蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

サイボーグ、秘密基地に還る

2018年10月14日 | つれづれに

 朝の冷え込みが嘘のように、暖かな日差しが降り注いだ。こんな日には、きっとタテハチョウが舞う……そんなことを思いながら秋晴れを見上げていたら、ふと気持ちがざわついてきた。
 「思い切って、行ってみようかな?」
ショルダー・ポーチに麦茶を詰め、トレッキング・ポールを手に歩き出した。

 猪除けの鈴がリンリンと鳴る。日差しは眩しいほどだが、吹く風は心地よく、まさに「爽涼の候」に相応しい午前だった。5ヶ月振り、そして股関節手術以来初めてのチャレンジだった。
 いつものように団地を抜け、九州国立博物館への89段の階段を上る。よし、股関節への違和感はない。階段を数えながら、左手ののり面の藪にカマキリの卵を探す。秋から冬への散策では、もう習慣になってしまっている行動である。見付からないままに登り詰めたところで、ルリタテハが日差しの下を飛んだ。予想通りの邂逅である。セイタカアワダチソウにキチョウが縺れる。上空を2匹のウスバキトンボがかすめた。
 博物館裏の四阿から、「囁きの小道」と名付けた静かな散策路に向かう道は、生憎のり面工事の為に閉じられていた。仕方なく、博物館を右に巻いて山道に取りついた。トレッキング・ポールを、上り坂用に短く伸ばす。
 日頃人が歩かない道である。道いっぱいに散らばった枯れ枝を道の脇にどけ、顏に被さりそうな蜘蛛の巣を払いながら、緩やかなアップダウンを辿った。20メートルほどに伸びた孟宗竹が、時折風に揺れてカンカンと鳴る。小さなジャノメチョウが日陰をチロチロと舞う。最後の急な坂道をゆっくりと登りあがると、そこが秘密基地「野うさぎの広場」である。

 とうとう還って来た……感慨深いものがあった。手術前7か月のリハビリ、そして術後2ヶ月あまりのリハビリ、その目標欄には常に「山道を歩けるようになりたい!」と書き続けてきた。この「野うさぎの広場」は、久住高原散策に向かう為の、ひとつの到達点だった。
 木漏れ日を浴びながら、いつものマイ・ベンチの倒木に座り、ポットの麦茶を飲んだ。けたたましく騒ぐヒヨドリだけが静寂を破る。そのけたたましささえが懐かしかった。

 暫く一人っきりの感慨に耽って、広場を後にした。坂道を下っているとき、ふと猪除けの鈴が鳴らないことに気が付いた。ない!いつの間にか、ポーチのフックから姿を消していた。ポーチを肩から外したのは、マイ・ベンチの所だけである。そこまで戻って枯葉の間を探し回ったが、残念ながら見付からなかった。帰り道を辿りながら道の左右を探し続けたが、とうとう見付からないままだった。立山で買ったお気に入りだったが、また今度来たときに探してみよう。
 博物館の脇のベンチに座って、ジーパンの裾にびっしり貼り付いたイノイノコヅチを一つ一つ抜いていく。これも、秋の散策の恒例となっている。

 最後に見送ってくれたのは、アカタテハの見事な滑空だった。レッドアドミラル(紅の提督)という異名を持つアカタテハは、真冬でも暖かい日差しがあれば、何処からともなく姿を見せてくれる。成虫のままで冬を越す蝶のひとつである。
 スカンポの葉裏で雪に埋もれ、半ば凍結状態で冬を越すベニシジミの幼虫を知ったのは中学生の頃だった。その直後、早春の大宰府政庁近くの道端のスカンポの葉裏で、その幼虫を見付けた時の感動は今も忘れない。浅い緑色にピンクの筋を刷いた姿は、限りなく可憐だった。以来、私の一番好きなチョウの地位を保ち続けている。道端を小さな炎のようにチロチロと舞う姿は、何度見ても心ときめくものがある。

 7200歩、手術痕に僅かに疲労感を感じるだけで帰り着いた。「サイボーグ079」が秘密基地に無事帰還した、記念すべき日曜日だった。
               (2018年10月:写真:「野うさぎの広場」の木漏れ日)

