蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

精霊との語らい

2010年01月28日 | つれづれに

 初めて彼と出会ったのは、まだ娘がロングビーチに住んでいた頃だった。レストランや土産物を売る店が並ぶ、港沿いのショアライン・ビレッジ。娘の車で夕日を見に行ってハッピー・アワーのドリンクを楽しんだり、1ヤード(98センチ)の長いグラスでヤード・ビアを飲んだり、娘が仕事で留守の間にバスで出かけて水族館で遊び、ビレッジの屋台で買ったホッと・ドッグをベンチで食べながらカモメを見たり……その一角に小さなインディアン・グッズを売る店があった。ネイティヴの店員と片言の英語でお喋りしながら、小さな買い物を楽しむのが恒例だった。そこで初めてKokopelli(ココペリ)グッズを見た。何故か妙に魅せられ、以来アメリカを訪れ、方々を旅する傍らひたすらココペリの土産物を捜し歩くことになった。
 ランチョンマット、コースター、マグネット、キー・ホルダー、ストラップ、ペンダントと数が増えていき、つい先日はニュー・メキシコのホワイト・サンズにドライブした娘から、楕円に引き伸ばして、砂漠でトカゲに向かって笛を吹くココペリを刻印した1セント硬貨を送ってきた。ご近所や親しい仲間へのお土産にも、度々ココペリが登場する。車のマスコットにも、彼が揺れている。
 ココペリ……ネイティヴ・アメリカンのホピ族の300以上いるという精霊・カチーナ(尊敬すべき精霊の意)の一人である。「平和の民」を意味する族名を持つホピ族は、主にアリゾナ州北部に住み、その居留地は、先日訪れたアンテロ-プ・キャニオンがあるナバホ族の居留地に周囲を囲まれている。ネットによれば「ココペリが笛を吹くと、地面から緑が吹き出し、花が咲き乱れ、木々は生い繁り、 花粉は風に舞い飛び、動物たちは次々と子供を産み落とす。 ココペリは、発芽と豊穣を体現している神的存在である。」と記されている。つまり、笛を吹くことで豊作・幸運・子宝などをもたらしてくれる豊穣の精霊なのである。人と神の間にいて、人を導き助け、人の祈りを神に届ける仲介者として存在しており、北米大陸の南西部の各地に残されているペトグリフ(岩絵)にも、歩く、立ち止まる、寝そべる、膝を曲げる、笛を吹く、踊るなど、様々な姿態のココペリが描かれている。
 また、ネットにはこんな記載もあった。「ホピの神話の中で、人々が第4の世界に到着し、大陸の四隅に移動をはじめた頃、あるクラン(氏族)には二人のマフ(熱の力を持つ虫)と呼ばれるキリギリスに似た虫人が同行した。ある山の峰にさしかかったとき、その土地を守っている巨大な鷲に土地に住む許しを乞うたところ、鷲は持っていた矢で二人のマフの身体を射抜いた。しかし、マフは射抜かれたまま笛を取り出し美しい音楽を奏でて、高揚した霊の力でその傷を癒すのだった。鷲はいたく感動し定住の許可を与えたのだが、このマフがココペリだといわれている。 この中であらわされている超自然的な力が、豊穣の神的存在といわれるゆえんではないだろうか。」

 不思議な魅力を持つ精霊である。今回のユタ、アリゾナ、メキシコを駆け回った旅でも、また幾つかのココペリが増えた。アリゾナのガソリン・スタンドの雑貨屋でさえ、いつの間にかココペリを探していた。
 これはもう、精霊の魔力に取り憑かれたとしか言いようがない。しかし、何とも心地よく楽しい憑依である。
            (2010年1月:写真:ココペリのキー・ホルダー)
  

