蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

ますらお奮戦記

2015年08月28日 | つれづれに

 夜更けの静寂の底で庭石に座り、カネタタキを聴く。楓の繁った葉陰の庭石は、私の憩いの席、時にはコーヒー片手に葉風を聴くこともある。
 右手の蝋梅の辺りで1匹、左手のキブシの方から1匹、そして後ろ髪の辺りの紅梅の枝先から1匹、夜風の中でひたむきにチンチンと澄み切った鐘を叩きながら、雌を誘っている。鳴く虫の季節、それは種を残す交配の季節でもある。
 朝5時前の薄明に鳴きはじめていたヒグラシが、もう5時半を過ぎないと鳴かない。夜明けが遅くなり、日毎に夜が長くなっている証しである。
 2時間立ち続けて、40人分の天麩羅を揚げた疲れが少し膝に来ている。2時間歩くのは平気になったが、じっと立ちっぱなしの2時間は、痛めた膝に報いが来る。時折寄りつく哀れ蚊の羽音を手で払いながら、しばらくカネタタキの求愛の声を聴いていた。

 月に一度、公民館に希望者を寄せて手作りのお昼ご飯を食べる、「湯の谷西ランチルーム」が大好評のうちに2回目を迎えた。誰でも参加できるように全区民に声を掛けているが、当然のことながら集まるのは高齢者が多い。独り暮らしで毎日黙って寂しい食事を摂る人たち、会話の少ない二人暮らしのお年寄り、70代半ばを過ぎる我が夫婦が「まァ、お若い!」と声掛けられる世代である。全て、かつて6年間の区長(自治会長)時代に親しんだ人生の先達や仲間たちである。見知らぬ顔は一人もない。
 私の後を引き継いでくれた元女性区長の提案に賛同した福祉の会「ひまわり会」の有志が、それぞれの家庭料理でメニューを決め、朝から手作りする。その過程自体が、ひまわり会員の楽しい語らいの場でもある。まず自分たちが楽しくないと、この種の企画は参加者を楽しませることは決して出来ない。
 今月は、炊き込みご飯、冷やしにうめん、茄子の胡麻酢和え、そしてゴーヤの天麩羅のリクエストが我が家に来た。

 区長時代に、家内と「井戸端サロン」を始めた。月に一度公民館に集まって、お茶しながらお喋りを楽しむ所謂「ふれあいサロン」だが、月並みを嫌って「井戸端サロン」と名付けた。2時間余りで解散しても、話足りない人たちが帰り道に三々五々立ち止って話が弾む。称して「道端サロン」という。その席に、沖縄風に衣に味をつけて揚げるゴーヤの天麩羅を、家内が持ち込んで以来町内に広がり、今ではこの団地の名物レシピとなっている。
 そこで、男の料理教室の派遣料理人(?)の私の出番である。マイ包丁と、黒地に歌舞伎の隈取をあしらったお気に入りのエプロンを着けて颯爽と(?)と登場。と言っても、衣に小麦粉と卵を溶き、塩と醤油で味を調えるのは家内の役目、この派遣料理人はゴーヤを切り、衣をつけて揚げるだけである。もう死語になった「ますらお派出夫」という言葉を思い出しながら、2時間立ちん坊の天麩羅職人を演じた。

 かつて長崎に単身赴任した3年と10日、酒の飲めない身の哀しさ、居酒屋で飲みながら夕飯を済ませる芸もなく、ファミレスで独り食事する哀れさがいやで自炊を決めた。
 家内を師匠として度々電話でレシピを聴きながら毎晩の料理に悪戦苦闘し、接待の席以外は全て自炊を続け、何とか包丁捌きや自分なりの味付けを身につけてきた。これが今になって役に立っている。それまでは御多分に漏れず、企業戦士…と言えば聞こえはいいが、家事に関しては全くの「役立たず亭主」でしかなかった。
 「男の自立」とは食うことを自前で出来るようになること……それを家内が教えてくれた3年と10日の単身赴任だった。納得の経験則である。
 当時のスーパーには、まだ一人用の食材やお惣菜などなく、ついつい買い過ぎ・作り過ぎ・食べ過ぎで、半年で6キロも体重が増える羽目に陥った。幸い住まいと定めた諫早のアパートの近くに小さな市場を見付け、他愛無い会話を楽しみながらアサリ貝をひと掬い、茄子1本、アゲマキを5本などと分けてもらって、一人分の食材を確保することが出来るようになった。遠い日の「ますらお奮戦記」である。

