夜更けの静寂の底で庭石に座り、カネタタキを聴く。楓の繁った葉陰の庭石は、私の憩いの席、時にはコーヒー片手に葉風を聴くこともある。
右手の蝋梅の辺りで1匹、左手のキブシの方から1匹、そして後ろ髪の辺りの紅梅の枝先から1匹、夜風の中でひたむきにチンチンと澄み切った鐘を叩きながら、雌を誘っている。鳴く虫の季節、それは種を残す交配の季節でもある。
朝5時前の薄明に鳴きはじめていたヒグラシが、もう5時半を過ぎないと鳴かない。夜明けが遅くなり、日毎に夜が長くなっている証しである。
2時間立ち続けて、40人分の天麩羅を揚げた疲れが少し膝に来ている。2時間歩くのは平気になったが、じっと立ちっぱなしの2時間は、痛めた膝に報いが来る。時折寄りつく哀れ蚊の羽音を手で払いながら、しばらくカネタタキの求愛の声を聴いていた。
月に一度、公民館に希望者を寄せて手作りのお昼ご飯を食べる、「湯の谷西ランチルーム」が大好評のうちに2回目を迎えた。誰でも参加できるように全区民に声を掛けているが、当然のことながら集まるのは高齢者が多い。独り暮らしで毎日黙って寂しい食事を摂る人たち、会話の少ない二人暮らしのお年寄り、70代半ばを過ぎる我が夫婦が「まァ、お若い!」と声掛けられる世代である。全て、かつて6年間の区長(自治会長)時代に親しんだ人生の先達や仲間たちである。見知らぬ顔は一人もない。
私の後を引き継いでくれた元女性区長の提案に賛同した福祉の会「ひまわり会」の有志が、それぞれの家庭料理でメニューを決め、朝から手作りする。その過程自体が、ひまわり会員の楽しい語らいの場でもある。まず自分たちが楽しくないと、この種の企画は参加者を楽しませることは決して出来ない。
今月は、炊き込みご飯、冷やしにうめん、茄子の胡麻酢和え、そしてゴーヤの天麩羅のリクエストが我が家に来た。
区長時代に、家内と「井戸端サロン」を始めた。月に一度公民館に集まって、お茶しながらお喋りを楽しむ所謂「ふれあいサロン」だが、月並みを嫌って「井戸端サロン」と名付けた。2時間余りで解散しても、話足りない人たちが帰り道に三々五々立ち止って話が弾む。称して「道端サロン」という。その席に、沖縄風に衣に味をつけて揚げるゴーヤの天麩羅を、家内が持ち込んで以来町内に広がり、今ではこの団地の名物レシピとなっている。
そこで、男の料理教室の派遣料理人(?)の私の出番である。マイ包丁と、黒地に歌舞伎の隈取をあしらったお気に入りのエプロンを着けて颯爽と(?)と登場。と言っても、衣に小麦粉と卵を溶き、塩と醤油で味を調えるのは家内の役目、この派遣料理人はゴーヤを切り、衣をつけて揚げるだけである。もう死語になった「ますらお派出夫」という言葉を思い出しながら、2時間立ちん坊の天麩羅職人を演じた。
かつて長崎に単身赴任した3年と10日、酒の飲めない身の哀しさ、居酒屋で飲みながら夕飯を済ませる芸もなく、ファミレスで独り食事する哀れさがいやで自炊を決めた。
家内を師匠として度々電話でレシピを聴きながら毎晩の料理に悪戦苦闘し、接待の席以外は全て自炊を続け、何とか包丁捌きや自分なりの味付けを身につけてきた。これが今になって役に立っている。それまでは御多分に漏れず、企業戦士…と言えば聞こえはいいが、家事に関しては全くの「役立たず亭主」でしかなかった。
「男の自立」とは食うことを自前で出来るようになること……それを家内が教えてくれた3年と10日の単身赴任だった。納得の経験則である。
当時のスーパーには、まだ一人用の食材やお惣菜などなく、ついつい買い過ぎ・作り過ぎ・食べ過ぎで、半年で6キロも体重が増える羽目に陥った。幸い住まいと定めた諫早のアパートの近くに小さな市場を見付け、他愛無い会話を楽しみながらアサリ貝をひと掬い、茄子1本、アゲマキを5本などと分けてもらって、一人分の食材を確保することが出来るようになった。遠い日の「ますらお奮戦記」である。
参加者の明るい笑顔と、尽きることのない語らいは本当に楽しそうだった。ゴーヤの天麩羅も好評で、家内共々面映ゆいお褒めの言葉をいただいた。
「湯の谷西ランチルーム」の広報担当として次回の開催案内を配りながら、「ありがとう。ご馳走様でした」の言葉に、癒すはずの私たちの方が癒されていた。
夜更けの小さな鐘の音は尽きることなく、どこからか聞こえてくるミツカドコオロギの鈴の音を交えながら、いつまでも続いていた。
少し痛む膝小僧をさすりながら、庭石から夜更けの庭に立った。
夜風には、紛れもなく秋の気配が忍び寄っていた。
(2015年8月:写真:天麩羅を揚げる派遣料理人)