名のみの春の冷たい風が過ぎる。時たま漏れる日差しも凍てついた大地に吸い込まれ、照り返す勢いはない。読書会の仲間たちとの暖かいひとときを過ごした後の安らぎの中にいた。
2年がかりで読み進んでいる古事記の学びも豊かな時間だが、それ以上にたゆたうように過ぎていく心安らぐ語らいのひとときが嬉しい。家内に連れられて女性ばかりの中に入れてもらった。万紅の中の緑一点、というにはいささか色あせた緑なのに、居心地の悪さを微塵も感じさせない優しさが、月に一度の温もりの時間をもたらしてくれるのだった。
還暦を遠く過ぎ、身近な人を喪うことの多い年代になった。避けられないこととは云いながら、師走から3ヶ月で11件の訃報はさすがにこたえた。如月晦日近い早春の寒風が一段と身にしみる。
3日前のことである。まだ時たま雪雲に覆われる季節というのに、庭の片隅では早くも小さな春が芽生え始めていた。
去年、2年がかりでふた株に増やしたヤマシャクヤクを、雨と日照りと長旅の乾きのために駄目にした。幾つもの鉢を駄目にした中で一番気落ちしたのが、この清楚な純白の花を咲かせる鉢だった。未練がましく整理できないままに放置していたその鉢をそろそろ片付けようと表面の土を払いかけたとき、指先に固く触れるものがあった。そっと土を払った目に飛び込んできたのは、何と、ヤマシャクヤクの新芽だった。思わず声を挙げていた。
庭の片隅で何事もなかったかのように復活した小さな命。しかも、ふた株を4株に増やして、ヤマシャクヤクの新芽は早春の冷たい風の中でさりげなく空を指さしていた。思いがけない復活の喜び、そう、これが春なのだ。
四季の移ろいは人の心を豊かに育んできた。冷たく厳しい冬枯れがあるからこそ、早春の芽吹きが嬉しい。脆さと逞しさを併せ持つ小さな命に、今年も何かを教えられた…そんな思いで空を見上げた。
今朝、加速する環境破壊の影響で、地球上5000万種の生物は15分に1種の割合で絶滅し続けているという記事を読んだ。逞しい生命力に圧倒されながら思う。まだ間に合うかもしれない…そんなかすかなときめきが風の冷たさを忘れさせてくれる。
鉛色の空さえが優しく感じられる午後だった。
(2005年2月:写真:ヤマシャクヤクの新芽)