 参加者の明るい笑顔と、尽きることのない語らいは本当に楽しそうだった。ゴーヤの天麩羅も好評で、家内共々面映ゆいお褒めの言葉をいただいた。
「湯の谷西ランチルーム」の広報担当として次回の開催案内を配りながら、「ありがとう。ご馳走様でした」の言葉に、癒すはずの私たちの方が癒されていた。

 夜更けの小さな鐘の音は尽きることなく、どこからか聞こえてくるミツカドコオロギの鈴の音を交えながら、いつまでも続いていた。
 少し痛む膝小僧をさすりながら、庭石から夜更けの庭に立った。
 夜風には、紛れもなく秋の気配が忍び寄っていた。
              (2015年8月:写真:天麩羅を揚げる派遣料理人)

記憶の底から

2015年08月26日 | 季節の便り・虫篇

 台風一過、少し高くなった夕空に、真っ白な入道雲が湧きあがった。石穴稲荷の杜の上に盛り上がる雲の姿は、まだ夏の雄渾。
 久し振りに直ぐ近くを駆け抜けた大型台風15号が、2階の寝室を家鳴り震動させ、激しい風雨の音に眠れない一夜を過ごした。かつて、真上を通り過ぎた11号台風、まだ現役の長崎支店長をしていた頃の夜だった。週末に帰省し、家を揺する暴風雨に慄きながら一夜明けて、任地長崎の様子が気になって朝早く長崎に走った。町中がブルーシートに覆われ、この時、わが家の屋根も数枚の瓦を失った。
 あの頃に比べると、最近の天候には中庸というものがない。晴れれば36度が当たり前の猛暑、降れば豪雨・豪雪・土砂崩れ…子供の頃は30度を超えたらニュースになっていたような気がする。28度くらいで泳いでいた…そんな記憶の底のあれこれも、どこまで真実だったのか…あまり自信はない。
 直撃コースを向かってくる天気図に、念のため前日の夕方迎撃態勢(?)をとった。カーポートの屋根を3本のロープで庭石に縛り付け、飛びそうな庭道具を物置に収め、月下美人などの高い鉢を縁側や玄関に収納し、山野草の鉢も片付けた。日よけの天津簾を巻き取り、旅行の時以外は閉めない雨戸を立てて休んだ夜中から、激しい暴風雨となった。

 2月、珍しく県会議員選挙に本気で応援体制を取り、わが家で支援する女性候補者を囲む会を開いた。広縁に避寒させていた月下美人の鉢4つを庭に出した。会を終えて再び広縁に戻すことを忘れたたった一夜の気の緩みで、低温にやられて殆どの葉が傷み、変色して枯れてしまった。
 諦めて40年近い歴史を重ねた鉢を処分しようと思っていた春、すべてが奇跡の復活を遂げた。まだ新芽を出して再生中であり、今年の花は諦めていたが、真夏の日差しの中で枯れ残った葉先に4輪の蕾が芽吹いた。生命力に驚嘆しながら、5ミリほどに育った蕾を見守っていた矢先の台風襲来である。これは真っ先に避難させなければならない鉢だった。

 寝不足の目をこすりながら5時前に起きだし、テレビをつけた。熊本に上陸し、久留米を通過、このままでは真上を通りそうなコースに、少しワクワクしながら風の音を聴いていた。
 最接近した頃から俄かに風雨がおさまり、台風の目かと思われた。隣町の飯塚を抜けたあと、2時間ほどして吹き返しが来た。玄関の引き戸の下の隙間から強風が捻じ込むように雨を吹き込み、僅かながら浸水。雨戸を立てガラス戸を閉めた仏間の障子が、吹き込む雨で濡れていた。これも記憶にない初めての経験だった。

