蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

閑中、閑あり!

2012年03月28日 | 季節の便り・花篇

 春寒の冷たい風の夜、西の空に金星が輝き、それを切れそうなほどに鋭い三日月が下から掬って、その真下に木星が縦に並んだ。7年半振りの貴重な天体ショーである。ひと冬寒天を飾ったオリオンも、壮大な冬空の大三角も西に傾き、やがて地平線の向こうに去っていく。酷寒の夜空は大気が澄みきって美しかった。そろそろ春霞(という綺麗な言葉の陰で、実は汚染物質を含んだ黄砂)の季節。夜空の星の競演も、もうひと頃の透明感はない。
 昨秋、カリフォルニア・ラグナ・ビーチに並ぶ店をそぞろ歩き、土産に買い求めてきたウインドチャイムが、庭の軒先で夜風にチリンとなった。もう何年も前にロングビーチのショアライン・ヴィレッジで見つけ、玄関に下げているウインドチャイムより少し細く高い音色が、この冷たい夜にはよく似合う。

 躊躇いがちだった春が、ようやく足どりを速めた。紅梅・白梅の花びらが庭に散り敷き、桃色の乙女椿と紅花馬酔木(ベニバナアセビ)、そして紫と白の猩々袴(ショウジョウバカマ)も彩りを失い始めた。代わりに、今真っ盛りの木五倍子(キブシ)が黄色い花房を花簪のようにびっしりと下げ、道行く人を振り向かせている。
 ポカポカ陽気に、雪柳(ユキヤナギ)がはじけ始めた。ふと気が付くと、庭の片隅に慌て者の花韮(ハナニラ)が一輪。早春の頃に植え替えた鉢に叡山菫(エイザンスミレ)が日ごと花を増やし、乙女擬宝珠(オトメギボウシ)尾瀬擬宝珠(オゼギボウシ)、姥岳擬宝珠(ウバタケギボウシ)、姫水擬宝珠(ヒメミズギボウシ)の新芽が初々しい。筑紫唐松(ツクシカラマツ)や梅花唐松(バイカカラマツ)、梅花碇草(バイカイカリソウ)、金水引(キンミズヒキ)、絞菫(シボリスミレ)、愛媛菖蒲(エヒメアヤメ)も新芽を伸ばし始め、鯛釣草(タイツリソウ)に蕾が着いた。やがて哨吶草(チャルメルソウ)が立つだろう。10輪ほどの蕾を着けた筑紫石楠花(ツクシシャクナゲ)は、まだまだ硬い。

 日差しに誘われたように、朝から赤立羽(アカタテハ)が頻りに訪れる。待っていた例年の早春の使者である。早朝から張り詰めたように四十雀(シジュウカラ)が鳴き、時折雀(スズメ)の囀りも聞くようになった。昨年のように、目白(メジロ)が頻繁に訪れたり、鵯(ヒヨドリ)が姦しく騒ぎ立てながら庭の木の実を啄ばみ尽くす光景は見られない。新聞の投稿欄にも、山の実りが豊かで、小鳥ばかりでなく猪(イノシシ)も里に下りてこないという記事が相次いだ。山が豊かになると里は寂しくなる。蜜蜂(ミツバチ)の羽音はまだ聞かれないけれども、先日の新聞に、梅の花に日本蜜蜂(ニホンミツバチ)が群れて訪れているという投稿があった。八朔(ハッサク)の花が開く初夏には、きっと蟋蟀庵の庭にも来てくれることだろう。
 何事もないのに、何となく心浮き立ち気持がざわつく季節、それが春。カメラ担いで山野草を追っかけ、高原を走って露天風呂の夜に憩うドライブが恋しくなる季節である。
 
 意識して花や樹木、蝶や昆虫、小鳥や獣の名前を漢字で書いてみた。「フーン、こんな字を書くんだ!」と納得する反面、「やっぱりカナ書きの方が、想像する世界が広がるよなぁ」と呟いてみたり…一生懸命働いている人がいる平日の昼下がりだというのに、時間の束縛から解放された年金生活者の「閑中、閑あり」の贅沢を思った。

