目覚めて時計を見る。6時10分。熟睡した筈なのに、妙に体が重いのは越年の気苦労の疲れのせいだろうか。いつものストレッチと膝のリハビリ体操、30回のスクワットをこなして、ふと気付いた。まだ暗い筈の窓の外がうっすらと明るい。
カーテンを開けると、一面の雪景色だった。今冬2度目の積雪である。
新聞と牛乳を取りに行き、雪を踏みながら八朔の下を通ると、ニコちゃんマークを悪戯書きした八朔の実が、うっすらと雪を被っていた。白髪頭のニコちゃん……まるで我が身を見るようで可笑しかった。
この歳になると、もう白髪頭は必然である。「毛があるだけでも、羨ましい!」とよく言われるが、生まれつきの直毛・剛毛・多毛は父親譲りである。現役時代は、仕事柄無理して七三に分けていたが、汗をかいたり雨に濡れたりすると、無残な有様になる。だから、リタイアしたら早速短く刈り上げた。
既に下縁部を除き殆ど白髪になっており、「日活アクションスターのなれの果て」と自称していたが、此処数年、何故か白髪の中に黒髪が復活し始めた。孫が「ジージの頭が黒くなってる!」と驚いている。
早く真っ白になることを願っていたのに……何が原因で、黒髪が復活したのだろう?白髪の3大原因は、メラニン不足、過酸化水素の蓄積、成長ホルモン不足という。あるいは、男性ホルモン・女性ホルモン・成長ホルモンの微妙なバランスともいう。満たされた余生を送る日々が、積年のストレスを鎮めているのだろうか?
秋浦歌 秋浦の歌(李白)
白髮三千丈 白髪三千丈
縁愁似箇長 愁いに縁りて箇くのごとく長し
不知明鏡裏 知らず明鏡の裏(うち)
何處得秋霜 何れの處にか秋霜を得たる
三千丈もあろうかという私の白髪は、 長年の愁いによって
こんなにも長くなってしまった。
鏡の中にいるのは確かに自分のはずだが、
全く知らない誰かを見るようだ。
どこでこんな、秋の霜のような白髪を伸ばしてしまったのか。
「丈」は長さの単位、「三千」は数量の多いことの譬えで、年老いて長年の愁いのために、白髪が長く伸びてしまったという哀しみを詠った詩だが、三千とは、仏法の 「三千大千世界」にいう「三千」の語を、「極めて多い」、「極めて広い」などという意味で包括的な形容に使うようになったものであって、数字の「三千」ではない。また、中国特有の誇大表現でもない。
「愁いに増えた白髪の多さは、継ぎ足していけば三千丈の長さになるだろう」と解釈することもできる。
因みに、人間の髪の毛の本数を約10万本、髪の毛の長さを約10~15センチメートルとすれば、その延べ長10~15キロメートルとなり、このとき、三千丈という表現は、換算すると約9.99キロメートルのため、実際にはむしろ控え目なものであることになる。(ネットは、雑学を増やしてくれる)
日が昇ると、ニコちゃんの白髪は呆気なく日差しに溶けていった。
黄金色の禿頭は、もう私の写し絵ではない。
(2017年1月:写真:白髪頭のニコちゃん)