 台風一過の青空とはならず、翌日まで雨が続いた。大きな被害はなかったが、隣家の小屋の波板屋根が飛んで庭に落ちていた。庭の八朔が、21個も枝から捥ぎ取られたのが一番痛かった。まだ青い実は、これから太り、木枯らしの中で黄色く色づいていくはずだった。
 蔓物の朝顔、夕顔、沖縄雀瓜が壊滅。しかし、父の形見の松の古木がしっかりと立っていてほっとする。40年を超える見事な枝ぶりを、植木屋が我が物のように自慢する古木である。

 翌々日、ようやく雨がやみ、全ての迎撃態勢を解除し、庭と道路の落ち葉や枝を始末して落ち着いた夕べ、その松の枝先に一頭の黒い蝶が翅を休めていた。長い昆虫とのふれ合いの中で、何故かこの蝶を見た記憶がない。マクロを嚙ませたカメラのファインダーを覗きながら、「まさか、台風に乗ってきた南方種の迷蝶?」と一瞬ときめいたが、図鑑を開いて確かめたら、ごく普通にいるイチモンジチョウだった。一生懸命に記憶の底を探ったが、やはり初めての出会いのような気がする。「低山の広葉樹林や草原に生息し、花によく来るほか湿地や腐果にも集まる。」という説明を読んで、やはりこんな住宅地に来てくれたのは、台風のお蔭なのだろうと思う。いずれにしろ、初めての出会いは嬉しい。

 少し涼しくなった夕方、クマゼミやアブラゼミの大合唱は、いつしかツクツクボウシの少し哀しい鳴き声に代わっている。日が落ちると、庭の片隅でマツムシやカネタタキ、コオロギが夜風を震わせ始める季節である。
 秋が、微かな足音で忍び寄っていた。
        (2015年8月:写真:松に憩うイチモンジチョウ)

明日の重さ

2015年08月16日 | 季節の便り・旅篇

 今年初めて、ミンミンゼミの合唱を聴いた。都市部では殆ど聴くことがなくなったこのセミが、此処国東半島の六郷満山を包む深い木立の中では、まるで当たり前のように鳴いている。アブラゼミもツクツクボウシもクマゼミも霞むほどに、豪快に鳴き上げていた。
 もう幾度訪れたことだろう。丸く豊後水道に突き出た半島の中央に両子(ふたご)山(721m)や文殊山(616m)がそそり立ち、そこから放射状に28の谷筋が海に下る。その谷筋の山腹の深い木立の中に、33の古寺が散在する霊場である。東京便が福岡空港を飛び立って暫くすると、この半島を左下に見ながら高度を上げる。見下ろせば、認知症が進んだ脳の断面図を見るような佇まいが、国東半島の姿である。

 大分県宇佐市の宇佐神宮を中心とする八幡信仰、神仏が習合する天台宗密教寺院群は「国東六郷満山」と言われる。だから、寺院参道の一角に鳥居が立っていたりする。
 地図の上では、それぞれの寺院は側近くあっても、一旦谷筋を下って別の谷筋に登り直さないと辿り着けない。勿論、山道は通じているが、離合も出来ない細い道であり、対向車の影におびえなければ走れない心細い道が連なっている。何度も車でお寺を廻りながら、その都度心細い思いをした。対向車が来れば、どちらかが(気の弱い方が…いや、心の寛い方が)下がるしかない。曲がりくねった細い山道をミラーを頼りにバックするのは、決して楽しいドライブではない。
 ただ、初めて訪れた40年ほど前は、野の道や田圃の畔、小暗い木立の下に、幾つもの野仏がさりげなく置かれていた。山野草と同じく、心無い旅行者が持ち去ったり、悪徳業者の盗難に遭って、今では随分姿を消してしまっているのが寂しい。

