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蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

黄金の日々

2017年04月30日 | つれづれに

 巷に、ゴールデン・ウィークという民族大移動の日々が始まった。365日休日のリタイア族にとっては、年中がゴールデン・イヤーである。後期高齢者とか情報弱者とか、粗末に扱われることが多くなったが、シルバー・エージという名前を返上し、これからはゴールド・エージと言ってもらおうか。公共乗り物のシルバー・シートも、ゴールド・シートと改称すれば、今や最大の人口構成族の我々にも、もう少し日が当たるかもしれない……そんなバカなことを考えながら、初夏の日差しの下を歩いていた。

 4月の晦日である。予報は最高気温25度と出ていた。「暑くならないうちに、山笑う緑を観に行こう」とカミさんを乗せて車を出した。勿論、渋滞の中を遠出するつもりはない。走り出して僅か5分、観世音寺境内の駐車場に車を置いて降りた途端に、緑の海に飲み込まれた。新緑と真っ盛りのツツジ、草むらに群れ咲くキンポウゲやサギゴケ、少し強めの風が、上がり始めた気温を払い去っていく。
 ショルダーにマクロの交換レンズを入れ、首から標準レンズを嚙ませた1キロほどの一眼レフを提げ、観世音寺の境内を抜けた。冷たい水とおやつは、カミさんの小さなリュックの中にある。

 7世紀後半に天智天皇によって開基され、奈良の東大寺と栃木の下野薬師寺と共に「天下三戒壇」のひとつに数えられる古刹・観世音寺。九州随一の仏像彫刻の宝庫とも言われ、高さ5メートルを超す木造の馬頭観音立像と不空羂索観音立像をはじめ、聖観音坐像、十一面観音立像、阿弥陀如来坐像 、四天王立像 、大黒天立像、吉祥天立像、兜跋毘沙門天立像、地蔵菩薩立像 、地蔵菩薩半跏像 、聖観音立像、阿弥陀如来立像など、圧倒的な存在感で宝物殿に収められている。
 特に、国宝とされる梵鐘は奈良時代の作で、京都・妙心寺の鐘と同じ木型を用いて鋳型を造った兄弟鐘といわれており、大晦日の「ゆく年くる年」では、度々除夜の鐘を全国に響かせている。

 境内の真っ盛りの藤棚に飛び交うクマンバチのホバリングを楽しみながら裏に出ると、目の前の山はカリフラワーのようなクスノキの新芽で覆われていた。この季節だけのご馳走である。
 いつも新鮮な野菜や果物を届けてくれるYさんの畑を覗いてみたら、ご夫婦で夏野菜・秋野菜の植え付けの真っ最中だった。「エンドウ豆がもうすぐですよ。また摘みに来て下さい」……我が家はいただき専門で、約束していた草取りの手伝いも、このところ果たしてない。イノシシ除けの柵に囲まれた300坪の畑の一隅は、秋になるとコスモスの海になる。
 お喋りで少し畑仕事のお邪魔をしてから坂道を上がり、住宅地を抜けて「秋の森公園」にはいった。緩やかな傾斜地を九十九折れる散策路を登り、小鳥の囀りを聴きながら小さな峠から下ると、そこはもう「春の森公園」。今年はイノシシに掘り起こされた痕もなく、花時を終えた桜の森もすっかり草と花に覆われていた。
 お休みどころのベンチでひと息入れる。汗ばんだ肌に、緑の風が清々しく爽快だった。思った通り、ハルリンドウは短い花時を終えていた。それでも、身体が染まりそうなほどの緑に包まれて、限りなく豊かな時間をほしいままにしていた。通りすがりのご近所の人が声を掛けてくる。
 「気持ちいいですね!」
 「ホント、交通費はタダだし…」
 
  かつて肩の腱板断裂手術で2ヶ月の入院をしていた頃、外出許可をもらっては、三角巾で片腕を吊りながら、冷たい風の中を冬日に僅かに温められてこの道を歩いた。すっかり葉を落としたメタセコイアが、鋭い枝先で天を突く季節だった……そんなことを思い出しながら、眩しい日差しを浴びていた。
 シオカラトンボの雌雄を久し振りに見た。ベニシジミ、ヒメウラナミジャノメ、ツマグロヒョウモン、アゲハチョウ、アオスジアゲハ、モンシロチョウ、キチョウ……蝶たちが舞い始めるこの季節、山は一斉に命が満ち溢れる。

