とどまることなく、急ぐこともなく、時は淡々と過ぎて行く。しかし、人の心の中に流れる時間の速さは、一瞬も同じということはない。置かれている状況により、時に速く、時にまどろっこしいほどに遅く過ぎて行く。そして、歳を重ねるほどに、余生が短く折り畳まれていく度に、次第に週や月の変わりゆく速さに戸惑いながら過すことになる。
我が家の物差しは単純である。「え、笑点?!もう1週間が過ぎたの!!」
新聞のコラムに殴られた。5月16日、西日本新聞朝刊の「春秋」である。
「――――▼親と子が生涯であとどれくらい一緒の時間を過ごせるのか―――盆や正月など年に何回あるか。年齢や男女で異なる平均寿命などいくつかの数字を掛け合わせて答えを導く。大半の人が残り時間の少なさに驚くようだ▼大手時計メーカーが大切な人と過ごせる生涯の残り時間を算出している。例えば親と別居している30代後半の人が母親と会える残り時間は計26日ほど。50代前半では計10日足らずに。相手が父親になるとさらに半減する。残り時間は年をとるほどに減っていく―――」
父が逝ってから39年、母の没後21年になる。転勤族で、沖縄や長崎に出たり入ったりしたが、隣同士とはいうものの、父と12年母とは21年一緒に過ごせた幸せを、今になって改めて実感させられた。
翻って、横浜の長女や、ましてアメリカに住む次女と,あとどれくらいの時間を一緒に過ごせるのだろう!算出するのも躊躇うほど、残り時間は少ないとわかっている。電話だけでなく、スマホのLINEや、パソコンのSkypeで、いつでも無料で顔を見て話すことが出来る。しかし、そうそう毎日使うわけでもない。このコラムを、むしろ娘たちに読ませたい――とは思うものの、却って精神的な負担をかけるかもしれないと躊躇う気持ちもある。
コラムの最後は、こう締めくくってあった。
「――――▼親への最高のプレゼントは「時間」ともいわれる。自分の時間を使い、電話をかけたり会いに行ったり。声を聴くだけでも気分や体調の違いは感じられる。会えばなおさらだ▼母の日や父の日でなくとも、思い立った日に。時は有限である――――」
4月の終わりに、長女と上の孫娘が「生存確認」に来てくれた。それに先立ち、傷んでいた客間の網戸を張り替え、庭の雑草を一掃した。家中の網戸23枚を二日がかりで張り替えて、もう10年ほどになる。今回は傷んだ2枚だけの張替えだったが、自分でやるのはもうこれが最後だろう。
二人が帰った後、思い立って玄関と客間の障子10枚を5年ぶりに張り替えた。34年前に我が家を新築する際に、いくつか拘った。「客間と仏間は純和風にすること」、「壁は土壁にすること」、「軒は70㎝迄長く伸ばすこと」、「客間の障子は雪見障子にすること」。
以来、数年毎に自分で障子を張り替えているが、雪見障子は二度手間がかかる。隠し桟を錐で突いて外し、抑えの板バネをドライバーで押さえて外す必要がある。好きで立てた雪見障子だから、苦にはならないし、むしろ無心に張り替えを楽しむのが常だった。
逆さまに立てて上から貼ることで、刷毛から落ちた糊が貼ったばかりの障子を汚すことがない――父から習った張り替え方だった。海辺に住んでいた頃、いつも着物姿だった父が、尻を端折って波打ち際で障子を洗っていた姿が今も目に浮かぶ。5年間あしらっていた竹の模様を、玄関は松に、客間は雲竜の透かし模様にした。何故だか「95%UVカット」と銘打ってある。貼り終わったら、部屋が一段と明るくなった。
この障子貼りも、おそらくこれが最後だろう。長女に「5年後は頼む」とlineしたら、「とっくに、断念している」と返事が来た。つまり、業者に頼むということだろう。失われていく昭和の風物詩が、また一つ。
早朝6時の散歩が、もうすっかり明るい。通学路の階段下に、数年前からヒルザキツキミソウ(昼咲月見草)が群れ咲くようになった。早朝散歩の何よりもの慰めである。
曇天の今朝、時折雨粒が額に落ちる。雨の匂いが次第に濃くなり、あと10日ほどでこの辺りも梅雨にはいる。
(2022年5月:写真:ヒルザキツキミソウ)