蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

珍蝶…春の出会い

2014年03月31日 | 季節の便り・虫篇
 
 3月が逝く。

 満開の桜を散らして激しい雨が奔った翌日、ようやく取り戻した春の日差しに誘われて散策に出た。変わり映えしないいつもの道だが、四季折々の横顔をさりげなく見せてくれるのが楽しくて、飽きもせずに歩いている。
 300ミリの望遠を嚙ませたカメラがずっしりと肩に重い。望遠でありながら接写機能を兼ね備えた優れもののレンズは、長女からの贈り物である。17~85mmのズームに、クローズアップレンズを嚙ませた60ミリのマクロ、それに接写機能を持った望遠レンズの3本を持って歩くと、結構老いの肩にこたえる。このところ、望遠1本で花や水辺の鳥を追いかけるのが習わしになった。
 
 博物館裏の雨水調整池を巻く木道の散策路は、私の一番のお気に入りの道である。咲き始めたスミレやキランソウを撮り、久し振りに対面したハンミョウに導かれながら歩く目の端に、ふと見慣れない色彩が閃いた。まだ冬枯れの残る斜面に1匹の蝶が翅を休めていた。小さな日溜まりの中で、ゆっくりと翅を開閉させている。タテハチョウの仲間とは知れたが、この紋様は見たことがない。ざわつく胸を抑えながら、急ぎ接写機能に切り替えて立て続けにシャッターを落とした。

 道すがら林立した土筆を見付け、ポケット一杯に摘む。この春はまだ卵とじを味わってない。これという舌の味わいはないのだが、やはりこれを食べないと心に春がやってこない。
 小暗い階段を上り詰めた車道には、早くも紅色の石楠花が咲き誇っていた。脇にそれて山道にはいり、「野うさぎの広場」に向かう小道を辿ったが、小さなスミレが木漏れ日の下で可憐に咲くだけで、まだ期待していたハルリンドウの姿はなかった。
 帰り道の木道脇に、トノサマバッタが日向ぼっこしていた。福島ではイナゴのことを「土手踏ん張り」という。あの踏ん張ったバッタの姿を、言いえて妙である。

 初夏を思わせる19度の日差しに汗まみれになって帰り着き、早速図鑑で調べ、ネットで確かめた結果、「タテハモドキ」と知れた。元々は沖縄など南西諸島にしか生息せず、九州南部の鹿児島と宮崎で見つかる個体は迷蝶とされていた。しかし、最近では温暖化の影響もあって九州南部に土着しているとされる蝶である。
 ネットに、2000年夏に福岡市西区で複数個体が観察・採集され、 食草オギノツメへの産卵も確認されて、9月21日には地元紙・西日本新聞の夕刊のトップに載ったという記事があった。
 以来14年、生息域が既にここまで拡がっているのだろうか、今日見たタテハモドキには傷ひとつなく、迷蝶とは思えない美しい姿だった。昆虫を巡る自分史に書き加えたい珍蝶との出会いだった。
 翅を立てて(閉じて)とまるのがタテハチョウ(立羽蝶)の名前の由来なのだが、この蝶は翅を開いてとまることが多い。だからモドキ(擬き=似て非なるもの)という。

 温暖化が生き物の北進を進めている。2009年9月、我が家の庭でやはり南方系のアカギカメムシを見付けた。(翌年だっただろうか、福岡市油山でアカギカメムシ7匹が発見されたという記事が出た。これまで九州本土ではほとんど観察例がなかったという。私も然るべきところに報告すればよかったと、ふと思った記憶がある。)
 この月、同じ南方系のクロマダラソテツシジミが、玉名の天然記念物の蘇鉄を蚕食しているという記事が出た。
 2013年5月には、かつては南方系だったヨコヅナサシガメを、博物館脇で私のカメラに捉えた。
 南方からだけではなく、中国原産のツマアカスズメバチが、朝鮮半島を経由して対馬に侵入・定着したという記事を見たのは今年のこと。ニホンミツバチを捕食する「侵略的外来種」で、その繁殖力の強さから九州本土への上陸が懸念されている。農薬汚染食品やPM2.5に続く隣国からの侵略は、おそらく時間の問題だろう。
 生態系の乱れが加速する。その元凶が人間であることは紛れもないが、今日は忘れて、貴重な出会いの喜びを素直に噛みしめることにしよう。
                (2014年3月:写真:タテハモドキ)

