蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

晩秋の花火

2005年01月30日 | 季節の便り・花篇

 木枯らしの先走りが夕闇を断ち切り、ウインド・チャイムがコロンと鳴った。裏口の辺りから少し掠れがちなコオロギの声が転がってくる。すだく虫の声は秋の草むらの風物詩だが、コオロギはむしろ冬を手繰り寄せるような憂いがあって何故か心を絞る。
 初夏の闇で鳴く地虫(ケラ)の声も哀しい。腹の底から染み込んで来るような空気の震えは、コオロギと同じようにいつも逝った人を思い出させて心が沈む。
 コオロギは澄み切った音色を転がす盛りの頃より、晩秋の少し疲れて掠れ始めた頃がいい。陋屋を「蟋蟀(コオロギ)庵」と名付けた所以である。庵というからには、軒が傾き屋根にペンペン草を立てた廃屋こそ相応しいのだが、残念ながらその姿は心の中だけにある。
 猛暑と台風に痛めつけられ、幾つもの山野草の鉢を駄目にした。丹誠込めて2年がりで二株に増やしたヤマシャクヤクも枯れた。5年目のダイモンジソウも、昨年手に入れたジンジソウも、そしてサギソウも駄目になった。「やはり野に置け」という戒めだったのだろう。つい気軽に庭先で楽しもうと欲を出して、野草園で求めたり友人から手に入れたりした。
 命を輝かせるにはそれなりの条件がある。澄み切った大気と風、春の日差しをたっぷり浴びて、やがて夏木立に覆われた木陰で花時を待つという自然の環境を庭先に再現するのは難しい。
 コオロギの声に合わせるように、日照りや乾きに強いイトラッキョウが見事にピンクと白の花を咲かせた。細いネギのような葉を鉢いっぱいに拡げ、その中から何本もの花茎が伸びて、そこに花火のように小さな花をびっしりとつけた。花時の長い花である。まだ残暑の火照りを残す頃に蕾を膨らませ始め、たけなわの秋を過ぎて、そろそろ木枯らしが吹くかと思われる頃まで楽しませてくれる。
 今年は花時の3週間を留守にした。ロスとメキシコで遊んで11月初旬に戻って来た私達を、盛りを過ぎたイトラッキョウが枯れもせずに花を開かせて待っていてくれた。
 暑い夏を引きずり、短い秋を経てやがて冬が来る。コオロギの声に憂いを重ねながら、今夜は先だった人達に思いを馳せることにしよう。
            (2005年1月:写真:イトラッキョウ)

疾 駆 !