1939~2019

2018年10月10日 | つれづれに

 秋風に金木犀が薫る。勝手口の裏、物置の脇の我が家の金木犀が、かつてないほどにミッシリと花を着けた。
 この夏の異常な暑さは、庭の草木も強かに傷め付けた。毎日井戸水で撒き水は欠かさなかったのに、乾きではなく高温に耐えきれなかったのか、オキナワスズメウリが実を着けない。ホトトギスの葉が下から枯れ初め、僅かに残った茎の先端に申し訳のように幾つかの蕾を着けている。そんな状況の中で、この金木犀の命の輝きは何だろう?日差しと水と温度の微妙なバランスの狭間に、測り知れない命の盛衰がある。

 10月というのに、まだ残暑の残滓を引き摺り、朝の長袖を半袖に着替えても、ちょっと身体を動かしただけで汗みずくになる。空の眩しさに目を眇めながら、ふと愕然とする……あと3ヶ月で八十路!こんなに生きる筈じゃなかった。ここにも、測り知れない命の盛衰がある。

 カッコよく言えば「蒲柳の質」……ひ弱な子供だった。しょっちゅう風邪ばかり引くし、すぐにお腹を壊すし、古釘を踏み抜いて震えが来るほどの高熱を出したり……「殺しても死なない」と言われるほど頑健だった兄に比べ、確かに健康面では脆弱だった。特に、1月生まれのくせに寒さに弱く、冬の間はずっと風邪気味で、時々高熱を出すというような状況だった。学校や仕事を休んで、熱に浮かされながらうつつに眠り、雀の囀りに包まれていることがよくあった。いつの間に自分は30歳までしか生きないと思い込んでいた時期もある。
 
 気が付いたら70代になるまで、身体にメスひとつ入れることもなく、入院の経験もなく、これといった大病もせずに生き抜いてしまった。身体に自信がないから、臆病なほどに用心する。それが結果として健康を齎したのだろうか。
 73歳で左肩腱板を断裂し、肩に5つの穴を開け、関節内視鏡でチタンのビス4本を植え込んで、切れた腱板を手繰り寄せて繋ぐ手術を受けた。初めての入院手術は2ヶ月に及び、その後4か月リハビリに通った。
 そして、6年後の79歳の今、左脚に人工股関節置換手術を受けて17日間入院し、リハビリ3ヶ月目を迎えている。ほぼ機能を回復し、5000歩の歩行も、100段近い階段も難なくこなせるようになった。先週、博物館までの89段の階段を登った。目の前の裏山の頂きに、秘密基地のひとつ「野うさぎの広場」がある。来週にも復活の山道散策を狙っているし、来年の夏には、沖縄・座間味島でのダイビングも既に指呼の間にある。

 頑健だった兄は先年食道癌を患い、食道全摘手術を受けて生還したが、急速に体力を失った。妹も若くして夫を胃癌で失い。次男を生んだ時に痛めた腎臓で、もう30年以上週3回の人工透析に通っている。
 一番ひ弱だった私が、一番元気で八十路を迎えようとしている……愕然とする所以である。80歳で平成を閉じ、新たな年号を迎える。3つの時代を生きる……「昭和も遠くなりにけり」を実感することだろう。

 こうなったら、もう少し頑張ってみようと、あと6年間の運転を決めた。次の次の更新前に運転免許を返納する。昨年秋の「後期高齢者認知度テスト」も96点採れたし、実技テストでも、これといった指導はなかった。まだまだ大丈夫だろう。安全運転の秘訣は、「自分が運転上手だと思わないこと」と心得ている。だから、スピード控えめ、ブレーキ早め、車間距離はたっぷりと取る。ゴールド免許をこうして維持してきた。
 さすがに、「終(つい)の車」として11年乗ってガタが来た今の車では不安が残るから、思い切って新車を買った。「終の終の車」である。6年だけ乗るのに、ハイブリッドで30万以上余計に出す気はない。1300CCのガソリン仕様で十分、「ホンダFIT 13GL シャイニング・シルバー・メタリック」……但し安全機能を満載し、ドライブレコーダーも搭載した。年金6ヶ月分の予定外の出費となったが、その分寿命を半年諦めればいいだけのこと。この6年、存分に生きて余生を満喫することにしよう。
 車のナンバーは「1939」……西暦で示した私の生年である。

 こうして、二つの「足」を新調した。九重・飯田高原、長者原の「たで原湿原」の木道が、そして男池(おいけ)の山野草が、秋風に載せて私を呼んでいる。
                      (2018年10月:写真:終の終の車)