<追記>2週間後の4月14日、博物館特別展「近衛家の国宝」開会式の日に、再び同じ藪陰でタテハモドキを見た。傷一つない綺麗な翅を、日差しの中でゆっくりと開閉していた。同じ個体とは思えない、やはり此処まで生息圏を広げているようだ。
 何となく、心が弾む午後だった。

明日への飛翔

2014年03月27日 | つれづれに

 昨年より3日遅れて、御笠川添いの桜並木が明日満開となる。コンビニでお握りを2個ずつに浅漬けの漬物パックを添えて買い、家内と桜探訪の散策に出た。
 三日前に歩いた時には、まだ三分咲きにも及ばなかった桜が、昨日の暖かい雨を浴びて一気に花開いた。その川を遡行して一羽の白鷺が飛んだ。300ミリの望遠レンズを嚙ませたカメラを構え、ピントをカメラ任せでシャッターを切った。立ち姿は見飽きるほどに見ていたが、この一瞬のショットは我ながら……と自画自賛の一枚である。

 6年間続けた九州国立博物館環境ボランティアの作業が、とうとう一昨日で終了した。第2期ボランティアの3年間、そして毎年更新する登録ボランティアとして3年間、それ以上の更新は認められないルールである。文字通り雨の日も風の日も、片道10分のボランティア室に通った日々が終わると思うと、それなりの感慨がある。
 そして、町内の組長の任務も今月末で終わる。61歳でリタイアして6年間区長(自治会長)を務めると、太宰府天満宮伝統文化振興会役員の任務に自動的に就く。その合間に、太宰府市男女共同参画審議員、社会教育委員、小学校の同窓会副会長などいくつかの役職も務めたが、70歳を機に全て退いた。老醜・老害を否とする自分なりのけじめだった。地域に、ささやかながら何かを残したという自負はある。
 その傍ら、何か新しいことへのチャレンジとして、68歳の冬にカリフォルニアの水温16度の海でスキューバダイビングのライセンスを取った。カリフォルニア・カタリナ島、メキシコ・ロスカボス、沖縄・座間味島の20メートルの海底の静寂に漂い、美しい珊瑚やジャイアントケルプの林、群れ泳ぐ様々な魚影、海亀やシーライオン(カリフォルニアアシカ)などと戯れながら、新しい癒しの世界を知った。

 75歳、生活のリズムになっていたボランティアを終わり、「さあ明日から何をしよう?」と、ふと考える。半分本気のスカイダイビングや谷底に飛ぶバンジージャンプの夢は、耐用年数が切れ始めた膝や肩を思えば、もう「年寄りの冷や水」でしかないのだろう。
 続いているのは、14年目の町内広報紙「湯の谷西便り」の編集だけになった。パソコンで作るカラー刷りの新聞が、この4月号で159号を迎えた。町内行事全てのカメラ取材と記事書きと編集・印刷は、それなりの束縛があるが、度々の長期アメリカ滞在の時も欠号せずに続けていた。しかし、昨年から長期入院や湯治で、やむなく3号を途絶えさせてしまった悔いが残る。後継者を探しているが、今のところその見通しもなく、自治会長の要請のままに作り続けている。

 御笠川沿いの散策路で見た白鷺の飛翔が、何となく明日への心の高揚を感じさせる。河原の砂洲で、モズが1メートルほどの蛇をつつきまわして草むらに追い払っていた。雨上がりの水面でカイツブリがしきりに潜って魚を追っていた。その息の長さを計りながら、いつの間にか息を止めている自分がいた。セキレイが複雑に身をくねらせながら縦に飛んで捕食を繰り返していた……咲き誇る桜並木のトンネルを潜りながら、そんな躍動する自然の営みに魅せられていた。