寒を炊く

2010年01月27日 | つれづれに

 異様に温かい大寒の1月20日、九州国立博物館の年に一度の作業に参加を許された。朝9時半にボランティア室から職員に導かれた10名あまりの参加者が、普段は立ち入ることの出来ない修復室に靴を脱いで入室する。ここで終日繰り返される「寒糊炊き」への体験参加である。
 古文書、書画、掛け軸などの修復に用いる糊は、出来たばかりの新糊では粘着糊が強すぎて乾くと硬くなり、巻いてもすぐに巻き戻ったり、却って大切な収蔵物を傷めてしまうことがある。だから、10年保存した古糊の柔らかい粘着力が、修復の為には欠かせないのだという。収蔵庫に二つ並べられた新糊と古糊を刷毛で叩いてみた。さらさらした古糊の感触に、なるほどと頷けた。

 小麦粉澱粉1.2キロを3倍の水で溶き、大なべで1時間煮込む……ひと言で言えば、ただそれだけのことだが、どうしてどうして、学芸員の苦労を身をもって思い知る体験となった。
 安全の為に焔を使わない博物館では、近代的な電磁調理用のコンロが用意してある。二つの鍋を抱え込むように、若い女性学芸員が一人は座り一人は立って、長い擂粉木のような棒で掻きまわしていた。詳しい説明を受けた後、交代で糊炊きに参加させてもらった。
 炊き始めたばかりの鍋は、まださらさらと水のような感触で抵抗はない。しかし、30分も炊き続けると次第に粘りが強くなり、やがて半透明な糊状に仕上がってくると、両腕がしなるほどの抵抗が出てくる。焦げ付かないように絶えず火力を調整しながら、鍋の中心から外に、外から又内に満遍なく、それもかなり早い勢いでひたすら掻きまわし続ける。これが延々と1時間続く。 
 参加者も男性よりも女性が多かったが、力だけに頼る男のぎこちなさに比べ、若い学芸員も含めた「女の細腕」とは名ばかりの逞しさと、普段台所で擂粉木に慣れた力の入れ加減の差が歴然と出る場面だった。何度か粘りが濃くなる過程を経験したが、両腕と腰にかかる負担なかなかのものだった。

 出来上がった糊は、石州産の大甕に移される。満杯になるまでには、終日この作業が続くのだ。寒糊炊きに参加した者は、和紙に毛筆で名前を書き、これが甕に張られて10年の間保存される。開館以来毎年大寒の日に炊かれてきた寒糊が、すでに4つの甕に詰められて木枠の中に置かれていた。今年が5つ目の甕である。石州の甕は、都合10個用意されていると聞いた。
 木の蓋を開けると、それぞれが黴に覆われていた。毎年、黴の色が違う。炊かれた日の条件や、管理の環境変化で黴の色が異なるのだろう。黒色の黴が一番いいと、学芸員が話してくれた。毎年覆った黴を取り除いていくから、10年後には2/3に目減りしているという。
 今日、お手伝いして炊いた糊が10年後に使い始められ、それで修復された古文書や書画、掛け軸などが百年千年と守り続けられると思うと、そのかすかな隙間の中に私自身の命の一片が生き続けていくようなささやかな感動があった。私も含めた高齢の参加者達の胸には、この糊が使われる10年後に思いが馳せる。終わって帰ったボランティ室で「10年後に、もう一度寒糊炊きに参加したいですね」という言葉を交わした。それまで元気でいたいという、切実な願望である。
 
 多くの人たちの思いを包み込んで、寒糊は今日から長い10年の眠りに入る。
                   (2010年1月:写真:寒糊の保存甕)

命、躍る!―太陽のバカンス(Mexico賛歌・その4)

2010年01月22日 | 季節の便り・旅篇

 何という躍動感だろう!これまで2度のロス・カボス訪問で16日間、そして今回も4日待ち続けて叶わなかった姿が、紛れもなくそこにあった。それも、続けて6度の雄姿を惜しげもなく見せてくれた。……太陽のバカンスの、最高のフィナーレだった。

 この歳の旅には、いつも「もう、これで最後かも……」という感懐がある。総大理石のゴージャスなホテルの一室で未明に目覚め、幾つものプールとジャグジーの横を抜けてプライベート・ビーチに出ると、東の空が赤く染まり、やがて壮麗な夜明けが訪れる。コルテス海から昇るその眩しい朝日をバックに、今日も何艘ものフィッシング・ボートが、カジキマグロやマヒマヒを求めて西の太平洋に向かって波を蹴立てていく。午後には、マストにそれぞれの釣果を示す旗を誇らしげに掲げて港に帰って来るのだ。日没間近になると、毎日のように同じビーチに佇んで、真っ赤に燃えて太平洋に沈む夕日を見送った。