 旅の二日目、初めて訪れた峨眉山・文殊仙寺、私の干支・卯年の守護仏である文殊菩薩を祀ってある。普賢菩薩と共に釈迦如来の脇侍である文殊菩薩、「三人寄れば文殊の知恵」と言うように、智慧を授ける仏様である。
 深い木立の中を2体の仁王が立つ山門から、300段ほどの苔むした石段を上がった奥に、崖に抱かれて峨眉山・文殊仙寺が潜む。本殿近くの左の崖は一面イワタバコの群生地であり、盛りを過ぎた淡い紫の花が咲き残っていた。
 初めて訪れて以来、一目で虜になった。蝉時雨に包まれた木立の深さ、岩に抱かれた静寂、そして卯年の守護仏…いずれ彼岸に渡る日が来たら、遺骨の半分をこっそりこの木立の奥に散骨して欲しいと思うほど、この古刹に入れあげている。(残り半分の遺骨は、沖縄・座間味の海に散骨する)
 引いたお御籤が「大吉」と出て、小さな文殊菩薩の像をいただいた。若住職の短い講話の中で、「文殊の知恵とは、明日を想うこと」という意味の言葉が印象に残った。残り少ない「明日」ではあるが、後に訪れた熊野磨崖仏下の胎蔵寺の住職にそう告げたら、「一日一日が大切な明日です」とたしなめられ、励まされた。明日と言う時間に、長短の重みの差はない、この一刻一刻を大切に重ねて、一日一日の明日を愛しんでいこうと思った。

 両子寺(ふたごじ)に詣り、昼食の後は富貴寺を訪ね、熊野磨崖仏は足の疲れを労わって今回は見送り、その麓の胎蔵寺で「芽」という小さなお札のシールを干支のウサギの石像に貼り付けた。住職の勧めで家内を呼んで健康祈願のお祓いを受けて背中を叩かれ、木札に「健康祈願」と書いて納め、護摩焚きに委ねた。1000円の志を置いたら、祈願済みの国東名物「魔無志あめ」なるものを一袋いただいた。何故かマムシの粉が入った甘露飴である???「精をつけて明日を生きなさい」という、これも仏の慈悲か(呵呵!)

 心配したお盆の渋滞も鳥栖ジャンクションの一瞬であり、ほぼ定刻に天神に帰り着き、街で夕飯を摂って、19時40分に無事帰り着いた。
 この日の歩数計は7,200歩、その殆どが山道と急な石段である。国東半島・六郷満山の古刹は、健脚でないと歩けない。先年痛めた膝に不安があったが、何の支障もなく数百段の石段をこなすことが出来た。
 毎朝重ねているストレッチと、セルフ・リハビリのお蔭か、それとも文殊菩薩の慈愛のまなざしが密かに注がれていたのか、ひとつ自信を取り返した「姫島キツネ踊りと六郷満山・国東半島2日間」の旅だった。
              (2015年8月:写真:文殊仙寺山門の仁王像)

幻夜、狐跳ねる

2015年08月16日 | 季節の便り・旅篇

 18時45分、夕暮れの残暑を引き摺るようにフェリーが伊美港を出た。波ひとつない海は油を流したように穏やかで、雲間に没しようとする夕日が不気味なほどに真っ赤だった。大分県国東半島北北東の外れ、姫島までの狭い海峡を20分で渡る。姫島港に降りて3分も歩くと、もうそこが盆踊りの会場だった。