 大宰府政庁跡で春風に吹かれながらお握りを食べ、観世音寺前の喫茶店でコーヒーブレイクして帰り着いた我が家の庭も、眩しいほどに春真っ盛りである。キブシが無数の房を提げ、庭のあちこちに勲章のようなハナニラが100輪を越す花を咲かせている。母校・修猷館高校の徽章・六光星に似た薄紫の六弁花は、蔓延るままに年々花の数を増やしている。クサボケのオレンジの花も咲き始めた。ベニバナアセビと沈丁花はそろそろ花時を終える。乙女椿が咲く。ユキヤナギが白い滝を流す。ムスカリが紫の炎を立てる。八朔の繁りの陰で、少し侘しいコブシが風に揺れる。鉢の中で咲き始めたエイザンスミレ、シボリスミレ、ハワサビ、ヒメイカリソウ、そしてチャルメルソウが日毎に蕾を伸ばし始めている。冬の間広縁に避寒させていた4鉢の月下美人を、庭の日当たりに出した。

 春は新しい季節の始まりである。白鷺の飛翔に自分を重ね、また新たな「明日の夢」を探してみよう。
                  (2014年3月:写真:白鷺の飛翔)
  

沖縄戦後史の原点

2014年03月17日 | つれづれに

 いつかは書き残したいと思っていた。四半世紀前の述懐であり、時の為政者に対する不信が確定的になったきっかけでもある。
 不気味な足音を潜ませながら右傾化が進む今、金と権力に驕り、大震災の復興も原発事故の後始末も取り残して、再稼働だ、東京オリンピックだ、憲法解釈の変更だと、一党独裁の暴走が加速する中で、改めてこれを書き残したいと思った。懲りない権力者は、民の心をよそに、あの過ちを再び犯そうとしているのではないか?…そんな思いに慄きながら、これを残す。(その後見直された数値もあるが、敢えて当時のままに転記する。)

……………………………………

 平成元年日浅い一日、初めて沖縄を訪れた社員を伴い、沖縄史の断面に改めて触れ直す機会を持った。
 ひとつには、これから沖縄との触れ合いを始めようとする彼に、美しい海、眩しい空、咲き誇る亜熱帯の花々等の「大自然」という表の面よりも、長く抑圧された歴史の中で培われてきた沖縄の「心」……それは、重く暗く哀しい面を持った裏の部分だが、むしろそこにこそ今日の沖縄の原点があるということを体感させたかったためであり、又ひとつには、私自身の本土復帰以来17年間の沖縄との関わり合いがいったい何であったのか、もう一度問い直してみたい為でもあった。
 夜来の雨が残り、沖縄にしては珍しく暗い空の下を、ガイド役の沖縄の社員二人と共に南部に向かった。
 先ず、小禄(おろく)の海軍壕……深く穿たれた壕の石段を一歩踏み下りた瞬間から、意識は一気に45年前の悲劇の沖縄戦に引き戻されていく。

 昭和17年6月5日、ミッドウエー海戦における大敗を機に一転して劣勢を見せ始めた日本軍は、南部太平洋海域の諸島を次々に失っていった。
 そして、やがて不可避とされた本土決戦の最後の防衛線として沖縄全島を要塞化し、ここを不沈基地とすべく、15の飛行場と7万7千の沖縄守備軍の将兵を配した。
 太田司令官率いる海軍部隊は、沖縄決戦に先立つ一年半前から、小禄飛行場に程近い丘を人海作戦によって深く掘り下げ、ここを司令部とした。
 しかし、十分完成を見ないうちに、既に昭和19年6月15日にサイパンを陥していた連合軍機動部隊は台湾沖まで侵攻、10月10日、艦載機数百機をもって那覇に大空襲をかけ、僅か一日にして那覇の街の九割を壊滅させるに至る。制海権・制空権は、この時点で既に連合軍機動部隊に完全に奪われていた。報復を期し、鹿児島県鹿屋基地を飛び立って台湾沖に向かった特攻機数百は、遂に一機も戻ることなく、波間に散っていった。

