にもならない。毎日登る人もいるし、3000回踏破を誇る人がいたりする。これはもう、憑かれているとしか言いようがない。
梅雨前線がまた南に下った。
(2021年6月:写真:暑気払いの一服)