 長年の憧れだった。お盆は家にいてご先祖と静かに過ごすことが習慣になっている世代には、遠い小島の盆踊りは縁ないものと諦めていた。しかし、仏様は広島の兄のもとの仏壇に移り、お寺の納骨堂に孫たちと参ったあとは、もう私たちを縛り付けるものはない。西日本新聞旅行社のツアーを見て、その日のうちに一番乗りで申込んだのだった。
 孫二人と娘と、気の置けない家族だけの6日間。いつの間にか大学1年と高校1年に育った二人は、もう膝の上で戯れていた頃の幼さは微塵もなく、大きく羽ばたこうとする青春真っ盛りである。ひたすら爆食、爆買い、爆睡の6日間はあっという間だった。「驛(うまや)」での牛タン三昧、居酒屋「浜太郎」での海鮮尽くし、白髪の義弟がギャルソンとして手伝うAUTHENTIC LIVING BUTCHER NYC.でのTボーンステーキとリブアイステーキ(厚さ3センチほどもある熟成肉を、5人で1.1キロを食べて大満足!)、馴染の「きくち亭」でのフレンチ・ランチ、浴衣で天満宮にお礼参りした後に訪ねた豆腐料理専門店「梅の花・自然庵」での引き上げ湯葉会席、存分に食べ、存分に寛ぎ、したたかに眠って、名残りを惜しみながら3人は帰って行った。
 孫たちと天神で別れたその足で、21人のツアーバスに乗り込んで国東半島に走った。お盆が始まれば、高速道路にさほどの渋滞もない。

   歌えとせめかけられて 歌いかねたよ この座敷
   座敷は祝の座敷 鶴と亀とが舞い遊ぶ
   亀のじょうは 色は黒けれど 目もとよければ様殺す
   殺しはこの町に二人 どれが姉やら妹やら
   もろたら妹をくれて 妹みめがようで姉まさり
   さそなら妹もさそが 同じ蛇の目の唐かさを
   唐かさ柄もりがしても お前一人はぬらしゃせぬ……

 何やら意味深長で、そこはかとなく隠微な気配もある「姫島盆踊り歌」が歌い手を替えながら延々と繰り返される中に、島内7会場を踊り連ねて、19番の踊りが披露される。観光化した徳島の「阿波踊り」や熊本の「山鹿灯籠踊り」とは違って、小さな島の盆踊りは実に素朴でいい。小学生や中学生、小さな子供達やお母さんお父さん、一般の島民…もともとは先祖供養の念仏踊りが盆踊りの原点、お盆で島に帰ってきた人々も交えて、様々なグループが思い思いの扮装で島の夜を2時間かけて踊りあげる。
 圧巻は18番目の「狸踊り」、そしてラストを飾るのはCMやニュースで全国区となった子供たちの「キツネ踊り」である。お腹をポンポコリンに膨らませて臍を描き、真っ黒真ん丸に塗った目に、笠をかぶって徳利を肩にかけ大福帳を腰に下げた「狸踊り」の滑稽味。白塗りの顔に豆絞りの手拭いで頬かむりし、朱で髭を描き提灯や唐笠をかざして、駆け回り飛び跳ねる子ギツネたちの仕草の可愛らしさ!はるばるやって来た価値は十分にあった。
 人いきれで汗に濡れた肌に、吹き渡る海風が心地よかった。

 凪いだ海峡を、フェリーの船底の車載部分に茣蓙を敷いて蹲る難民のボートピープル状態で渡ったのが、この旅の第一のオチ。そして、汗にまみれた長旅の疲れと、4時夕飯という変則的なツアーに小腹を空かせて11時にホテルに帰り着き、シャワーを浴びて冷たいビールで夜食のお握りを食べようと思ったら、このホテルにはアルコールの自販機がなかったというのが第二のオチ。
 それでも満ち足りた思いで、子ギツネの躍動を瞼に甦らせながら爆睡の眠りに沈んだ。
                   (2015年8月:写真:姫島キツネ踊り)

耳を澄ませば……

2015年08月05日 | 季節の便り・花篇

 脳が溶けそうなほどに暑い真昼が過ぎ、ようやく翳りを感じ始める夕風の中を冷たい井戸水をたっぷりと撒いて、緑の木々や鉢の山野草の火照りを鎮めた。撒き終わった庭の片隅で小さな白鷺が飛んだ。風に吹かれる清楚な揺らぎが、遠い遠い微かな秋の気配を呼び込むように涼を届けてきた。
 親しい友人が昨夕届けてくれた鉢の蕾が開いた。サギソウ……この凛とした一輪から、我が家の庭の「小さな秋」が始まる。