 昭和20年3月、空母40隻、戦艦18隻、その他艦艇1450隻が沖縄本島を包囲し、珊瑚礁の海を埋め尽くす。3月24日、南部島尻地区に艦砲射撃を開始、これを陽動作戦として、26日に那覇西方海上の慶良間(けらま)諸島に上陸した連合軍は、揚陸した野砲を本島に向け、艦砲と呼応しつつ地獄絵のような烈しい砲撃を展開する。この時、逃げ場を失った慶良間諸島では、悲惨な住民集団自決が頻発していた。
 やがて、18万の攻略部隊(補給部隊を加えると実に45万の圧倒的兵力)により、中部・北谷(ちゃたん)に無血上陸を果たした連合軍は、沖縄本島を南北に分断、沖縄決戦「殺戮の三ヵ月」が開始される。
 北部・国頭(くにがみ)方面掃討の一部を除き、主力部隊は日本軍の首里(しゅり)司令部を守る強固な防衛陣の攻防に向かい、やがて首里を陥した連合軍は、撤退を続けるに日本軍を追って、一気に南部・島尻(しまじり)方面に進撃する。統率を失った生き残り3万の将兵、戦火に追われた十数万の住民を僅か7キロ四方の喜屋武(きゃん)半島に追い詰め、ここに「鉄の暴風」と後世に言う地獄のような無差別掃討作戦が展開されることになる。この間、沖縄救援に向かった海上特攻艦隊は、戦艦「大和」以下5隻を4月7日鹿児島南方海上に失い、空海共に分断された沖縄は既に孤立無援の状況にあった。
 6月だけでも680万発、一人当たり52発という砲弾の雨、そして梅雨期の豪雨と暑熱の中、琉球石灰岩の沖縄南部に数多く点在する鍾乳洞(ガマ)に隠れ潜みながら逃げ惑う兵や住民を、火焔放射器、黄燐弾、ガス弾、手榴弾が襲い、加えて日本兵による住民虐殺や強いられた集団自決という修羅の戦場地獄絵が繰り広げられていった。
 そして6月23日、摩文仁(まぶに)の丘の頂き近い小さな司令壕における牛島中将、長参謀の自決をもって沖縄守備軍は壊滅し、北谷上陸84日をもって戦いは終わった。

 本来の戦いの原則から言えば、首里司令部壊滅の時点(5月22日)で沖縄戦は終結すべきであった。しかし、やがて必至とされた日本本土上陸に備える防衛準備の時間稼ぎとして、住民を含め最後の一人まで戦い続けることを強いられたところに、沖縄戦の悲劇があった。

  「一木一草トイヘドモ、コレヲ戦力化スベシ……」

 又、全島要塞化の為に住民が戦争準備に総動員され、防衛隊、学徒隊、女子看護隊等、結果として軍の機密に触れることになり、これが降伏より死を、そして防諜という大義名分のもとに目を覆う住民虐殺や強制集団自決をもたらし、「ひめゆり隊」「健児隊」等の悲話を生み出すことになる。
 沖縄戦の悲劇、そして戦後史における沖縄県民の本土に対する複雑な感情の原点、それは本土の為に捨石にされた、まさに悲劇としか言いようのない心の原点であった。
 戦死者・正規軍6万6千人に加え、沖縄出身の軍属・戦闘参加者・一般住民12万2千人、戦後の餓死・病死者を加えると、実に県民の四人に一人が「戦さ世(いくさゆ)」に奪われていった。正確な死者の数はいまだに把握されないままに、既に歴史の彼方に埋もれようとしている。

 昭和21年1月21日、GHQ覚書により、北緯三十度以南の南西諸島は日本と行政分離された。「アメリカ世(ゆ)」始まる。
 昭和27年4月28日、講話条約が発効。しかし、北緯29度以南の南西諸島は、そのまま米軍施政権下に置かれた。

 こうして、沖縄を極東最大の恒久軍事基地として残したまま、日本は独立国として復権していった。
 かつて中国・明と日本の両国に朝貢して生きてきた琉球王朝は、17世紀に薩摩の侵略を許し、明治政府による「琉球処分」を受けて王国から県になり、第二次世界大戦では本土防衛の捨石として血を流し、更にその沖縄を切り捨てて日本は復興していった。
 昭和47年5月15日の本土復帰で、ようやく「大和世(やまとゆ)」に辿りついた県民の複雑な心情を、私達本土の人間「大和人(やまとんちゅ)」はいったいどれだけ汲み取ってやることが出来たというのだろう。
 沖縄政策の原点は、この歴史の理解の中にこそある。そしてそれは、時たま訪れる「旅行者」の目ではなく、「生活者」の目で見ない限り、決して見えてはこない部分なのだ。
 