 ゴールデン・ウイークの残りの日々は、のんびりと家籠りして庭いじりなどで過ごそう。それが終われば、私たちゴールド・エージの「黄金の日々」が始まる……歳を考えれば、そう浮かれてばかりもいられないのだが……。
 今日、太宰府は27.6度を記録した。走り急ぐ夏が、春の名残を蹴散らす勢いで近づいてくる。
                  (2017年7月:写真:楠若葉の観世音寺)

青春のカクテル

2017年04月25日 | つれづれに

 新聞に思いがけない記事を見付けて、懐かしさがこみ上げた。1959年(昭和34年)、サントリー(当時は寿屋といった)主催のカクテル・コンクールで、グランプリを取ったスノー・スタイルのカクテル「雪国」の生みの親・山形県酒田市の井山計一さんの生涯が、ドキュメンタリー映画になって公開されるという。
 ウォッカ、ホワイト・キュラソー、ライム・ジュースをシェイクし、グラスをシュガーで縁取ってグリーン・チェリーを沈める。ネットの紹介文を借りれば、『味わいのよさもさることながら、色合いが黄緑と寒色系でまとめられ、グラスのふちにまぶされた砂糖が雪の白さを連想させる。カクテル名とぴったりマッチしたこの「雪国」の姿はすばらしい。戦後の日本が生んだカクテルの傑作と謳われるカクテルである。』
 これ以上の言葉は不要だろう。因みに彼は、91歳で今も現役のバーテンダー。「僕は純然たる遊び人。人を喜ばせることが一番楽しい」という。

 時は58年前に遡る。その年、一浪の身をひたすら勉強机に縛り付け、唯一の楽しみは月に一度と決めていた近郊の山の一人歩きだけだった。生涯で一番勉強した時期であり、好きな映画館通いさえも断って、父から「時には骨休みしろ!」と言われるほどのハードな日々だった。
 当然と受け入れて、何の悲壮感もない浪人生活だった。高校3年、始業のベルが鳴ると同時に教室に入ってくることから「消防自動車」という綽名を持つ気難しい担当の数学教師から「君みたいな人間がいないと、生徒会が疲弊する。私の授業はサボってもいいから、頑張りなさい」とお墨付きをもらい、一浪を承知で生徒会にひたすら献身(と自分では思っている)、卒業時には副総務(生徒会副会長)、総務局長、教育局長、生徒総会議長、卒業アルバム編集委員長と、欲張った肩書を5つも持っていた。これでは、勉強に身が入るわけがない。
 思いがけず学業成績優秀以外の理由で館長賞をもらい、答辞を読む栄誉までいただいて卒業、俗称「記念館大学」と称する予備校に胸を張って(?)1年間通うことになる。

 翌年正月明けの夜、今のカミさんと寒い博多駅のホームで運命的な再会を果たし、大学入試を終えて晴れて大学生となった。終戦による引き上げで、小学校1年を2度経験しているから、都合2年足踏みしたことになるが、これが退職時の勤続年数に大きなマイナスになるとは、当時は思ってもいなかった。(61歳で定年退職したが、勤続年数は39年。2年分の退職金を損したことになる)
 大学入学は、同時にアルコール解禁でもあった。尤も、実は私の飲酒歴(?)は中学校に始まる。夏の林間学校を終えて学校に戻り、生徒会の仲間たちと片づけを終えた後だった。何故か医務室の棚に置いてあったウィスキーを無断で持ち出してラッパ飲み、へべれけに酔って、学校裏の西公園で風に吹かれて酔いを醒まし……とんでもない生徒会長だったが、怒られることもないおおらかな時代だった。
 高校時代の文化祭や運動会や部活の打ち上げ(コンパ)は、いつも一升瓶で売っていた安い赤玉ポートワインだった。これがしたたかに悪酔いする。頭痛と吐き気に苦しみながらプールサイドでひっくり返っていたり……決して褒められることではないし、今なら退学ものだろう。しかし、報いは待っていた。赤ワインの匂いがムット鼻につき、ワインは白しか飲めない状態が、実に数十年続いた。……アルコールにいまだに弱いのは、この辺りの原体験によるものかもしれない。
 いくつもの過ちや挫折を繰り返すのが青春、そしてそれが許されるのも青春である。
 
