乳白色にほんのり青みがかったお湯が、吐口からふんだんに注がれる。湯舟に身体を投げ出し、浴槽の縁の岩に頭を載せて5月の青空を見上げた。なだらかで女性的な稜線を横たえる涌蓋山(わいたざん1,500m)の山腹は眩しいほどの新緑に覆われ、吹きすぎる緑の風が心地よかった。休日明けの露天風呂に人の姿はなく、独り占めの贅沢を小一時間ほしいままにして、高原ドライブの余韻を湯に溶かしていった。
週間天気予報にお天気マークが少なくなり、雨期の近づきを感じさせる。朝の眩しい日差しに誘われて、ふと一人ドライブと高原散策を思い立った。
濃い小麦色に染め上げられた麦秋の平野を走り抜ける。一羽の白鷺が穂並をかすめて飛んだ。筑後小郡ICから高速大分道に乗るいつもの道である。途中寄ったコンビニのお握り2個と漬物とおかず一品……これもいつものお弁当。
玖珠ICで降りて、四季彩ロードから飯田(はんだ)高原・長者原に駆け上がるのも、1ヶ月前に走った馴染みのコースだった。野焼きの後の黒ずんだ山肌に、一面の絨毯を敷き詰めていたキスミレ。野焼きをすることで咲き揃うキスミレにとっては、その真っ黒な山肌こそが最高のキャンバスなのだ。湯坪温泉を右にかわして、泉水山(1,447m)の裾を巻くように長者原に向かう道沿いの山肌に既に黒ずみはなく、一面の緑を蘇らせていた。やがて泉水の山裾の左から、三俣山(みまたやま 1,745m)の三峰がせりあがってくる。いつもながら心躍る一瞬である。長者原まで太宰府の我が家から107キロ、1時間40分の走り慣れたドライブコースである。
長者原の駐車場に車を停め、ストックを伸ばし、ザックとカメラを担いで、日差しの中を「たで原湿原」の木道に立った。三俣山の右に白煙を上げる硫黄山(1,580m)、その右に一段と重く高く聳えるのが星生山(ほっしょざん1,762m)である。何度も登った山々も、今日は懐かしく見上げるだけで、小一時間の湿原周回の散策を楽しむことにしよう。
今は山野草の乏しい季節である。散策路の入り口の山藤も盛りを過ぎて侘しい。湿原に咲く花も、ベニバナツメクサの紅、ウマノアシガタ(キンポウゲ)とサワオグルマの黄色、咲き遅れたリンドウの淡い青紫にとどまる。
湿原を抜ければ人影もなく、木漏れ日の下を自然探求路に歩み入った。土の道と木道を連ねた雑木林の中は爽やかに風が吹き抜け、ウグイス、シジュウカラ、カッコウの声が風に乗ってくる。時折ハルゼミが鳴く。その可愛い姿からはおよそ想像もつかないガラガラ声が、むしろ煩わしく聞こえるほど木立の静寂は深い。
木立を見上げ、木漏れ日に染まり、風に汗を払わせながら、人の気配のない小道を辿った。自然探求路の終わり近く、硫黄を含んだ水が川床を錆び色に染め、決して清流ではないが、せせらぎの音を聴くには絶好のスポットに、時折お弁当を開く石のベンチがある。今日はここでお握りを食べようとザックをおろした時、丁度正午の時報代わりの音楽が風に乗ってきた。
何と嬉しいことに「坊ヶつる賛歌」だった。すがもり峠を越え、北千里の砂原を抜けて急峻な山道を下った所にある山間のキャンプ場・坊ヶつる。学生時代に幾たびか久住山(1,787m)や大船山(1,786m)に登るベースとして坊ヶつるの山小屋に泊まった。懐かしいメロディーを聴いて、胸の奥が少し暖かくなる。
牧の戸峠を越えて、瀬の本から黒川温泉に下り、いつもの「ファームロードWAITA」に乗った。長者原から1時間、くちくなったおなかとドライブと散策の心地よい疲れが睡魔を呼び、ともすれば瞼を引きおろそうとする頃合である。少しわき道にそれて、立ち寄り温泉「豊礼の湯」の露天風呂でひと休みすることにした。こんな時に備え、車にはいつもバスタオルとフェースタオルが積んである。
入湯料500円。湯に包まれながら、ここ数日の心のわだかまりまでが柔らかに溶けていくようだった。湯上りに食べたジャージー牛乳アイスクリームの美味だったこと!ドライブの締めくくりの至福、これに勝るものはない。
(2012年5月:写真:木漏れ日の自然探求路)