 旧海軍壕の石段を、深く踏み下っていく。壕の地肌には当時の鍬やツルハシの跡がそのまま刻まれ、司令室、作戦室、士官室等が横穴のように穿たれてい
る。
 壕に立て篭もる4千余りの将兵、やがて来る玉砕を予感しつつ立ったまま眠り、傷つき、火焔に焼かれ、爆風に叩かれ、ただ死ぬことにしか意義を見出し得なかった者たちの重苦しい呻きが、地の底に満ち溢れている。
 
 6月13日の部隊全滅と自決を前に、太田海軍司令官は6日、最後の訣別の言葉を打電した。その末尾に、いまひとつの戦後史の原点とも言うべき一節がある。「何よりもの恐怖は、連合軍でもなく、飢えでもなく、友軍による虐殺であった」と言わしめる軍と住民との関わり合いの中で、一司令が見せた心情がどれだけ本物であったか知るすべはないが、戦後の本土復帰を経て、更に今この時点でさえ、県民感情を支配する重要な視点となっていることを忘れることは出来ない。

 「……陸海軍沖縄ニ進駐以来、終始一貫勤労奉仕、物資節約ヲ強要サレ御奉公ノ誠ヲ抱キツツ、ツイニ報イラレルコトナクシテ、本戦闘ノ末期トナレリ。ヤガテ沖縄ハ一木一草焦土ト化セン。糧食ハ六月一杯ヲ支ウルノミナリトイフ。沖縄県民カク戦ヘリ。県民ニ対シ後世格別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ。」

 清和源氏・源為義の八男・鎮西八郎為朝は、1156年保元の乱に敗れ伊豆大島に流された。やがて島を逃れた為朝は、1165年沖縄本島北部・今帰仁(なきじん)村の運天(うんてん)港に漂着、大里按司(あじ)の妹・おみおと情を通じ、尊敦(そんとん)・後の舜天王(しゅんてんおう)を生んだ。……伝説による、琉球王朝の始まりである。薩摩藩が侵略を正当化し、住民を帰順させる為に作った伝説とも言われるが、その根拠の是非を問うのは今は措いておこう。素直に受け取り、この伝説の底に、沖縄県民の日本本土に対する、切ないまでの魂の回帰願望を感じ取るのにとどめておきたいと思う。

 後世県民に対し、私たちは何を為し得たのだろう。見捨てられた歴史の漂民として、かつて大晦日の夜、県北端の辺戸岬(へどみさき)から奄美・与論島と狼煙を交わしつつ本土復帰を祈った県民に対し、復帰後私たちはいったい何を為し得たというのだろう。
 27年間待ち続けた筈の本土復帰も、決して素直に喜びを吐露できるものではなかった。復帰間もない初の訪沖の折、その歓迎の宴席で一人の若者が立ち上がって歌い始めた。

    ♪唐(から)の世(ゆ)から 大和(やまと)の世(ゆ)
     大和(やまと)の世(ゆ)から アメリカ世(ゆ)
     ひるまさ(何度も)変わる
     この沖縄(うちなー)……♪

 歌詞も節回しも、もう記憶が薄れているが、時の為政者の思惑で転々と国籍をたらいまわしされた歴史の漂民の哀しみを、叫ぶように歌い、浴びるように泡盛を呑む若者の姿に、いたたまれぬ思いをしたことを今も忘れることが出来ない。
 これが、その後の17年間にわたる私と沖縄との関わり合いの始まりだった。

