気を揉ませた午後の小雨もあがり、湿った夜が落ちてきた。並木を揺する夜風が心地よく、道端に並べられた灯明から火をもらって、訪ねてきた義妹と連れだって3人で小さな提灯を揺らしながら歩いた。
「太宰府 古都の光」…もう11回目を迎える光の祭典である。9月25日、太宰府天満宮神幸式大祭の最後を飾る「千灯明」…境内の心字池に掛かる「過去・現在・未来」の太鼓橋と境内を千本の蝋燭が飾り、水上の舞台で神楽を舞う巫女の姿を幻想的に浮かび上がらせる。
この「千灯明」が発展し、参道、門前町、九州国立博物館、そして水城跡、遠の朝廷(みかど)・大宰府政庁跡、観世音寺、戒壇院、日吉神社など、古都大宰府を1万の蝋燭の灯が飾る「古都の光」という光の祭典となった。幼稚園児や小学生が描いた手作りの灯明を中心に、町内の人たちが蝋燭からLEDまで駆使して、年々幻想の度合いを深めている。
かつて、娘たちが太宰府天満宮幼稚園に通っていた頃、参道の上に掲げられた娘の絵を探して歩いた。「古都の光」になってからは、この町内の子供たちが通う小学校が担当する博物館周辺を歩き、8時から始まる「千灯明」で蝋燭の灯を着けた。
3年前からは、有名になり過ぎて人混みがひしめき合う「千灯明」を避けて、ライトアップされた古刹・観世音寺から政庁跡の「光の道」を辿るようになった。
観世音寺本堂から、灯明で描かれた「学」の文字を見下ろしていると、背中を叩かれた。偶然、仄暗い闇の中で出会った読書会の仲間二人だった。毎年、白髪頭を目印に、闇の中で声を掛けてくる人がいる。
歓声を上げながら、我が子や我が孫の描いた灯明を探す家族連れの微笑ましさの反面、この人混みの中で傍若無人に三脚を拡げる素人カメラマンにイラつく。薄闇の中で当然躓く人もいる。せめて一脚を立てるくらいの慎みがあって然るべきだろう。フォトコンテストに応じるなら、それなりの常識を持ってほしい……年々、こういう輩が増えている。特に、保護され過ぎて傲慢さが目立ち始めた高齢者や、慎みを忘れた中年女性……というと、○○ハラになるのかな?(苦笑)いやいや、我れも高齢者、どこかで誰かの顰蹙を買っているかもしれない。自戒・自重、以て「他山の石」としよう。
優先席に平然と座り、狸寝入りを決めたりスマホを弄り回して、お年寄りに席を譲ろうとしない若者も顰蹙、譲られて当然のような顔をして、「ありがとう」も言わない高齢者も顰蹙…世は上げて顰蹙の時代である。国内の喫緊の課題をないがしろにして、海外で巨万の大盤振る舞いをして歩く、したり顔の宰相は、まさに顰蹙の極みであろう。
政庁跡の光のオブジェが素晴らしかった。プラスチックで折られた鶴が、白いLEDで幻想的に光る。暖かいオレンジ色の蝋燭の灯明に包まれるように、広い政庁跡を200羽の真っ白な鶴が優雅に舞っていた。
往復6000歩ほどを歩いて帰り着いた玄関で、秋色に染まった甕が迎えてくれた。友人が、姿形のいい茄子と、「秋月」という新作の梨に添えて届けてくれたコスモスと、私が買い物のついでに駆け回って、ようやく刈り採って来た数本のススキを入れた紹興酒の甕が、爽やかに秋の夜を彩る。家内が楽しみにして続けている、ささやかな季節の演出である。
今朝方、雨樋の戸袋の下で、黄金色の突起を輝かせていたツマグロヒョウモンの蛹が羽化した。神秘的な命誕生の瞬間である。
この歳になっても、生まれて初めて目にする神秘の世界がある。ときめくような感動がある。奮い立つような喜びがある。だから、好奇心は捨てられない。老いの下り坂の途中でしがみつく儚い小石かもしれないが、その好奇心を失ったとき、坂道は一気に崖となる。
「生き延びて、秋を迎えたなァ」……例年になく、しみじみとした実感である。
(2016年9月:写真:大宰府政庁跡・光のオブジェ)