2005年01月24日 | 季節の便り・旅篇

 日焼けした肌を叩くように、一段と苛烈さを増した日差しが降ってくる。乾き切ったメキシコの大気だが、太平洋の潮風があってそれ程の乾きは覚えない。
 1週間のプール・サイドの読書三昧もやがて半ば、シッカリと焼き込んだ肌が気持ちいいほどの照りを見せる。「無為の贅沢」が遊びにいざなう。その誘いに身を任せて海辺を離れ、荒野のアウト・ドアを楽しむことにした。
 ロス・カボスから小一時間、一面サボテンと灌木だけが覆う海岸沿いの起伏を北に走り続ける。頂に十字架を立てた遠くの岩山に緑は全くなく、雨が降らない過酷な自然を垣間見せる。その頂近くを舞うコンドルだけが生き物の姿だった。
 サンド・バギー。四輪駆動の大型バイクで荒野や砂丘を疾駆する初めての体験は、この旅の目玉の一つだった。サボテンの林の中で、英語だけの説明を受ける。スペイン語訛のブロークンな英語は殆ど聞き取れないが、耳でなく目で操作を覚えてサドルに跨った。
 6台のバギーを連ねて原野にはいる。波打ち険しく登り下りする走路を、重いハンドルに苦しみながら走り始めた。華奢な腕にはあまりにも重いハンドルに路傍の灌木に突っ込んでしまった娘は、無念の思いでガイドの背中にしがみついて回る羽目になった。
 もうもうと砂埃が立ちのぼり、下から突き上げるようにガタガタ道の振動が背骨を叩く。半ば腰を浮かせたままアクセルをふかせるうちに、こたえられない面白さが沸き起こってきた。全身でバランスを取りながら、登りではギアを落として身を伏せ、下りでは身を反らせる。ヘルメットを被り、バンダナを口に巻いて埃をよけ…しかし、日差しとハードなハンドル操作で息苦しく、埃にまみれるのも厭わずバンダナを首に落とした。サボテンの間から抜けてくる風が心地よい。
 一時間後、海に出た。太平洋の弧を描く水平線から、真っ白な濤が寄せてくる。一気に急坂を下って砂浜に出た。洗濯板のように波打つ砂の上、障害のない砂を蹴立てて、最速の走りを楽しんだ。もう完全にペダルの上に立ち上がり、膝をクッションにしながら浜風にバンダナを靡かせる。
 ふと、我が身の歳を思う。この歳で、もうそれほど新しい発見はないだろうと思っていた。「いい歳をして」と云われるのが厭で、日本にいたら或いは尻込みしたかもしれない。旅先の開放感のお陰で思いがけない醍醐味を味わうことが出来た。それは、病みつきになりそうなほどに豪快な3時間の経験だった。
 幾つになっても野次馬でいたいと思う。つい身近な過去ばかりを見詰めてしまう歳だが、前を向いて好奇心に身をゆだねているからこそ、常に新しい発見があるのだから…。
 散々揺り上げられた腹に、街の小さな店で食べた激辛のタコスがズシンとこたえた。
            (2005年1月:写真:サンド・バギー)

マルガリータ

2005年01月24日 | 季節の便り・旅篇

 プール・サイドのデッキ・チェアーでウエルカム・ドリンクを啜る。気温30度、11月のメキシコはまだ真夏の日差しだった。誇らしげな娘の笑顔を見ながら、マルガリータの喉越しを楽しんだ。
 こんなところまで来てしまった…そんな感慨があった。ロスから南に2時間半のフライト、バハ・カリフォルニア半島最南端の高級リゾートの街、ロス・カボス。太平洋とコルテス海が接する岬の先端に、そのホテルはあった。11月の1週間、向こう30年間のオーナー・シップを持つ娘のセカンド・ハウス。大理石をふんだんに使った部屋のテラスから、四層に連なるプールを越えて、真っ白なプライベート・ビーチの向こうに太平洋が拡がる。数十メートル先には一気に800メートルまで沈む海溝が走り、南下してコルテス海に向かう鯨が目の前でジャンプするという、信じられないような立地にある。
 何もしない一週間の「生活」を楽しみたくて娘の招待を受けた。雨の降る日は年5日という、乾き切った岩山とサボテンの原野の空港に降り立ったときには、これほどの豪華なリゾート・ホテルの存在が信じられなかった。40分のドライブで景色は一変した。小さな港を囲んでささやかなダウン・タウンがメキシコ特有の少し雑然とした佇まいを拡げ、土産物屋とタコスやシー・フードの店が並ぶ。その街並みを抜けた岩山の陰で、豪壮なホテル「プラヤ・グランデ・リゾート」が私達を迎えてくれた。
 「ここが私の部屋」と娘が案内してくれる。調理器具が揃ったオール電化の部屋は、近くのスーパーで食材を仕入れてくれば気ままに自炊も出来る。勿論ホテルのダイニング・ルームやダウン・タウンのレストランを訪れてもいい。海の幸豊かな、釣りやダイビングや荒野のサンド・バギーを楽しむ、開発途上のアウト・ドア派のリゾート地なのだ。
 早速水着に着替え、プール・サイドに出た。デッキ・チェアーで啜るマルガリータの酔いの何という芳醇!腰まで プールに浸かったままで、バーテンと片言のスペイン語の会話を楽しむプール・バー。「オーラ!(やぁ!)」、「グラシアス」(ありがとう)」。ここで多くの言葉は要らない。
 真っ青な空にコンドルが舞う。心ゆくまで命を洗う1週間のバカンスの始まりだった。
            (2005年1月:写真:プール・サイド)