 8日間の滞在がやがて終わろうとする夕べ、サンセット・ディナー・クルーズに出た。さほど大きくない2階建てのクルーズ船で港を発ち、ダイブを楽しんだNeptune FingerやPelican RockそしてLovers Beachを過ぎると、目の前に渦巻き波立つLands Endの岩塊が現れる。El Arco(The Arch)の刳り貫かれた岩を波が洗う。その向こうに、沈み行く真っ赤な太陽があった。
 夕日を追って西に走り、やがて没し去った夕映えの中を折り返したとき、船の右手すぐそばで鯨が大きくジャンプした!たまたま左側にいた私は、口惜しいことに絶好の機会を見損なってしまったが、家内も娘夫婦も眼前のサプライズをしっかり見た。そしてその直後、再び姿を見せた鯨が、うねるように尾を高く掲げて波間に没し去る瞬間を、私も夕闇の中に見ることが出来た。壮大な命の躍動だった!

 メキシカンのバイキング・ディナーの後は、甲板で時ならぬダンス・パーティーが始まる。マルガリータの酔いに助けられて、久し振りに家内とジルバを踊った。娘は恥ずかしがるマサ君を引っ張り出してサルサを踊った。元々サルサ・パフォーマンスで何度も舞台に立ったことのある二人である。プロ級のステップに、クルーズの仲間達の驚嘆のまなざしを浴びながら、喝采の中で軽快なステップを踏んで夜が進んでいった。

 翌朝、最後の朝日を見ようと、4人でビーチに出た。その日その日の雲の佇まいで、決して同じ朝日同じ夕日はない。今日もたくさんのフィッシング・ボートが東に向かう。何気なく見守っていたその時、朝焼けをバックに遥か沖合いで鯨が跳んだ!一度二度、そして三度四度……。同じ鯨が、これほど繰り返すBreachingは珍しい。この日の名残りの朝焼けは、忘れられないものになった。
 更に、取って置きのハプニングが待っていた。マサ君が何気なく撮っていた朝焼けの写真を見ていたら「アッ、鯨が写ってる!」……遥か沖合いをズームで引っ張っているから輪郭は儚いけれども、偶然が用意してくれた何よりもの贈り物だった。

 こうして、肌に残る日焼けと、数々のメキシコ土産、そして幾つもの思い出を脳裏に刻んで、8日間の太陽のバカンスは終わった。
             (2010年1月:写真:鯨のブリーチングPhoto by Masa)

海の異変―太陽のバカンス(Mexico賛歌・その3)

2010年01月22日 | 季節の便り・旅篇

 長い口吻を持ったヘラヤガラが、物珍しげに1メートルほどの身体をくねらせながら、しきりに周りを泳ぎ回っていた。背中の辺りにぴったりと寄り添ったオスカルさんが、絶えず様子を窺いながらマスクの前に顔を覗かせてOK?と確認してくる。BCのエアも中性浮力が維持できるように、いつの間にか調整してくれていた。珊瑚など生態系を傷めないために、ダイバーは足や手、身体が海底に触れないように、常に水中に浮かず沈まず漂っていなければならない。それを中性浮力という。ただ無心に海底の魚影に酔い、温かい水に包まれて、ゆっくりとフィンを蹴るだけの気楽なダイブだった。

 真っ白な砂地が海底に拡がり、緩やかな傾斜の先は一気に暗い海溝に落ち込んでいる。色とりどりの様々な魚達が、岩に寄り添い、砂に這い、マスクの上下左右に乱舞を見せてくれる。鮮やかな珊瑚礁の海ではないけれども、Lands Endの複雑な地形を楽しみながら、時のたつのを忘れた。魚の名前を知っていたら、どれほど多くの魚でこのーページを埋め尽くすことが出来ただろう。ひとつの岩礁を越えたとき、足元の根に一匹のウミガメが憩っていた。「邪魔するなよ!」と言いたげに、眠たげな目で見返してくる。その下の穴の中にはウツボが鋭い歯を見せながら鰓を蠢かしている。向こうからウミヘビが身体をくねらせて寄ってくる。オスカルさんがハリセンボンを掴んで見せてくれた。見る見るまん丸に膨らみ、刺とげのユーモラスな顔で気持を和ませてくれる。40分ほどのダイブで海底を離れ、5メートルの水深で3分間の安全停止(減圧停止)をして身体から窒素を抜き、ボートのそばに浮上した。