 先日のブログに、太宰府を去る選択肢のことを書いた。驚くほどの反響に、いささか途惑っている。「え~っ、太宰府を離れちゃうんですか!」と惜しんでくれる声と、「こちらにいらっしゃるんですね。楽しみです!」という期待の声。
 町内でも噂が燎原の火のように(少し大袈裟かな?)広がり、「迂闊なことは言えないな」と反省すること頻りである。まだまだ一年も2年も先の選択の可能性だし、片付けなければならないことや、成り行きを見なければならないことが山ほどある。この歳で住処を変えることは大変な決断が要るし、煩雑な作業でもある。そこを穿ったように「その前に、気が変わるかも…」というメールを寄せてくれた人もいた。いずれにしろ、沢山の人たちに包まれて生きていることを、ありがたく実感した1ヶ月だった。

 何はともあれ、弾むようなたけなわの春を、今は心ゆくまで楽しむことにしよう。
            (2012年3月:写真:満開のキブシ)

言うまいと思えど…

2012年03月11日 | つれづれに

 この一文に敢えて写真は載せない。瞋恚のほむらが燃え盛る、真っ赤な色だけで染め上げたいとさえ思う。

 3・11東日本大震災から一年。14時46分、サイレンが鳴り響く中に、日本中が鎮魂の黙祷と祈りに包まれた。朝からテレビは震災一年の特番一色だった。
 被災地を雪が舞う。震災と大津波という自然災害だけでも未曾有の惨劇なのに、想定を怠った原発事故という驕りの人災が加わって、事態の収拾を数十年規模にまで拡大してしまった。いろいろな意味で、胸に迫る画面には事欠かない。蘇る恐怖がある。こみ上げる涙がある。抑えがたい怒りがある。健気さに送りたい拍手がある。挫けない姿に感動がある。少しずつ見えてくる希望がある。そして、それに励まされている無力な自分がいる。

 呆然と廃墟を見詰める被災者。帰るあてもなく、住み慣れない町での生活を余儀なくされる避難者。遅々として進まない除染作業。持って行くあてのない汚染水や汚染瓦礫の山。心臓バイパス手術の予後を押して式典に臨む天皇。40年後の廃炉に向かって、放射能の中で命がけの作業に励む下請け・孫受け・曾孫受けの作業者達。住民を守って、自らは津波に消えた警察官。恩返ししたいからと、救難ヘリのパイロットを目指して学ぶ高校生。島の被災地で、汚泥にまみれた中から食器や写真などを拾い集めている米軍海兵隊員。仲間や家族を失いながら、懸命に復興に尽くす自衛隊員。海の上でこのときを迎えた一人の漁師が、後ろ手を組んで亡くなった仲間達に黙祷を捧げている。「掌だけは合わせたくない。だって、俺の中ではまだ生きてるんだから。」…枚挙にいとまないほど数々のドラマがある。

 その一方で、原発再稼動の為の住民説得の先頭に立ちたいと広言する首相。大停電という刀で脅しながら原発再稼動を謀り、賠償金の財源に行き詰って「電気料金値上げは電力会社の権利」と言い切って恥じない電力会社トップ。…もう、言葉がない。
 この一年の政府の動きの鈍足・愚行は目を覆う。スタートしたばかりの復興庁に早くも納得出来ない温度差があらわれ、地域の怒りをかった。地域出身代議士の水面下での蠢きさえ疑いたくなってくる。疑心暗鬼の多くが当たってしまうほど、政治という暗黒世界の闇は深く汚く恐ろしい。
 この非常時に、政治家は、いったい何やってんだろう!相変わらず利権・金権・権盛欲にまみれ、児戯にも劣る政争を無駄に繰り返す党首たち。野次ることと反対することしか知らない愚かな陣笠連中。常識を欠き、民の竈の煙さえ見ようとしない二代目三代目の七光り議員共。お馬鹿な放言をして、短期間で雛壇を追われるたらいまわし大臣。原稿の朗読と揚げ足取りに終始する国会中継は、この一年の最大の醜悪な茶番だった。これはもう笑劇というより、国民にとっては耐え難い悲劇でしかない。国民が嘆き、日本人の秩序立った災害への対応姿勢に感動した世界中が、今は呆れ返って笑っていることだろう。そんな政治屋連中が、したり顔で「絆」という言葉を口にするのを聞くと、「てめえらだけには、言ってほしくない!」と身体が熱くなるほどの怒りがこみ上げてくるのだ。