 大学1年のある日のデートの夜、もう店の名前も憶えていないが、バーテンに勧められてカミさんと飲んだカクテルが、前年のカクテル・コンクールで優勝したという「雪国」だった。勿論その考案者が、この井山さんだとは今日の今日まで知らなかった。
 一時期カクテルに憧れ、シェーカーとメジャー・カップ、マドラスなどを揃えて、シャカシャカとシェーカーを振っていたこともある。

 甘い想い出を絡めた青春のカクテル「雪国」。「井山さんの映画が上映されたら、観に行ってみようかな」と思いながら、たったコップ2杯のビールでほろほろと酔う初夏の夜だった。
          (2017年4月:写真:カクテル「雪国」――ネットから借用)


竜胆の広場

2017年04月16日 | 季節の便り・花篇

 気温が急上昇した。太宰府の昼下がり、28.9度!もう、初夏真っ盛りの暑い日差しである。

 圧巻の群舞だった。三日前に探した時には、僅か2輪しか見ることが出来なかった花が、昨日今日の初夏を思わせる気温に一気に花開き、足の踏み場に困るほどのハルリンドウが群れ咲いていた。いつもの「野うさぎの広場」に至る散策路である。

 昨日の「八代目中村芝翫襲名披露 お練り」のブログを書き、買い物を済ませたところで、ふと気持ちを急き立てるものがあって歩きに出た。山の花時は短い。数日の油断で見頃を外すことがある。
 同じ三日前、親しい友人二人と名残りの桜探訪に出たカミさんが、「竜胆が咲いているよ。今から来ない?」とメールを送ってきた。大宰府政庁跡から少し山手にはいった「春の森公園」である。階段と山道7,000歩を歩いてきた後でもあり、やはり私の秘密基地「野うさぎの広場」に咲くハルリンドウを待ちたくて辞退したのだった。
 その時同行した友人が、前日に見付けたハルリンドウが無残に盗掘されていると嘆いていた。こんな心無い花盗人が「私は山野草が大好き!」などとほざく資格はない。由布高原のニホンサクラソウの原種やエヒメアヤメ、バイカイカリソウ、倉木山のニリンソウやエヒメアヤメ、そして男池から隠し水に登る途中のヤマシャクヤク……どこも無残な盗掘が繰り返され、無粋なロープで保護されていたりするのを見ると、腹立たしさを越えて情けなくなる。山仲間と倒木を運んで、ヤマシャクヤクの蕾を登山者の目から隠したこともあった。

 幸い此処「野うさぎの広場」に至る散策路は、日曜日の今日でさえ人影はなく、可憐なハルリンドウが散り敷いた落葉の間に美しく群れ咲いていた。だから此処は余程心許す人にしか教えない。
 日当たりのいい広場よりも、木漏れ日だけの山道の方が花の数が多い。広場への取り付きの坂道よりずっと手前に、去年まで気付かなかった群生地がいくつもあった。その数、推定100株を超える群落である。
 昨夜の嵐で、まだ濡れている地面にひざまずき腹這いになって、カメラでほしいままに撮り続けた。山野草は、日向より日陰の方が美しい色が出る。帽子で日陰を作りながら、マクロレンズを近付けてシャッターを落とす。気が付いたら、肘も膝も泥だらけになっていた。

 倒木のマイベンチに座り、額から滴る汗を拭いながら、3時のおやつに持ってきたメロンパンをかじった。冷たいお茶が、喉元を心地よく洗う。眼下の九州国立博物館前の広場で開催されていた賑やかな「よさこい祭り」が終わり、一気に山に静寂が戻った。風の囁きが蘇り、降り注ぐ木漏れ日が優しく頬を照らす……至福の時間の始まりだった。
 これからしばらく、散策路は「竜胆の小径」となり、「野うさぎの広場」は「竜胆の広場」となる。

 汗が引くのを待って、ゆっくり帰路に着いた。戻る道に目線が変わり、新たな群生地も見付けた。歩けば5分もかからない短い散策路だが、季節季節でこれほど豊かになるのだ。
 車道に出たところに、満開の真っ赤な西洋シャクナゲがある。その根方からハタハタとキジバトが飛び立った。
 家路を辿る私を送ってくれたのは、澄み切ったシジュウカラの囀りだった。
                     (2017年4月:写真:ハルリンドウ)

