馬齢を重ねて76年。頑健だった兄と違って幼少の頃から蒲柳の質で、いつの頃からか自分は長生きできないと思い込むようになった。今考えれば、人並みに陸上競技や柔道、サッカー、ラグビー、山登りなどこなして来たし、確かに風邪を引きやすく、おなかを下しやすい体質ではあったが、ただそれだけのことだった。兄と妹は徳富蘇峰が名付け親だが(当時、婦人雑誌でそんな企画があったらしい)、「お前の名前は、電話帳から探した」とか、「京城(ソウル)の橋の下で拾った」という親の戯言を何処かで真に受けいた時期もあったらしい。いかにも「次男坊の僻み根性」そのものである。
いつしか、「俺は30までの命。だから、そこを過ぎたら毎年年齢を引いて行こう。それからは余生だ」と決めていた節もある。何のことはない、厳しい病を抱えて苦難の老後を送っている兄や妹に比べ、結局大病ひとつせず、この歳まで生きて生きた。蒲柳の質という思い込みが病に対して臆病になり、用心深くなり、結果として「一病息災」のような人生になったのだろう。
風邪気味になると主治医に駆け込む。「あなたが来たから、そろそろ風邪の季節の始まりだね」と、主治医にからかわれる。毎年インフルエンザ予防ワクチンを欠かさないせいか、もう20年ほど前にカナディアン・ロッキーのコロンビア大氷原で感染した激甚なインフルエンザ以来、一度も罹ったことがない。あのときは、家内と次女の3人ともアトランタの次女のコンドミニアムで寝込み、高熱にうなされながら十数時間の空路を帰ってきた。熱で朦朧としながら見下ろしたロッキー山脈の美しい氷河が、今も目に焼き付いている。
そんな私が生まれて初めて全身麻酔の手術と、2ヶ月の入院、6ヶ月のリハビリを体験したのが、ちょうど2年前だった。「左肩肩甲下筋断裂、上腕二頭筋長頭腱亜脱臼」凄まじい病名だった。要は「左肩腱板断裂」である。チタンの螺子4本を内視鏡手術で埋め込み、切れた腱板を縫い合わせる手術を受けた
誕生日の翌日の寒風が吹き募る朝、術後2年目の検診に向かった。建て替え前のおんぼろだった病舎が、術後間もなく新築され、今は見違えるように綺麗な病院になっている。薄暗く、小児科病棟と相乗りだったあの頃、一晩中小児の痛々しい泣き声と、ひっきりなしのナースコールのブザー音、6人部屋の凄絶な鼾に不眠の日が続いた。何とか同室の人たちと懇願してナースセンターから遠い部屋に移った夜から、全員が泥のように眠りこけた。鼾さえ、もう苦にならないほどの爆睡だった。こうして、クリスマスと大晦日と新年を過ごした。それぞれリハビリ専門の病院に転院する日に、全員が風邪を引くというオチまでついていた。今となっては懐かしい思い出である。(ちょっぴり、負け惜しみの言いぐさではあるが。)
X線で3枚の画像を撮り、主治医が一番で診てくれた。同窓の整形外科の権威の教え子という縁あって、本当に懇切丁寧に2年間ケアしてくれた主治医である。いつものように、右腕と左腕を、渾身の力で押して計測する検査があり、「大丈夫ですね。2年間診させていただきましたが、今日で終わりにしましょう」
完治宣言が下った。文字通り、ふっと肩の力が抜けた。
蝋梅が朝日を受けて艶やかに輝く季節である。春を呼ぶ蟋蟀庵の花のひとつであり、脇の紅梅もキブシも、蕾が日毎に膨らんでいく。まだ酷寒の2月を越さなければならないが、太宰府天満宮の飛び梅開花のニュースも届いたし、春への歩みは遅々としながらも確実に進んでいる。燈篭のミカンを啄むメジロを驚かさないように、潜み足で玄関に抜けた。
センター試験を受けた横浜の孫娘から、誕生日のメッセージが届いた。
「ちょい遅れちゃったけど、誕生日おめでとう!受験終ったら暇見付けて遊びに行きますね。あと一か月、頑張りますぜ。」
人生の新たな旅立ちに向かって、「サクラサク」春よ、来い!
(2015年1月:写真:綻び始めた蝋梅)