銀河滔々

2005年01月23日 | 季節の便り・旅篇

 南カリフォルニアの秋空を真っ赤に染めて、凄絶な夕映えが空を覆った。累々と岩山を点在させる荒野に、サボテンとも棕櫚ともつかない不思議な木が佇む。殺伐としていながら、何故か命の輝きを感じさせて心打つ光景だった。
 ヨシュア・ツリー・パーク。ロスからおよそ3時間、雪山を遠望し、砂漠を抜け、数え切れないほどの風車が林立する風力発電の原野を南南東にひた走ったところに、その広大な公園があった。緑の乏しい草むらと灌木を足元に置きながら佇むその木の姿を、言葉で描くのは難しい。
 道端に車を置いて原野を歩いた。随所にある岩塊からロック・クライミングを楽しむ人達の歓声が降ってくる。駐められた車の数からすれば、かなりの人達がクライミングやトレッキングにはいり込んでいる筈なのに、広大な大自然に呑み込まれて殆ど姿は見えない。豊かな自然に触れる度に、自分のちっぽけさを思い知る。傲慢になり過ぎた人間、時たまこんな果てしない大自然の中で圧倒されることが必要なのかもしれない。
 少し味わってみたくて、家内を麓に残し、娘と小さな岩に登ってみた。岩盤に背をもたせ掛けると、日差しの火照りが身体に染み込んでくる。その温もりが優しかった。
 時を忘れるうちに日が傾き、美しい夕暮れが来た。ヨシュア・ツリーには逆光と夕映えがよく似合う。原野を黄金色に染めた黄昏の後に、雲を染める凄まじいまでの夕焼けを見た。真っ赤な夕焼けを背にするヨシュア・ツリー、紛れもなくそれは命の輝きだった。ただ言葉を失って不思議な感動に浸っていた。
 娘が「見せたいものがある」と云う。夜を待つことになった。西からはいった公園を横断して南の出口に向かう。走り続けるうちに漆黒の闇に包まれた。街の灯が届かない原野の夜はどこまでも深い。
 車を止め、ライトを消して見上げた空に、覆い被さるように滔々と流れる銀河があった。思わず息を呑んだ。まさしくそれは溢れるほどの星々の河だった。音もなく横切る人工衛星の光芒、吐息のように輝いて消える流れ星。涙が滲んだのは夜風のせいだったろうか。
 天球を覆い尽くす満天の星をいつまでも見上げて、時が止まった。
         (2005年1月:写真:ヨシュア・ツリー・パーク)

木立の中の宝石

2005年01月22日 | 季節の便り・花篇

 いつも遠くばかり見詰めて歩いてきた。目標はいつも高く、時にはより高い目線を求めて背伸びしてきた。それが若さの証しでもあったし、だからこそここまで生きても来れた。
 第2の人生は思い切って目線を下げることから始まった。蹲り、座り込み、挙げ句は腹這いになって地表すれすれまで目線を下げた。そこに、見逃していた野の草花の目を見張るほどに華麗・繊細・可憐な世界を発見した。鱗が落ちた目に見えた山野の素顔は、圧倒されるほどに奥深いものだった。
 山は一気に花の絢爛。4月始めに訪れた定宿・湯坪温泉K館。泉水山を借景とする庭は色とりどりの花に輝いていた。玄関脇のほの暗い木陰に紫色のカタクリが花びらを反らせて項垂れ、ショウジョウバカマがすっくと花穂を立てる。ジロボウエンゴサクのピンクとキケマンの黄色が競い、ヒュウガミズキの黄色い花陰にはトラフシジミが春の飛翔の羽を休めていた。心沸き立つ季節の到来だった。
 一夜の露天風呂の憩いの後、いつもの木立に向かった。男池からかくし水まで、黒岳を目指す急ぎ足には20分あまりの山道だが、目線を落とした山野草探訪には豊かな半日コースとなる。木々の新芽が息づき、朽ち木に張り付いた苔までが、ツンと新芽を立てて日差しに揺れていた。枯れ葉に憩うカメノコテントウの背中で春の日がキラリと弾ける。まだ冬枯れの気配が濃い大地にところどころ緑が蘇り、まず迎えてくれたのはハルトラノオの小さな花だった。白地の花びらに濃い赤のメシベが影を落とす。ネコノメソウが黄金を散りばめる。ヤマルリソウが小さな釦を並べる。ヤブレガサもまだ傘を半開きのまま時を待っていた。
 マクロ・レンズにクローズアップ・レンズを被せ、思い切り絞り込んで焦点深度を深め、ストロボを立てたカメラで捉えるには、もう腹這うしかないほどに小さな花たち。小指の爪ほどの花びらが見せてくれる季節の饗宴は、急ぎ足で遠くだけを見る者には決して与えられない世界だった。
 ユキワリイチゲ。薄紫の花弁を拡げ、黄色のメシベを包み込む美しい姿に魅せられて、以来この木立の中の散策路は宝物になった。
        (2005年5月号出稿予定:写真:ユキワリイチゲ)