 年寄りの腹立ちと、笑わば笑え。我が家の包丁は、刺身が引けるほどよく切れる。マイ砥石を持って、マイ包丁を研ぎ上げて来た数十年。俺を怒らせたら怖いぞ!と嘯きながら、空しく蟷螂の斧を振り上げ続けて一日が暮れた。
 明日は又、この太宰府でさえ2度という寒波が還ってくる。冬将軍よ、被災地にだけは、もう振り返ってくれるなよ。
            (2012年3月:写真:空白に怒りの真紅を見て欲しい)

そして、一年…

2012年03月11日 | つれづれに

 この日を待っていたかのように、この朝庭の白梅が開き始めた。寒波が開花を遅らせ、例年先に咲く紅梅は、まだ硬い蕾のままである。
 あの日、たまたま点けていたテレビで、街に襲い掛かる津波の凄絶な生中継を観て、九博ボランティアの五人会の仲間達に「すぐテレビ点けて!」とメールを送った。
 今日は終日、「3・11から一年」の特番が流され続けている。思いも新たにこの一年を思う。懸命に生きる被災者達と支援を続ける人たちにとって、あまりにも積み残したことの多い一年だった。過激に憤りをこめて送ったメールに、仲間達から返信が届いた。

 『一年前メールを頂いたときは、丁度キルトのお教室の最中でした。一年後の今日あの瞬間は、九博の荷解場でメンテの作業中です。
 直接的には何も出来ませんが、精一杯生きることで何かの支援になればと思います。』(T)

 『一年前の今日は、日本にいた人みんなが信じられない光景を目の当たりにしました。あれから一年。わかったことは、いろんな意味で、何があるか誰にもわからないということ。そして、積み重ねたつながりや新しい出会いでの新しいつながりが、必ず生まれるということでしょうか。
 世間に対して、大きなことは出来ていませんが、私も与えられたものの中で、精いっぱい生きて、身近な社会でお役に立つことで、間接的にも支援につながれば幸いです。』(Y)

 『月日の経つのは早いですね。昨年の3月11日は仕事中で、勤め先のテレビで映像を見ました。何が起きているのか実感がわかず、まるで映画を見ているようでした。あまりにも酷い現実でした。
 あれから一年、少しずつですが着実に復興を遂げていく被災地に、こちらが励まされている気がします。お互いが出来ることを、助けあって行うことが大事ですね。頑張ろう、日本!』(S)

 『あれから一年経ったのですね。早いような、長かったような…ちょうど一年前の事を、昨日のように覚えています。一年前のこの日も、福岡はすごくいいお天気でした。
 ちょうど博多駅開業の一日前。地震が起きたその時間、私は会社ビルの屋上にいました。…明日の本番が楽しみだね、なんて、呑気なことを言いながら笑っていたのを覚えています。オフィスに戻ってきてメールを見て、急いでネット検索しました。あの日ニュースで見たあらゆる映像は、衝撃として私の心に未だ突き刺さったままです。
 そしてあれから一年後の今、今日は日曜日ですが、一人出勤しています。時間があれば、意識して同じ場所に立ってみようと思います。
 生きている幸せ、笑っていられる幸せ、私が私でいることができる、あらゆる「今」に、感謝です。みんなにとってステキな一日でありますように。』(N)

 それぞれに、それぞれの『3・11』がある。
 被災者の一人がインタビューに答えた言葉が耳に残った。「もう援助しないで下さい。駄目な人間が増えます。…私達はいただくことに慣れてしまいました…。」

 改めて思う。助けるって何だろう?遠く離れて、何不自由ない暮らしを続けている自分に出来ることは、いったい何だろう?
                   (2012年3月:写真:綻び始めた白梅)