 湿地に自生する花でありながら栽培種も多く出回っており、「夢でもあなたを想う」という花言葉と相俟って、愛好する人は少なくない。しかし、毎年咲かせ続けるのは結構難しく、わが家でも何度も枯らしてしまった苦い経験がある。
 そして、虫好きの私にとってこたえられないのは、この花の花粉が長い口吻を持つスズメガ科の蛾によって媒介されることである。飛翔力に長けたスズメガが蜜を吸うときに花粉が複眼に付着し、遠いところまで運ばれてほかの湿地の花に授粉することで、遺伝子の交流が頻繁に起きるという。自然が見せてくれる驚異的な知恵は感動的でさえある。
 だから、本来ならば繁殖力は強い筈なのに、湿地が乾燥して失われたり、宅地化やゴルフ場開発で埋め立てられたり、心無い愛好者や業者の盗掘が絶えないこともあって、既に絶滅した湿地も少なくない。環境省のレッドリストで「準絶滅危惧種」に指定されている貴重な山野草である。
 そう思うと、夕暮れのこの一輪が一層健気で愛おしく思われてくる。
 少年時代、毎日のように庭先を訪れていたスズメガも、その仲間で蛾にしては珍しく鱗粉のない透明な翅を持つアオスカシバも、今ではめったに見ることが出来ない。生態系は、間違いなく変貌し続けている。

 今年は例年になく、クマゼミを凌駕してアブラゼミが元気よく、忘れかけていたニイニイゼミも頑張っている。ツクツクボウシは昨年より11日早く初鳴きを聴かせ、薄明のヒグラシのカナカナ、日が差し始めるとクマゼミのワシワシをアブラゼミのジリジリとニイニイゼミのチ~ジ~が追いかける。ツクツクボウシが次第に数を増し、暑熱の中に潜む秋を少しずつ育んでいく中で日が暮れ、再びヒグラシがカナカナと夜を引き降ろしてくる。蝉が紡ぐ夏の一日のリズムである。
 ミンミンゼミは最近聴くことがなくなった。

 数え残した抜け殻を加えて、今年の夏のセミの羽化は78匹になった。手の届かない枝先に、今年の夏の想い出として一つの抜け殻を残してある。木枯らしに震える真冬、枝先にその姿を確かめて寒さを忘れるのも悪くない。

 真っ赤なミズヒキソウが立った。雑草の部類に入る草には違いないのだが、好きで生い茂らせている。雪の中に立って真っ赤な実を提げるマンリョウの実はまだ青く、緑一食で彩りの少ない庭に、小さな粟のような真っ赤な花穂を立てるミズヒキソウの風情は捨てがたい。立原道造の詩「のちのおもひに」を知るまでは、私にとってもただの雑草だった。

   夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
   水引草に風が立ち
   草ひばりのうたひやまない
   しづまりかへつた午さがりの林道を

   うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
   ──そして私は
   見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
   だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……

   夢は そのさきには もうゆかない
   なにもかも 忘れ果てようとおもひ
   忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには
  
   夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
   そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
   星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう

 八朔の下の塀に、いつの間にか一匹の蛹がとまっていた。多分、クロアゲハだろう。
 スミレを食い尽くしたツマグロヒョウモンも、パセリ8株を茎だけにしてしまったキアゲハも、どこか見えないところで蛹になっていることだろう。

 こうして、暦の上ではあと3日で夏が終わる。
 流汗淋漓の日々はまだまだ続くが、せめて気持ちの中で耳を澄ませて、「小さな秋」の目覚める囁きを聴こう。
                   (2015年8月:写真:サギソウ)

