合い物を殆ど着ることなく、いきなり冬物に衣替え……気温の乱高下の中に、季節の歩みも甚だしく乱調だった。気温の変化に夏の疲れが加わって、老体がついて行かない。
それよりも何よりも、コオロギの鳴き声があっという間に途絶えた。毎年秋の訪れと共に、わが家は溢れるようなコオロギの鳴き声に包まれる。初冬の頃、弱り始めたコオロギのきしるような鳴き声は、哀しく儚く、心を絞る季節のセレナーデだった。だから、この陋屋を「蟋蟀庵(こおろぎあん)」と名付け、このブログのタイトルも「蟋蟀庵便り」という。そして、私のハンドルネームは「蟋蟀庵ご隠居」と名乗る。今年、そのつましい庵からコオロギの声が呆気なく消えた。
思い知る季節の異常だった。
関東の週間天気予報を見て、「何を着て行ったらいいんだう?」とやきもきしながら、東京に飛んだ。横浜の長女の家に2泊し、上の孫娘が通う多摩美術大学の芸術祭を観る為だった。
「生産デザイン学科テキスタイル専攻」という聞き慣れない言葉に、「直訳すれば繊維…つまり染めと織り」と、娘が解説してくれる。多摩美芸術祭で25回を重ねる「テキスタイルパフォーマンス」、3日間15回公演は、チケットを取りにくいほどの人気だという。先入観なしで観なさいと、一切の予備知識なしで案内された。
想定外の凄い舞台に圧倒された。暗幕で包まれた細長いアングラの様な舞台に、いきなり顔も両腕も身体も全てミイラのように布を巻き付けて隠し、健康的なナマ脚だけを露出した踊り子たちが、左右からにじるように登場する。題して「潜」。
意表を突く演出だから、公演パンフも閉演後の出口でしか渡されない。その中の解説を借りると「潜ーー無個性の人間から成る世界。自分が何者であるのか解らずにいる。そこに突然現れた異なる存在に影響され、自分の中に潜んでいた何かが芽生え始める。」
主役は布や紙などの素材、学生たちが自ら染め、織り、紡ぎ、裂き、纏い、ストーリーを展開する。「潜」の解説には、「浸染による均一な染とむら染を用いることで、無個性な人形と、それぞれに個性を持つ人間の違いを表した。シリコーンを用い、人工的で無機質なマネキンの印象から、生命感や生々しさを得るまでの様子を表現する。技法――シリコーン加工、浸染素材――シリコーン、ナイロンサテン、綿、綿ポリエステル」
写真転用を憚るからまどろっこしいが、その表現力は感動的でさえあった。「潜」「染」「羨」「栓」「占」「閃」「旋」……すべて「せん」という文字でテーマを揃え、それぞれに眼を瞠るような衣装をまとった数十人の踊り子たちのパフォーマンスは見事だった。孫娘は「占」のパフォーマンスで、襤褸の様な被り物に、幾つもの目玉を描いた不気味な顔で、狂気のように踊り舞った。「技法――浸染、夢幻染、素材――ウール糸、新聞紙、ナイロンタフタ、綿、ラメ布、和紙」
学生たちが並べるたくさんの小さな出店を冷かしながら、多摩丘陵地帯の坂道を連ねた学舎で、若いエネルギーをもらった。銀杏が色づき、多摩美は秋に彩られようとしていた。
二人の孫娘の確かな成長に感じ入ること多く、その感懐の底には、自らの加齢を思い知る淋しさもあった。
晩秋と初冬が綯い交ぜとなり、気温も日毎に秋と冬を行ったり来たりする。ようやく、身体が季節に馴染んできた実感がある。
友人が、たくさんのオキナワスズメウリの実を持ってきてくれた。緑と赤の手毬に惹かれて、毎年わが家でも植えているが、土壌のせいか、日当たりの違いか、わが家では貧弱な小玉が20個ほどハナミズキの枝から下がるだけである。
ふと思い立って、玄関脇の目隠しの簾に秋を飾ってみた。頭上で爽やかに空気を鳴かせるウインドチャイムと呼応して、蟋蟀庵にしっとりとした秋の風情が拡がった。
秋の名残りを探しに、木漏れ日の「野うさぎの広場」まで歩いてみよう。
(2016年11月:写真:簾を飾るオキナワスズメウリ)