初夏の「お練り」

2017年04月16日 | つれづれに

 数日前まで冬の名残に震えあがっていたのに、春を通り越して一気に初夏が来た。桜吹雪も終焉を迎え、楠若葉がもこもことカリフラワーのように湧きあがる季節である。

 博多座からカミさんに、「よろしかったら……」というお誘いのメールが届いた。6月博多座大歌舞伎「八代目中村芝翫、四代目中村橋之助、三代目中村福之助、四代目中村歌之助襲名披露公演」に先立ち、親子4人が揃って太宰府天満宮に公演成功祈願に訪れ、参道を人力車で「お練り」することになった。博多座大向うの会「飛梅会」の会長が所用で行けないから、掛け声の助っ人をお願いしたいという。
 根っからの歌舞伎贔屓・歌舞伎通のカミさんに異論があろうはずがない。滅多に見られない太宰府での大看板の「お練り」に失礼があってはならないと、少しばかり衣服を整え、汗ばむような初夏の日差しの中を太宰府駅に向かった。
 徒歩10分の我が家から小走りに急ぐ道の先に、2台の人力車が現れた。カミさんがトコトコと駆けだす。昨日名残りの桜見物に親しい友人と出掛け、15,000歩も歩いて疲れている足が縺れないかと、ハラハラしながら見守っていた。4人の同時襲名の「お練り」である。台数不足で応援に駆け付ける人力車だった。

 12時、俄かに拍手が巻き起こり、ご一行が到着した。駆け寄って人力車に乗る芝翫さんに「成駒屋~っ!」と第一声を掛ける。あとはひたすら、声掛け三昧だった。博多座社長が先導し(因みに彼は、私の高校同窓である)、襲名の4人を乗せた縦一列の人力車が、ゆっくりと参道を練っていく。声を掛け、振り向いたところをカメラに撮り、又駆けだして、原色のファッションと色つきミラーサングラスで、ワーチャカワーチャカと傍若無人に騒ぐ姦しいアジア系観光客をかき分け、自撮り棒をかいくぐりながら、先に回り横に付き、「成駒屋っ!」「八代目っ!」「橋之助っ!」「福之助っ!」「歌之助っ!」と声を掛け続けた。羽織袴の爽やかな4人が、声に応えて振り向き、笑顔で手を振りながら、シャッターが落ちるまで目線を合わせていてくれる。いつもの3階席から遠く声を落とすのと違い、手の届く目の前で反応が返って来る……これは無上の快感だった。初夏の日差しに映える役者絵のような4人、声掛けの醍醐味、此処に極まった。

 昇殿して祈願に向かうご一行を太鼓橋の際で見送り、顔なじみの宮司夫人(またまた因みに、宮司ご夫妻は、共に私の小中高の後輩である)が教えてくれた菖蒲池の傍らの献梅の現場で待つことにした。気が付けば全身汗にまみれ、喉はからから、脱水症状を起こしそうなほどの虚脱感だった。既に植え込まれた梅の側に土が盛られ、水桶が置かれ、6本のシャベルが立てられている。巻かれた熨斗には「梅に鶯」の絵と「献梅 六月博多座大歌舞伎 襲名披露公演記念」の文字が書かれていた。

 献梅を終え、天満宮の総檜造りの迎賓館「誠心館」での食事に向かう御一行を見送り、私たちも梅園の中の茶店で遅い昼食を摂った。勿論メニューは「幕の内弁当」。誘いに応じて駆けつけてくれた、カミさんが世話する「たまには歌舞伎を観よう会」100人近い仲間のうちの一人を誘って、興奮冷めやらぬ昼食の寛ぎだった。
 
 食事を済ませた帰り道、思いがけないサプライズが待っていた。(実は密かにに期待していたのだが)
 わざと道を逸れて「誠心館」の横に抜けたとき、博多座の常務と出会った。
 「もうすぐお帰りです。折角だから、一緒にお見送りしましょう」
 私服に着替え現代の若者姿に戻った子供たちは、すっかり襲名前の宗生、国生、宣夫(よしお)に戻っていた。博多座社長と太宰府天満宮宮司夫妻から紹介され、思わず伸ばした手を優しく握ってくれた芝翫さんの掌は、大きく柔らかだった。車に乗り込む4人に、「成駒屋~っ!」と最後の声を掛けて見送った。

 午後から天気が急変し、夜の闇の中を激しい雷鳴を伴って、叩きつけるような雨が襲った。
 「お練りがいいお天気でよかったネ」とカミさんと話しながら、「六月博多座大歌舞伎」への期待が膨らんでいった。
 (最後の因みに、実は私は雷鳴と稲妻が大好きである。大気を切り裂く稲妻の追っかけをしたこともあるし、地軸を轟かせるような雷鳴を聞くとわくわくと心が躍る。)