寒夜に独り

2005年01月19日 | つれづれに

 長崎行き特急「かもめ」最終列車が、鈍く車軸を軋ませて走りすぎると、諌早の夜が一気に更ける。遅れ馳せの木枯らしが梢に泣く。
 夏の間、夜更けを告げるのはゴイサギの不気味な鳴き声だった。諌早公園の森に棲み、本明川に餌を摂るゴイサギが、夜毎低く夜陰に飛びながら、魂を絞るように切なく重苦しい鳴き声を落とした。時には眠りにはいりかけたうつつの意識の隅に聴き、また眠れぬ深夜、自分自身の呼吸と対話しながら、闇の底でその声を払いのけることもあった。
 秋が深まり、すだく虫の声が高まる中に、いつしかゴイサギの声も耳にしない夜が多くなった。
 まだ夏の盛りの頃、本明川の真昼に小魚を追う数羽のシラサギに交じって、一羽のゴイサギを見た。長い足をせわしなく流れに抜き差ししながら魚を追うシラサギに対し、ゴイサギは浅瀬に首を伸ばし、低く身を屈めたままじっと動かずに魚を待ち続けた。銀鱗が炎天に煌めきながら、次第にゴイサギの足元に近付いてくる。鈍重になまでに動かなかったゴイサギが、一瞬のひらめきを見せた。見事な捕食だった。

 晩冬、野鳥好きな社員に案内されて、諌早湾に初めてのバード・ウォッチングを体験した。数千羽のハマシギの一糸乱れぬ群舞は、想像を絶していた。僅か三時間の間に、レンズの向こうに教えてもらった野鳥が40種。諌早湾の豊かさを、これほど圧倒的に示してくれるものはない。
 沖合遙かに、干拓工事の櫓が既に立っていた。自然保護か開発か、難しい議論は措くとしても、これだけの野鳥の先住権を、人間が侵していいものだろうか。素朴な疑問がいつまでも残った。

 また冬が来た。ゴイサギに代わり、時折フクロウが夜更けを告げてくれる。留守宅の太宰府では、天満宮の杜に行かない限り、もう聴けなくなったフクロウの声を、ここ諌早ではまだこんなに身近に聴くことが出来る。それほど自然が豊かで、人間との調和がとれている町なのだ。
 独り住まいの深夜、耳を澄まして心待ちしながら、睡魔の誘いと戯れてみる。心安らぐ慎ましい幸せのひととき、などと負け惜しみにも似た呟きで自分を慰めつつ、今夜も膝小僧を抱いて夜が更けていく。
           (1991年12月:写真:チュウサギ)