 思いを断つように海軍壕を去り、裏手の巨大な亀甲墓を見た後、かつて一年半住んだ懐かしい豊見城(とみぐすく)の住居の前を走り、糸満(いとまん)経由南部戦跡に向かった。
 成人の日から明日に続く連休で、ここも観光客が溢れている。「ひめゆりの塔」そして「摩文仁(まぶに)の丘」……ようやく日差しを取り戻したかつての戦場は、ハイビスカス、ブーゲンビリア、ポインセチア等原色の花が咲き乱れ、整備された各県の慰霊碑がやたらに明るかった。 悲劇が美談となり、血と膿と泥と火薬の匂いにまみれた地獄が、観光の為に美化されている。……何かが違う、何かが間違っている……そんな違和感が次第に高まってくる。「戦さ場(いくさば)」の跡が「観光」であっていい筈がない。

 摩文仁の頂を経て、牛島中将自決の最後の司令壕の脇から、急な崖下を巡る長い石段を下る。決して観光バスが来ないコース、薄暗い径を一気に下ったところに、「健児の塔」の裏手に潜む壕がある。火炎放射器に焼かれ、壕の一部には今も黒い影が消えない。ガジュマルの気根がもつれ下がる昼なお暗い木立の奥のたたずまい。摩文仁の丘の明るさに対比して、その明暗の落差に戸惑う思いがあった。

 摩文仁の丘の麓をひと回りして戻った所に「県立平和祈念資料館」がある。二年がかりで展示の在り方を討論し再開したこの資料館を初めて訪れ、全ての言葉を失ってしまった。
 入館するといきなり眼前に錆び付いた無数の兵器のスクラップの山が現れる。それがオブジェ「戦さ世(いくさゆ)の傷跡」……この第一展示室で沖縄戦の経緯を知って、第二展示室「戦場の住民」に導かれる。「鉄の暴風」「死線をさまよう」「ガマ」「住民虐殺」そして「集団自決」……目を覆いたくなるような実写と文字に、座り込んでしまいたくなるような衝撃があった。
 しかしその衝撃も、第三展示室「証言の部屋」の無言の告発の迫力には遥かに及ばない。黒布に包まれた広い部屋に、住民達の証言の数々が大きな本の体裁で幾つも開かれ、その上にスポットライトが静かに光を落としている。
 言葉なくページをめくり、読み進んでいく。他に類を見ないその展示が、恐ろしいほど鮮明に「戦さ世(いくさゆ)」の惨を語り掛けてくるのだ。その衝撃の深さを、これ以上語るすべを知らない。行って、その部屋に立て……そう言うしかないのだ。

 ひとつの疑問が残る。年間二百万を超える観光客が南部戦跡を訪れる。それなのに、この資料館の入館者は年間5~7万人。この日も摩文仁は観光客の雑踏だったのに、館内は私達4人の独り占めに近い静寂だった。
 後世に知らしむべき歴史の証言、そこに近寄ろうとしない観光バス……このことはいったい何を意味するのだろう。本土から来る心ない物見遊山の観光客に、まだ血を流している傷跡に触れて欲しくない……沖縄の人々のそんな思いがここを聖域に保っているのだとしたら、私達は「沖縄観光」に改めて襟を正さなければなるまい。

 打ちのめされ、さまよい出るように資料館を後にした。その後訪れた「玉泉洞」や「守礼の門」「玉陵(たまうどん)」は、もう付け足しでしかなかった。
 17年間の関わり合いでかなり知ったつもりでいた沖縄、そんな自負心を微塵に砕かれた思いで、一日を終えた。わかったつもりでいて、実は何もわかっていなかったのかもしれない。私にとって、17年間の沖縄はいったい何だったのだろう。
 安易に同情を問うものではない。厳然とした事実、歴史の真実を正しく捉え、冷静に理解し、そこを原点として本土と沖縄との関わり合いを見詰める……そこから沖縄への接し方を考えていかなければ、決して答えは出てこない。そして、歴史への償いは、かかっただけの時間をかけ直さなければならないのだ。
 沖縄の心……文化という意味でも、日本のひとつの母国である琉球……通り過ぎる「旅人」としてではなく、「生活者」の目で見て欲しいという意味はそこにある。

 那覇発福岡行き最終便は、夕暮れの空港を飛び立った。かつての「戦さ場(いくさば)」の跡は、既に深い夕闇の底に全てを包み込み沈ませていた。
                           (1989年1月15日 記)
   

    ………… ………… …………
                (2014年3月:写真:変わらぬ沖縄の海)


キミ、誰?