 ひとつ期待が叶わなかったことがある。2年前、数十万匹のギンガメアジの大群に囲まれ、その圧倒的な渦の中で絶句したことがあった。その再現を密かに期待していたのだが、今年はエルニーニョで海水温が高く、群れは2週間前に姿を消したという。オスカルさんの話に納得しながらも、やはり海の異変に心騒ぐものがあった。
 港のプロムナードを、上半身脱いだウエットスーツを腰に垂らし、濡れたブーツをギュッギュッと鳴らしながらDEEP BLUEに戻った。寄ってくる人の目に、今回も少し誇らしいものを感じながら、日差しの中を歩いていた。今日は1本と決めていたのに、「折角身体が慣れたところだから、もう1本行こうよ!」と娘達が勧めてくれる。70歳という歳に躊躇ったのは一瞬だった。

 1時間ほど休憩して、再びボートに戻った。快晴の青空の下を穏やかな波に揺られながら、2本目はもう少し先のポイントPelican Rock、2年前の初ダイブの場所だった。先程より無理なく水に馴染み、水圧に慣れた。少し浅めの19メートルの海底で、砂の急斜面を群れ成して流れ下る魚群がいた。体側に黄色い帯が走り、尾鰭、背鰭、胸鰭共に黄色い魚を、あとでオスカルさんがアカヒメジと教えてくれた。和名「赤非売知」と書く。死ぬと体色が赤くなる故のネーミングと、後日ネットで知った。幾種類ものウツボがいる。スズメダイの群れが岩礁に遊ぶ。オコゼが砂に紛れて大口を開けている。
 オスカルさんの合図で見上げた海面近くの水の中を、大型のマダラトビエイが悠然と泳いでいた。念願の出会いだった。身体を翻して、暫く煽るようにゆったりと泳ぎ続けるその姿を追った。豊かな海ゆえに、カリフォルニアや沖縄・座間味に比べると透明度は低く、この日はおよそ20メートル。やがて、蒼い海の色に紛れて、マダラトビエイは優雅に泳ぎ去って行った。

 冷たい圧縮空気の呼吸は、身体を冷やし喉を乾かせる。だから、ダイビングを終えて飲むビールの美味さは例えようがない。メキシコのビール・ドスエキスを飲みながら、満ち足りた心地よい疲れに酔い痴れていた。
               (2010年1月:写真:海の底を行く)

水底の幻想―太陽のバカンス(Mexico賛歌・その2)

2010年01月22日 | 季節の便り・旅篇

 水深24メートルの海底の根に、うっとりと眠るような長閑けさに包まれてウミガメが潜んでいた。Neptune Finger(海神の指)、初めて潜るダイビング・スポットだった。