母、逝く

2005年01月15日 | つれづれに

 その知らせは出張先の沖縄に届いた。

 前日、北部・辺土名の取引先を訪ね、最北端の辺戸岬から与論島を見た。もう、何度目の岬訪問だろう。しかし、快晴の空の下、これほど鮮明に島影を望んだのは初めてだった。いつも激しく吹き付けていた風も、その日は珍しく穏やかで、初めて伴った同僚に沖縄の岬の風景を誇らしく披露してやれた。
 一夜明けて、南部の客先訪問に出掛けようとルーム・キーに手を伸ばしたとき、電話が鳴った。覚悟してはいたものの、一瞬受話器を取る手にためらいがあった。
 幸い、全日空の11時45分発の空席が取れた。あとのことを同僚に託して飛んだ。

 福岡着13時20分。福岡空港に向かって高度を下げつつあった時間…平成4年7月22日午後12時46分に、母は待ち切れずに逝った。
 家内の紀子と妹の長男の良太だけが看取った。苦しみもなく、火が消えるように呼吸が鎮まり、ふっと途絶えたという。嫁と孫一人ではあったが、母にとって最も幸せな臨終であったろうと思う。
 20年ぶりに隣りに住み、次男の嫁でありながら、自分の両親をほったらかしにしたまま、そして自らも病を抱える身を厭わず、紀子は親身になって母の世話をし続けた。勝ち気な母であり、感謝の言葉は全くと言っていいほど口にする事はなく、紀子が報われることは少なかった。しかし、最後の3ヶ月あまりは紀子にすっかり甘え、居心地の良さを素直に口にするようになっていた。
 老人性痴呆が進み、下の始末が出来なくなった母は子供に還った。入院するまでの1ヶ月あまり、少しでも元に戻そうと、紀子は文字通り献身した。3度の食事、朝夕の散歩、下の始末…夜も何度も起き出して、汚してしまった寝具の取り替えと洗濯に追われた。
 花冷えの季節、温めた蒲団に包まれて「ああ、極楽々々…」と子供のように喜んで眠りにつく母を、紀子は嬉しそうに見守っていた。
 5月の連休明けに風邪をこじらせた。たいしたことはないと思ったのだが、念のために老人病院に連れていった。胸に大きな影があり、肺炎を起こしていた。婦長が無理に空きのないところにベッドを押し込んでくれて、そのまま入院することになった。下の方も紀子の努力にもかかわらず、既に家庭での世話の限界を超えていた。
 病院の中を歩き回っていた足が止まり、入浴が出来なくなり、やがてベッドから下りなくなり、食事を自分で摂ることを億劫がるようになり…こうして急速に老いが進んでいった。
 6月下旬、食事を嚥み下すことが不可能になり、時を同じくして右半身の麻痺と昏睡が始まった。点滴と酸素呼吸で危篤状態のまま一進一退が続いた。呼びかける声に時たま反応していたのも、やがて脳の障害から来る麻痺が全身に及び、応えなくなった。兄弟や孫まで動員して、泊まり込みでの24時間の付き添いを重ねた。回復するケースもあると看護婦や介護助手の人達は慰めてくれたが、間違いなく徐々に母は私達のもとから遠ざかりつつあった。
 その予感を誰よりも強く感じ、それだけに誰よりも回復を祈り続けた紀子の心を読んだように、母は臨終の時を選んだ。
 「紀子さん、あんたがいてくれたらそれでよかけん、ウチはもう行くね…」
 まだ少し温もりが残る母の死に顔に触れつつ、確かにそんな母の声を聞いた。勝ち気に生きた明治の女が、素直に感謝の言葉を口に出来なかった償いを、こういう形で示したのだろう。
 父が死んで9年、気ままに、そして存分に好きなことをやって、父と同じ7月に逝った。まるで父が迎えに来たかのように。…入院77日目の真昼だった。

 出来るだけのことはしてやれたし、83歳の天寿を全うした歳に不足はない。だから、74歳で去った父の時にくらべ、悲しみは薄い。しかし、全ての生活のリズムの中心核にいた母を失った寂しさは、日毎に強まっていく。そして、その寂しさを誰よりも深く感じ続けるのは間違いなく紀子なのだ。