 初夏の嵐で、散り急いでいた桜はすっかり花を失い、季節は短い春から初夏への歩みを速めていくことだろう。
                          (2017年4月:写真:襲名披露挨拶)

群星(むりぶし)

2017年04月04日 | 季節の便り・花篇

 あまり読む記事がないし、翌朝再掲されることが多いから、夕刊をやめようと思った。その矢先、面白いコラムを見付けた。
 ……753年、中国から鑑真和尚が薩摩半島に上陸した時、誰よりも喜んだ聖武天皇が期待したのは、鑑真の医薬の技だった。正倉院に残されている聖武天皇が処方された鑑真の薬物が残っているが、そのうちの「五石散」という鉱物の調合薬は「虚弱体質を改善し、身体を強壮にする(男のメンツが立つ)」作用があるという。この「五石散」を服むと、体がポカポカ温まって来る。身体にこもった薬毒を消す「散発」という作用で、その散発を促す為に、そこらじゅうを歩き回らねばならず、これを「散歩」と称した。つまり、歩く健康法の起源は奈良時代の治療にあるわけだ……
 目からうろこだった。ネットにはこう書かれている……「五石散(ごせきさん)」は、古代中国で後漢から唐の時代にかけて流通していた向精神薬で、寒食散とも呼ばれる。
 鍾乳石、硫黄、白石英、紫石英、赤石脂という五種類の鉱物を磨り潰して作られたもので、不老不死の効果や虚弱体質の改善に効果があるとして中国で広く流通した。」

 一種の麻薬であり、副作用や依存症も多かったらしい。中国史上最大の書道家である王羲之も、五石散の副作用に苦しんだ被害者だったとか。
 軽々しく「散歩してくる」というのが躊躇われるような……(笑)もう暫く、夕刊の停止を申し出ないでおこう。

 同じ夕刊に「オーストラリアの珊瑚礁グレート・バリア・リーフの白化現象が進み、昨年91%に達して多くの珊瑚が死滅、回復は困難」という記事があった。
 南緯10度から24度にかけて広がり、2,600kmを超える長さに、2,900以上の珊瑚礁群と約900の島を持ち、総面積は344,400km2以上という、途方もない世界最大の珊瑚礁である。
 スキューバ・ダイバーの資格を持つ者として、一度は潜りたいという憧れの海のひとつだった。人の営みによる水温と水質変化が加速し、褐虫藻が居なくなると、もう珊瑚は生きていくことが出来ない。
 昨夏、沖縄・座間味島にダイビングを楽しんでいるとき、石垣島沖の珊瑚に白化が進んでいるという心配な話を聞いた。座間味の海も一部復活しつつあったが、かつての百花乱れ咲くように絢爛豪華な面影には遥かに及ばず、海底に散らばる死屍累々の珊瑚の残骸に心が痛んだ。回復には十年から数十年かかるといわれるが、今後も温暖化による海水温の上昇を繰り返し、決して元に戻ることはないだろう。珊瑚と海亀の保護に、ささやかな寄付をして帰ったが、「焼け石に水」の空しさが付きまとった。
 地球環境にとって、人類こそ絶滅すべき種ではないか?……しだいに確信が深まる哀しい実感である。

 庭の片隅に、ハナニラが星空のように群れ咲き始めた。座間味の夜空を飾る無数の星々、水平線から水平線まで天球となった夜空から、厚みと深みを持って雪崩落ちるように降る星屑を浴びながら、ご近所さんが集って泡盛を酌み交わす「ゆんたく」にお邪魔することが、座間味ダイビングの後の最高の醍醐味だった。
 そんな星空を思い出させるハナニラの群生……群れ為す星「群生」、これを「ぐんせい」と呼ぶより、ウチナー口(沖縄弁)で「むりぶし」と呼ぶと、17年仕事で通い詰め、一時期家族で住んだこともある沖縄への懐旧の情が、一気に高まってくる。
 嘲笑うような寒暖の渦に翻弄されて、少し風邪気味の気怠い午後である。
                   (2017年4月:写真:群れ咲くハナニラ)