 長い旅の疲れと乱高下する気温変動、そして毎度のことながら、キンキンに冷やされたメキシコのタクシーのエアコンのせいで、二日ほど身体の不調が続いた。到着の夜、いつものように太平洋に落ちる壮麗な落日を見送り、ホテルのレストランでシーフード・ディナーを楽しんだ後、早めに眠った。気だるい目覚めの後、プールで遊ぶ気も起こらず、強烈な日差しに輝く海を遠望しながら、テラスで怠惰な時間を流した。連日、プール・ダイビングや、冷たいカタリナ島でのボート・ダイビングに明け暮れるマサ君も、ダイビングよりひたすら眠りたいという。それでも、此処はダイビングのメッカである。3日目、娘とマサ君はひと足先に機材一式を担いで出掛けて行った。ランチに落ち合うことにして、ようやく重い腰を上げた。
 ホテルのエントランスを下ると、5分ほどで港に出る。港にはたくさんのフィッシング、ダイビング、クルージングなどのボートが並び、ぺりカンが泳いでいる。船が増え過ぎたせいか、いつも見かけたシー・ライオン(カリフォルニア・アシカ)が姿を見せないのが寂しい。
 メキシカンやネイティブの人たちがしきりに銀細工を売り込んでくるのを片手で払いながら、観光客が行き交う港のプロムナードを15分も歩くと、幾つものオープン・カフェが並ぶ一角に出る。2年前にパスタが気に入って毎日のようにかよったCafé Canelaでランチを頼んで、すぐそばのお馴染みのダイブ・ショップDEEP BLUEを覗いてみた。一段と日本語が上手くなったオーナーのオスカルさんと奥さんの幸子さんが、満面の笑顔で迎えてくれる。2年前のメキシコ初ダイブのとき、バディーとしてガイドしてくれたダイブ・マスターのまさみさんは、すでに帰国し、名古屋で仕事しているという。水中カメラマンとしても卓越した彼がいないのはちょっと寂しい。明日のダイブを約束して帰った。
 
 無口な船長のドン・ファンさんも健在だった。港から5分ほどのNeptune Fingerが、今回のポイントである。水温25度の暖かい海だが、長く潜っていると身体が冷える。5ミリのウエット・スーツに12ポンド(5.5キロ)のウエイトを腰に巻き、300BARのエアを詰めたタンクを装着したBC(浮力調整ベスト)を着込む。バディーのエア切れに備えた予備のレギュレーター(オクトパス)付きの本格的なBCである。ブーツの上にフィンを履き、グローブを着けると準備完了。立ち上がるのもやっとという重量が、ずっしりと腰に来る。オスカルさんが、軽々と抱えあげ、ボートのヘリに腰掛けさせてくれる。マスクを被りレギュレーターを口に咥えて、両手で押さえながらバック・ロールで背中からエントリーする……私の好きなエントリー・スタイルである。この姿に憧れたのも、ダイビング・ライセンスに挑戦したひとつのきっかけだった。
 マスクの中に海が弾け、光が眩しく泡立つ中に身体を真っ直ぐに立てると、少しボートから離れて一旦レギュレーターを外し、スノーケルに咥え替えて、あとからエントリーするオスカルさんを待った。エア節約の為の必須動作である。娘とマサ君は先にエントリーして、私のそばに付いてくれている。ベテラン3人に見守られて、一抹の不安さえないダイビング開始だった。
 太平洋とコルテス海が交わるLands Endの一角、緩やかなうねりが身体を持ち上げる。身軽に半袖半パンツのスーツを着たオスカルさんがエントリーしてくる。オスカルさんのOK?のサインに、指を丸める国際ルールのOKのサインで答えると、再びレギュレーターを咥えてBCのエアを抜き、ゆっくりと身体を沈めていった。1年4ヶ月ぶりのダイビングだった。鼻を摘まんで強く息を吐く耳抜きを重ねながら、次第に深度を深めていく。

 もうそこは、懐かしいメキシコ・ロス・カボスの、魚影豊かな海の底だった。

               (2010年1月:写真:Neptune Finger)

砂漠の果てに―太陽のバカンス(Mexico賛歌・その1)

2010年01月15日 | 季節の便り・旅篇

 北米大陸が垂らした右腕の指先……娘が1週間のタイムシェアで保有するHotel Playa Grande Resortはそこにある。ロスから南に2時間半のフライト。右脇にコルテス海(カリフォルニア湾)を抱え込む、長さ1,300キロのBaja California(カリフォルニア半島)は、鋭い頂を天に刺す岩山と潅木やサボテンに覆われた乾き切った大地である。コルテス海北端には、ロッキー山脈に源流を置き、アメリカ南西部2,330キロを流れ下って、建設時最大を誇ったフーバーダムや、グランド・キャニオンを削る肥沃なコロラド河が流れ込み、植物プランクトン→動物プランクトン→魚介類→大型海洋動物という巨大な食物連鎖を可能にする豊かな海を育てた。地球上最大動物のシロナガスクジラを筆頭に、幾種類もの鯨やジンベイザメ、巨大な烏賊など、命溢れる海である。グレイ・ホエール(コククジラ)やジンベイザメのウォッチングで有名なLa Pazもそこにある。