 7月24日、炎熱の午後に多数の人達の暖かい見送りを受けて、母は仏になった。悲しみでなく、会葬してくれた人々の心が嬉しくて泣いた。
 葬儀は父を越えていた。最後の孝行には勿体ないほどの過分の弔いだった。

 「紀子さん…」と呼びかける母の声は、もうない。
             (1992年7月:写真:ノコンギク)

癒しの島

2005年01月12日 | 季節の便り・旅篇

 灼熱の太陽がインド洋に燃え尽きて沈むと、圧倒的な夜がなだれ落ちてきた。
 結婚35周年を癒しの島で迎えようと、四たび赤道を越えた。初夏の日本を発って6時間余のフライトだが、時差1時間というのが熟年の身には嬉しい。インドネシア・ジャワ島の世界最大の仏教遺跡・ボロブドゥールを訪ねるために、たまたま泊まったバリ島に魅せられてからもう久しい。
 せわしない観光は2度目で卒業した。いつしか「何もしない」無為の贅沢の味を覚え、ホテルと朝食だけをリザーブして、あとは全てフリー。朝食を済ませると水着に着替え、文庫本を片手にプール・サイドのデッキ・チェアーで自由に時の刻みに身を任せる。暑くなればプールに飛び込み、トロピカル・ドリンクを啜りながらまた熱帯の日差しに浸り込む。バカンスはこうあるべきだということを、この島で学んだ。
 天から降ってくる巨大な凧の風音、うち寄せる濤の響き、かすかに流れてくるガムランの音色…それは限りなくリッチな時の流れだった。
 やがて日が西に傾く頃、シャワーを浴びて少し身だしなみを整え、崖下のレストランに向かう。松明とキャンドルに導かれながら長い石段を下ったところに、ひっそりとシーフード・レストランが崖に抱かれている。入り口のショー・ケースに並ぶロブスターから好みのサイズを選んで、記念のディナーと決めた。
 濤音が心を揺する。明かりの乏しい島では、日没と共に覆いかぶさるように一気に闇が落ちてくる。もう日本では失われた満天の星空は、凄みを感じるほどに美しい。平面ではない、厚みと深さを伴う星たちの煌めきを何に譬えたらいいのだろう。南十字星を椰子の葉末に搦め捕って、南国の夜のロマンに酔った。
 生活と信仰と芸術が渾然一体となって私達を迎えてくれる、神々に最も近い島・バリ。ケチャ、バロン、レゴンなどのダンス、ガムラン音楽、ベサキ寺院の風になる風琴、絵画、彫刻、金銀細工…旅人をもてなす数々のバリの文化に浸ると、もう抜け出せない。いつしかオラン・バリ(バリの人)になってしまっている自分に気づくのだ。
 静寂に包まれて辿る夢路の中で、守護神・ガルーダが鮮やかに天空を舞った。
   (2005年3月出稿予定;写真:バリ島・ガルーダ像)