2014年03月06日 | つれづれに

 啓蟄の朝、戻り寒波の冷たい風が吹いた。
 「歎異抄」講座最終講を聴いて奔る小雨の中を戻り、ナンとカレーの昼食を済ませた。ようやく日差しが戻った午後、しばらく放置したままの八朔の実を取り除き、落果した二つを新たに二つ割りにして庭の燈篭の上に置いた。そろそろ散り始めた満開の白梅の枝に、二匹のメジロの姿があった。こんな小さな花にも、メジロを惹き寄せる蜜があるのだろうか。隣り合って咲く紅椿と行き来するのを確かめてリビングに戻り、カメラを抱えて「映画・中村勘三郎」を観て時折涙ぐみながら、庭の気配を窺っていた。
 やがて飛来したメジロに、そっと窓越しに300ミリの望遠レンズを構えた瞬間、思わずレンズの中で目が合ってしまった!
 「キミ、誰?何してるの?」
 何という可愛さ、気恥ずかしくなるほどに大胆に、あどけない目をこちらに向けて何度か首を傾げたあと、安心したように八朔の実を啄みはじめた。
 40枚余りシャッターを落とした中の、クスクス笑い出したくなるような一枚である。啓蟄の日の見詰め合い。そういえば一昨日、久し振りに復帰した博物館ボランティア活動の帰り、湯の谷口の階段の辺りでウグイスの初鳴きを聴いた。見事に澄み切ったふた声だった。小さな春の寸描を重ねながら、季節がしっかりと移ろっていく。この戻り寒波も、やがて春風へと変わっていくのだろう。

 昨夜、待ち望んでいたマリア・ジョアン・ピリスのピアノコンサートに出掛けた。3年前に予定されていた公演が、東北の大震災と福島の原発事故の直後であった為であろうか、急遽来日中止となり、5年ぶりに実現した福岡公演である。家内と山仲間夫妻と4人、久々のアクロス福岡シンフォニーホールに座った。
 実は、5年前の2009年4月17日のコンサートのチケットを買いながら何故か私が行けなくなり、家内と山仲間の奥さんに行ってもらった経緯がある。その理由がどうしても思い出せない。多分、急な体調不良でもあったのだろう。そして、何故ピリスがこれほど好きになったのか、その理由が又思い出せない。家内と古い手帳を引っ張り出し、その頃のブログを呼び出して調べたが、どうしても分からないままである。
 12年前の2002年の手帳を開いたら、3月26日に、「コンサート」という記載があった。アクロスの過去のコンサートの記録をネットで調べたら、ソリストと九響シリーズ 「ピリスと九州交響楽団」とある。曲目はショパン「ピアノ協奏曲 第2番」とベートーヴェン「交響曲 第7番」 他。これだと思った。(思うことにした。確かな記憶がないのが情けない。)これまで聴いたどのピアニストより好きになったのは、きっとこのコンサートだろう。早速ショパンのノクターン11曲を弾いたCDを買い、その後ショパンの「ピアノ協奏曲第1番」、「第2番」を求め、さらに来日中止になったのを惜しみながらシューベルトの「4つの即興曲作品90」、「142」を収録したCDまで買って、ピリスに聴き入った。

 昨夜の演奏曲目のひとつが、そのシューベルトの「4つの即興曲作品90」だった。ドビュッシーの「ピアノのために」、そして長い長い40分以上に及ぶシューベルトの「ピアノソナタ第21番」。譬えようのない繊細さと、激しさに圧倒された。絹糸を爪弾くような優しさ、子犬が転がるような軽快さ、そして獅子の咆哮のような猛々しさをない交ぜながら、情感豊かに謳いあげていく。「凄い!」というひと言に尽きる圧巻の演奏だった。
 ポルトガルのリスボンに生まれ、今年70歳になる女流ピアニストである。5年前に比べ、表情がふくよかで優しくなったと家内が言う。歳月は、時に人に厳しく、時に優しい。時の評価を選ぶことは出来ないが、優しく過ぎるように努力することは出来るだろう。

