24度という異常な暖かさの中で、太宰府天満宮の春の神事「曲水の宴」が開催された。
水の流れのある庭園で、その流れに沿って十二単や衣冠束帯などの平安時代の装束に身を包んだ出席者が座り、流れてくる盃が自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を詠み、盃の酒を飲んで次へ流し、別堂でその詩歌を披講するという禊祓(みそぎはらえ)の神事である。流觴(りゅうしょう)などとも称される。
古く中国では、上巳(5節句のひとつ、3月3日)に水辺で禊を行う風習があり、それが禊とともに盃を水に流して宴を行うようになったとされる。 中国古代、周公の時代或いは秦の昭襄王の時代に始まったと伝えられている。
たまたま、九州国立博物館特別展「王羲之と日本の書」が開催中である。書聖王羲之が、後世に名を残す会稽山陰の蘭亭で「流觴曲水の宴」を催した。 当時、王羲之50歳、後にも先にも生涯を通じてただ一度の「流觴曲水の宴」だった。 そして、これが中国史上最も代表的な宴となり、後世の画家たちが、この日の故事に因む画を数多く残している。
日本では顕宗天皇元年(485年)3月に宮廷の儀式として行われたと、日本書紀に記されているのが初見である。
大宰府では、天徳2年(958年)3月3日に、大宰大弐・小野好古が始めたとされるが、中世以降は断絶した。権勢を誇った藤原氏などは中国に倣って船を浮かべたりしたともいう。
再び執り行われるようなったのは昭和38年(1963年)のことである……ネットは何でも教えてくれる。辞書を引く手間が省けていいし、思いがけない気付きもさせてくれる。これまで漫然と眺めていた「曲水の宴」が、俄かに重々しくなった。
そんな由来はさておき、6月博多座公演を控えた十代目松本幸四郎(染五郎)がこれに参加するという知らせが、博多座からカミさんに届いた。宴はともかく、太宰府住民として、これは声を掛けに行かねばなるまい。
早速親しい友人たちにも知らせて、天満宮に向かった。五月を思わせる強い日差しが照りつけ、この日に限ってリハビリ中の股関節が痛む。梅見客と旅行者で混雑を極める参道を、脚を引き摺って追っかけるには躊躇いがあり、社務所から裏道を抜け、小鳥居小路を通って参道に到る、人混みの疎らな穴場で待ち受けることにした。
やがて12時を過ぎる頃、雅楽の音色に包まれながら行列がやって来た。
「高麗屋~ッ!」
「十代目!」
掛ける声に、黒の衣冠束帯に身を包んだ幸四郎が、凛々しく美しい姿で振り向き、すこし照れくさそうに微笑んでくれる。平安の雅豊かな姿は、さすがに当代を代表する歌舞伎役者のひとりである。
「きゃァ、目線が合った!」と、友人が嬌声をあげる。長閑な春の午後である。
ひとしきり声を掛けて見送った後、裏道から本殿正門脇に急いで、再び行列の到着を待った。この陽気に一気に満開を迎えた境内の紅梅白梅さえ色褪せるほどの凛々しいオーラに包まれて、幸四郎は本殿に消えて行った。参拝を終えて「曲水の宴」の庭に向かう幸四郎に、三度目の声を掛けた。
「歌舞伎命」のカミさんは写真を撮る事さえ忘れて、「幸四郎さ~ん!」と叫んでいる。
興奮冷めやらぬまま、友人と古刹・光明禅寺前のお茶屋に座って、冷たいお抹茶と名物の「梅ヶ枝餅」を頂いた。冷たさと甘さが、叫び続けた喉に心地よかった。
再び、ネットの「梅ヶ枝餅」由来……菅原道真が大宰府へ権帥として左遷され悄然としていた時に、安楽寺の門前で老婆が餅を売っていた。その老婆が元気を出して欲しいと道真に餅を供し、その餅が道真の好物になった。後に道真の死後、老婆が餅に梅の枝を添えて墓前に供えたのが始まりとされている。別の説では、菅原道真が左遷直後軟禁状態で、食事もままならなかったおり、老婆が道真が軟禁されていた部屋の格子越しに餅を差し入れする際、手では届かないため梅の枝の先に刺して差し入れたというのが由来とされており、絵巻にも残っている……今日はいろいろ勉強した。
変化の乏しい毎日を送る高齢の身にとって、こんな出来事がある日は得難い「ハレの」日である。歌舞伎仲間のKさんからのメールに、姪御さんは、幸四郎を「顔面国宝」というと書いてあった。
気持ちよく笑った一日だった。
(2018年3月:写真:凛々しい十代目松本幸四郎)