荒涼限りなく

2005年01月11日 | 季節の便り・旅篇

 カリフォルニア州ロング・ビーチ。クイーン・メリー号の向こうに眩しい花火が咲いた。ビーチでシャンパンを抜き、異境のニュー・イヤー・イブを祝って翌日、トラフィックを抜けて東に走った。
 ロスから460キロを走り続け、6時間半後、冬空とは思えない抜けるような蒼穹の下にいた。命の気配もない荒涼とした原始地球の姿に言葉を失った。岩と砂と、枯れ葉色の僅かな雑草と、乾き切った光景はまさしく死の世界だった。
 デス・バレー「死の谷」西半球で最も低い、そして最も暑い灼熱の谷が、およそ長野県の広さで横たわっていた。アラスカを除きアメリカ最大の国立公園。年間降水量僅か50ミリ、中心部の海抜マイナス86メートル、夏の気温50度という地獄のような世界は、真冬の今が最も観光に適したシーズンなのだ。57度という過去の暑さの記録を体験してみたいなどという望みは微塵も起きない殺伐とした光景だった。
 こんなお正月を経験することはもう2度とないだろう、と思いながら原野を走り抜けた。カリフォルニア州東部、もうネバダ州との境、ラスベガスまで140キロの位置にある。汗ばむほどの強い日差しの中で巡ったザブリスキー・ポイントの黄金に輝く山襞の威容、岩塩と泥が固まって累々と大地を覆い尽くすデヴィルズ・ゴルフ・コース、浸食され崩壊した斜面に色とりどりの鉱石が美しいアーティスト・パレット、ドライ・レイクに真っ白な岩塩が拡がるバッド・ウォーター、折からの夕日に見事な陰影で絶妙のコントラストを見せる砂丘・サンド・デューン、残雪を吹き渡る烈風に震え上がったダンテス・ビュー、そして大理石の岩盤を穿って羊腸と続くモザイク・キャニオンのトレイル…命の存在を否定するような過酷な佇まいの前に、いつしか自分自身が限りなく小さな存在に見えてくる。「なんくるないさァ」という沖縄の人々の哲学をふと思い起こしながら、その夜はネバダ州の高原の小さな街・ビーッティーのドライブ・イン・ステージ・コーチ(駅馬車!)に泊まった。
 ワインに心地よく酔いながら、カジノでちょっぴり散在して眠りについた。翌朝目覚めた私たちを迎えてくれたのは、夜半に降った純白の雪景色だった。紛れもなく今は真冬だった。
           (2005年1月:写真:ザブリスキー・ポイント)

テメキュラの秋

2005年01月11日 | 季節の便り・旅篇

 真っ青な空を、音もなく飛行機雲が切り裂いていく。南カリフォルニアの空気はどこまでも澄み渡り、吹く風は限りなく優しかった。ここに映画産業が栄えるのも、この澄んだ大気があるからと頷ける。ロサンゼルスは既にスモッグの街と化しており、グリフィス天文台のある高台から眼下のビバリーヒルズ、ハリウッド、そしてロス・ダウンタウンへと目を転じていくと、壮麗な光の海の上空に横一線スモッグの層が横たわっているのが見える。しかし、郊外は海風が汚れを払い、写真に撮るとびっくりするほどに美しい青空が写る。ちょっぴりプロのカメラマンになったような優越感が味わえるのが、ここ南カリフォルニアの空気なのだ。ハリウッド大通りを歩き、映画のロケ地巡りをし、ハリウッド・スターの豪邸を覗き、映画好きの私達は舞い上がっていた。
 娘の住むロス郊外・ロング・ビーチにステイし、11月半ばの収穫祭を楽しむことにした。ロング・ビーチから東南に2時間ほど走る。片側5車線の高速道路を140キロあまりで軽業のように車線を変えながら突っ走る旅は、慣れるまで身のすくむ思いだった。折角国際運転免許証を取って張り切ってきたのに、一瞬で諦めてしまった。
 乾き切った荒涼とした荒れ地や砂漠が、やがて一面葡萄畑が拡がる美しい谷間に変わる。メープルやイチョウが色づき、真っ青な、文字通り「カリフォルニア・ブルー」の快晴の空に眩しいほどに映えた。
 テメキュラ・ワイナリーの収穫祭のテイスティング。最初のワイナリーで記念のグラスを40ドルで買えば、それで14のワイナリーが全てフリーパスとなり、ワインの試飲とワイナリー毎の趣向を凝らした家庭料理が、飲み放題食べ放題となる。欲張って7つも廻る頃にはもうへべれけ。どのワイナリーも素朴で暖かいもてなしが嬉しい。豪華なリムジンで回る客もいて、豊かなカリフォルニアをあらためて実感したのだった。
 お気に入りのワインと、バッカスが豪快にボトルを呷る像をあしらったワインの栓を土産に買った。ワイナリーを後にするころ、糸杉の並木が斜めに影を落とし、見事な陰影でテメキュラの秋を演出して見せてくれた。
                (2004年11月:写真:糸杉の並木)