「思い遣り」と「おもてなし」

2017年04月03日 | つれづれに

 芽吹き始めたイロハカエデの下の、いつもの庭石に座る。私の寛ぎの石……左脇の少し高い庭石にコーヒーマグを置いて日差しを浴びる……ささやかながら、捨て難い癒しのひと時である。
 乱高下する気温に振り回されながら4月になった。キブシは真っ盛りとなり、そろそろ花を散らす時節である。足元にも右の草叢にも、6弁花のハナニラが散り咲き、母校の校章・六光星に似た薄紫の花が日差しを照り返す。その向こう、すっかり花を落としたロウバイに下に、まだ一度も花開いたことのないシャクヤクが茎を伸ばしはじめていた。クサボケにはオレンジ色の蕾が三つ、藪になった草叢の間からフリージアが蕾を育てている。軒下の鉢では、ムスカリが何本も紫色の花穂を立てた。

 自然の天蓋として、マイベンチを夏の日差しから守ってくれるイロハカエデは、天神の杜から10センチほどの実生を抜いてきたものである。既に2メートルを越える樹になり、その種子から芽生えた新たな実生が、もう40センチほどに育っている。
 30年前、隣りの父の家から形見の松や椿などの樹木と庭石と蹲踞を移し、出入りの老庭師が日本庭園に造りあげてくれたが、私の本音としては、此処を雑木林にしたかった。野鳥や虫たちが自由に飛び交う里山風の雑木林。時にはイタチやタヌキが走り抜けてくれたら、どんなに楽しいだろう。
 しかし、もう父の代から50年近く世話になっている植木屋さんが、この庭をいたくお気に入りで、特に老松は自慢の種である。だから、いつも彼に言う。
 「この松、プレゼントするよ。此処に置いておいていいから、時々手入れを兼ねて見においで」毎年2回、馬鹿にならない剪定料をタダにしようという魂胆だが、彼もさすがにうんとは言わない。
 植木屋さんは気のいい職人夫婦で、私たちの結婚記念日には「剣菱」1本提げて、お祝いに来てくれる。お返しに、こちらもお祝いを届ける。私が肩を痛めて以来、晩冬の八朔捥ぎもご夫妻でやってくれるようになった。報酬は10個余りの実のお裾分けだけである。先日も留守中、咲き終った枝垂れ紅梅の剪定を商売抜きでやってくれていた。
 「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」……咲き終って半額になっていた盆栽を、天満宮の植木市で買ってきて庭におろした。曲がりくねっていじけた盆栽を、ごく普通の枝垂れ梅に形を整えるのは、素人ではけっこう難しい。

 植木屋さんだけでなく、博多座の営業担当や、置き薬のお兄ちゃんや、出入りの宅急便のおじさんやお兄ちゃんとも、いつの間にか家族の話をするほど親しくなり……どんな仕事の人に対しても、同じ目線でお付き合いするのは、上から目線を嫌うカミさんの性分である。だから皆、困ったときには進んで助けてくれる。これが日本人の本質なのだろう。
 外国人に対しては、近年やたらに「おもてなし」と国を挙げて唱えているが、その前に同じ日本人同士の「思い遣り」や「譲り合い」の精神が希薄になってないかを、まず考えてみるべきだろう。例えば、横道から出る時、右折待ちの時、譲ってくれる人は殆どいない。むしろトラック運転手など、プロのドライバーの方がけじめ正しい。右折車にパッシングして譲ってやると、その後ろで直進待ちしていたトラック運転手が、片手をあげて挨拶してくれる。
 「譲り合い」、「思い遣り」……それは、心の豊かさを示す指標でもある。心貧しい人が増えてきたことを、毎日のように実感する。

 八朔の周りに自然薯掘りの鍬で30センチほどの穴を幾つも穿ち、油粕と骨粉のお礼肥えを施した。この根方の地中には、推定600匹ほどのセミの幼虫が育っている。何匹かを傷つけてしまった事だろう。

 雷鳴轟く昨日とは打って変わって、汗ばむほどの陽気になった。カミさんと、御笠川沿いの桜並木を歩いてみた。戻り寒波が花時を遅らせ、まだ三分咲きというところか。川面に遊ぶシラサギが、見事な飛翔を見せてくれた。
 モンシロチョウが舞い、久し振りにルリタテハが綺麗な瑠璃色の翅を広げて桜の下を滑空した。三寒四温を重ねながら、春は躊躇いながらも歩みを進めていた。
                (2017年4月:写真:シラサギの飛翔)