露天風呂三昧

2015年08月01日 | 季節の便り・旅篇

 焼け付く日差しに追われるように、米塚の脇を抜けて阿蘇西登山道を下った。再び325号線に戻り、南阿蘇鉄道長陽駅近くの踏切を渡って田舎道を少し辿ると、もうそこが南阿蘇俵山温泉・竹楽亭である。時にはとんでもない離合出来ない道を教えたりもするが、今日のところはナビが正しく近道を教えてくれた。

 アブラゼミの合唱が迎えてくれた。5,000坪の敷地に、15棟の離れが置かれ、それぞれに露天風呂が付いている。勿論、大浴場と露天風呂、洞窟風呂もあるが、誰にも煩わせられない部屋付き露天風呂にこそ、この隠れ宿の妙味がある。
 2時半の早いチェックイン、誰も来ないうちにと、先ず大浴場の露天風呂にはいった。期待通りの独り占めの贅沢である。少しぬるめのお湯がまったりと肌に纏わり付き、眠気を誘う。
 やや傾いた日差しが湯船に映え、吐口から落ちる湯の波紋が広がる。太ももから足先まで、白い(?)肌に絶妙な文様が揺れる。「浪花のおばんの豹柄タイツなんてめじゃない」と一人ほくそ笑みながら、波紋の戯れを楽しんでいた。水音から察するに、どうやら家内の女湯も独り占めらしい。長湯好きな家内にまともに付き合ってると、湯当たりする体質の私は身が持たない。湯船の縁の岩盤に座って風に吹かれ、また首まで浸かって……そんな真夏の昼下がりの露天風呂を楽しんでいた。
 湯の中に平らに伸びた御影石の上に碁盤が刻まれ、丸く刳り貫かれた穴の中に黒と白の碁石が沈められていた。腰湯を使いながら、一人五目並べをやってみる。勿論、勝負はつかない。
 地下から阿蘇の伏流水を汲み上げた冷水をかけて、珍しく長湯して火照った身体を鎮めて、一足先に蝉時雨の回廊を辿って部屋に戻った。

 個室の食事処で摂った夕飯は、シニアコースなのに14品!しかも、お品書きにない馬刺しまでが付いてくる。
 「これ、ほかの部屋と間違ってない?訊いてみようか?」
 「いいよ、いいよ、食べちゃおう!」
 若女将が挨拶に来る。1,500円引きの優待券が6月末で期限が切れて……と話したら、「いいですよ。その分お引きするように言っておきますから」これで、1泊2食付一人13,500円!何だか大儲けしたような気になる後期高齢者二人である。
 窓の外は小さな池、その向こうの木立にヒグラシが夕闇を呼び寄せ、隠れ宿に夜が忍び寄ってきた。

 眠りに就く前の部屋付き露天風呂。切り取られた夜空に、満月前夜の月がうっすらと雲に霞んでいた。湯音の向こうから、時折「クァッ、クァッ」とカエルが鳴く。そのまま眠ってしまいそうな至福の時間が過ぎていった。目覚めの朝湯も、勿論部屋付き露天風呂だった。

 今日も油照りの夏。「あそ望の郷くぎの」で買い物を済ませ、高森から根子岳の東裾を巻いて57号線、内牧から外輪山を駆けあがって大観望、小国町に下って行きつけの「吾亦紅」で蕎麦を食べ、下条の大銀杏の傍のお店で豆を10袋買い(馴染みの耳の遠いお爺さんは、奥の部屋で大口開けてお昼寝中だった。起こすに忍びず、こっそり料金箱に1,000円落として立ち去った)、ファームロードWAITAの曲折多い急坂を下って大分道日田ICへ……いつものコースである。今日も、湧蓋山の長い稜線が美しかった。

 356キロを走り終えて、炎熱厳しい我が家に帰り着いたのは2時48分。
 酷暑を乗り越える覚悟を迫って、7月が逝く。
                   (2015年7月:写真:煙噴く阿蘇中岳)