 メジロのつぶらな瞳に癒されて、今日も残り少ない博物館ボランティアに出掛けた。冬枯れの木立で、二羽のエナガが「チュルリ、チュルリ」と鳴きながら飛びまわっていた。
              (2014年3月:写真:目が合ったメジロ)

風の出会い

2014年03月03日 | つれづれに

 いつもの散策路だった。

 吹く風は冷たいけれども、もう木枯らしの突き刺すような鋭さはない。晴れ上がった空から降り注ぐ日差しには、紛れもなく春の優しさがあった。
 痛めた膝の様子を確かめながらゆっくりと89段の階段を上がり、休館日の九州国立博物館の脇を抜けて、雨水調整池の畔に建つ四阿でひと息を入れる頃には、額に汗がにじむほどに温まっていた。
 辿る木道の下の湿地に数本の土筆を見付けて、小さく心が躍る。その先の山道の傍らにネコヤナギが和毛をキラキラ輝かせていて、更に気持ちが躍り上がる。数日雨が続いて湿った土を踏みしめながら、木漏れ日が煌めく100段あまりの階段を上って行った。

 天神山の遊歩道に向かう途中で、向こうから若い外人のカップルが歩いてきた。すれ違おうとしたとき、男性の方が少したどたどしいけれども綺麗な日本語で問いかけてきた。
 「竈神社に、どう行きますか?」
 うーん、此処から2キロほど離れた竈神社は、言葉では教えにくい。せめて県道まで連れて行ってあげよう。
 「ご案内しましょう、こちらです」
 簡略化された分かりにくい太宰府の観光地図を見ながら、二人がついてくる。確かめてみると、梅園が見たいのだという。地図で見ると確かに竈神社の側に描いてあるが、これは太宰府天満宮の本殿裏の梅園である。道を変えて、そちらに案内することにした。
 聞けば、彼はドイツ人、彼女はバンクーバー出身のカナダ人で、福岡に住んで6年になるという。
 「梅は、何色が好きですか?」と歩きながら彼が訊き、「やっぱり、淡いピンクがいいですね」と私が答える。
 「太宰府は美しいです。此処に住みたいです」と彼女が言い「バンクーバーも綺麗な街でしたよ」と返す。
 「日本語、お上手ですね」と褒めると、「いえ、日本語とても難しいです。」と彼女が答える。
 かつて、バンクーバーからエドモントンに飛び、迎えてくれた日本人ガイドの車で5時間かけて大平原を西にジャスパーに走り、カナディアン・ロッキーを二日がかりでバンフまで駆け下ったことがあった。(因みに、彼ほど行き届いたガイドは、それ以前もその後にもお目にかかったことがない。カナダで牧場をやることを夢に、アメリカで語学を学ぶ奥さんと別居しながらガイドをやってお金を貯めてるという。あれから十数年になるが、彼はその夢を果たしただろうか?)
 その後カルガリーまで走ってガイドと別れナイアガラに飛んだけれども、あの壮大なナイアガラ瀑布を小さいと感じさせたほど、氷河におおわれた8月のカナディアン・ロッキーの山々のスケールは大きかった。
 そんな旅の思い出や、カリフォルニアのヨセミテ国立公園でキャンプしたことなどを二人と語り合いながら歩いた。今を盛りと咲き誇る梅を愛でつつ博物館のエントランスに続くエスカレーターの前まで来たところで、「博物館に行ってみたい」という事になった。
 階段を上れば120段、幸い休館日でもエスカレーターは動いている。上る途中で館長とすれ違った。
 「こんにちは、今日もお仕事ですか?」
 「いや、今日は休館日ですから」……すれ違う会話が面白い。
 
 「ご親切に、ありがとうございました」
 そんな言葉を残して、二人は教えてあげた散策路を四阿の方に抜けていった。

 なんでもない風の中の出会いだったが、感じのいい若いカップルと歩いたひと時は楽しかった。
 「やっぱり、春なんだな」……そんなほのぼのとした思いを温めながら、傾き始めた日差しの中を家路についた。
            (2014年3月:写真:膨らみ始めたネコヤナギ)