夏、燃える

2015年08月01日 | 季節の便り・旅篇


 ようやく明けた梅雨祝い……第○次金婚式セレモニー……「理屈と膏薬は何にでもくっつく」と母がよく皮肉っていた。何はともあれ、ひたすら温泉に逃避したかっただけなのだ。

 南阿蘇俵山温泉・竹楽亭。昨年梅雨時に訪れて以来、常宿にしようと決めていたお気に入りの隠れ宿なのに、気付いたら1年以上過ぎていた。加速する時の歩みは厳しい。「歳月、人を待たず」。海外にも同じ言葉がある。「Time and tide wait for no man」。
 天が真っ青に突き抜けた。夏の到来である。ふと田楽が食べたくなって高森に走った。人には誰でも「お気に入りの道」がある。それを無機質に裏切るのが「カーナビ」である。今日は気まぐれに、どんなコースを走るのかとカーナビに任せてみた。
 9時に家を出て筑紫野ICから九州道に乗り、熊本ICで降ろされた。57号線を東に走り、外輪山の切れ目・立野を過ぎたところで北に折れ、325号線に乗って阿蘇の南裾野を巻いていく。突き当れば高森町。もう40年以上通っている「高森田楽保存会」に着いたのが11時半だった。
 亡びかかっていた高森田楽を復活させ細々と守り始めた頃は、車も3台ほどしか停められない小さな民家だった。今では柱だけ残した広々とした築130年の古民家に、20余りの囲炉裏が掘られている。当時のまだ売出し中だったさだまさしの長髪の写真が今も飾られていて懐かしい。当時の看板娘も今は大女将、遠く鎌倉時代から続くという素朴な田楽は、一度食べたら病み付きになる。今では「高森田楽」の看板を掲げる店も少なくないが、やっぱり此処こそが「元祖・高森田楽」。飾り気のない素朴なもてなしが、何よりも心地よい。
 生厚揚げを生姜醤油で食べている間に、竹串に刺し秘伝の味噌を塗った里芋、蒟蒻、豆腐、山女魚が炭火に立てられ、こんがりと焼かれていく味噌の匂いが食欲をそそる。
 ただし、夏場は地獄!冷房のない部屋で、ガンガン熾した炭火の前で焼き上がりを待つ間に、全身汗まみれになる。「田楽食ってて熱中症なんて、シャレにもならないな」と家内と笑い合いながら、阿蘇五岳のひとつ・根子岳から吹き降ろす涼風を懐に入れるのも、田楽と向き合う楽しみのひとつである。
 添えられただご汁と黍飯で満腹になる頃、隣りの席にバイク一人旅の青年、家族連れ、そして賑やかに台湾からの御一行様が到着した。二人分3,780円を払って、早々に退散することにした。

 東西約18キロメートル・南北約25キロメートルに及ぶ広大な阿蘇カルデラ。外輪山に囲まれた中に、最高峰の高岳(1,592m)を始めとする中岳(1,506m)、根子岳(1,408m1)、烏帽子岳(1,337m)、杵島岳(1,270m)の阿蘇五岳が横たわる。その東端に峨々たる岩肌を見せる根子岳に抱かれて、「高森田楽保存会」はある。

 時間つぶしに身体の火照りをアイスコーヒーで冷まそうと立ち寄った「蕗の薹」という店の駐車場で、たどたどしくタマムシが飛んだ。豊かな自然に癒されながら、阿蘇南登山道を駆けあがった。緑の山腹と真っ青な空の対比が美しい。澄み切った空気を切って落ちる日差しに、陰影のキッパリした夏景色が広がっていた。
 阿蘇中岳は、生憎「火口周辺警報(噴火警戒レベル2)発令中のため、火口から半径約1km以内への立ち入りは禁止です。ご注意ください。」という状況で、草千里に停めた車の中から、時折白煙をもくもくと吹き上げる山の姿を眺めるだけだった。

 高原を吹き抜ける風もたじろぐほどに、猛々しく苛烈な灼熱の日差しが額を焼いた。夏が燃えていた。
                    (2015年7月:写真:高森田楽)