 秋色増す11月7日、ロスをお昼に発ってUnited Airで南に飛んだ。ほぼ2年毎に3度目の訪問である。峻険な岩山に囲まれたSan Jose del Cabo空港は、頭頂を叩きつけるような真夏の日差しだった。2年前とは見違えるように整備が進み、楽しみにしていた入国審査の信号機もなくなっていた。ボタンを押して運悪く赤信号が灯ると、手荷物を開けてチェックを受けなければならないという、ちょっとしたスリルを楽しんだ施設だった。
 砂漠の中の完成したばかりの有料道路を南下し、T字路にぶつかる辺りがSan Jose del Caboの街、右に折れて美しいコルテス海沿いに40分(30キロ)ほど走った辺りがCabo San Lucasの街、その二つの街を結ぶCorridorエリア、これらを合わせてLos Cabosと称する一大リゾート・ホテル群が展開されている。その最南端のCabo San Lucasは、Lands End(大地の果て)といわれるBaja Californiaの砂漠の果ての街である。
 太平洋とコルテス海が交わる辺りの岩に波がぶつかり、時として荒々しく渦を巻く。El Arcoという刳り貫かれたアーチ状の岩塊の周辺に幾つもの岩が海に林立し、その辺りが格好のダイビング・スポットとなっている。岩と岩の間、20メートルほどの海底の白砂に身を浮かせて漂っていると、海面のうねりが届いて揺りかごのように心地よく身体を揺する。港から5分あまりで届くダイビング・スポットは、少々の荒波でも船酔いするいとまもなく、バックロールで海に沈めば穏やかな海底パノラマが待っているのだ。そのすぐ目と鼻の先を、アラスカから回遊してきた鯨が悠然と通り過ぎていく。過去2度とも巡り合うことの叶わなかったその姿を見ることが、今回の最大の期待であり目的だった。
 空港ばかりでなく、見違えるほど道路も街も整備が進んでいた。まだ開発期に訪れた頃に比べると、目を見張るほどの変容だった。メキシコ特有の鄙びたダウンタウンの風情が隅っこに押しやられ、増加する大型クルーズ・シップで押し寄せる観光客の波に備えた施設が拡大している。すっかりメジャーになってしまい、2年前に感じた土産物屋の従業員達の失われた素朴さも、一段と加速したことだろう。

 チェックインしていつもの娘の部屋に荷を解けば、あとはプールと海と夕日とマルガリータが全ての、究極のバカンスが待っていた。1週間、存分に太陽に染まって肌を焼き、俗世間を忘れ……序でにこっそり歳も忘れて、寛ぎの空間に身を委ねよう。
             (2010年1月:写真:San Jose del Cabo空港)
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セピア色の郷愁―脱・日常を探して(その8)

2010年01月12日 | 季節の便り・旅篇

 一夜のストームが嘘のように、美しい青空の朝となった。しかし、まだ10月というのに、ここ高原の町はもう真冬である。凍て付くような冷たい空気に身を竦ませながら車に乗って帰途に着いた時、外気温は氷点下2.8度。太宰府でも滅多に経験しない厳しい冷え込みだった。
 R40号に乗ってフラッグスタッフの町に別れを告げた。「ロサンジェルスまで西に700キロ」という標識の右手に、標高3,900mのSan Francisco Peaksの頂が真っ白に雪化粧していた。緩やかな登りを駆け上がり、2,400mの高原道路を走る頃、気温は氷点下3.8度まで下がった。風景は白く雪をいただき、道路は凍結防止剤で真っ白に覆われている。時たま屋根にいっぱい雪を積んだ車が、雪を撒き散らしながら追い抜いていく。
 砂漠が続くカリフォルニア郊外や、ネバダの荒涼とした風景に比べ、アリゾナ大平原は美しい。豊かな緑と変化する景色は癒されるほどに爽やかだった。その美しいアリゾナ大平原を走りたくなって、娘に代わってハンドルを握った。片側2車線の道は走る車も少なく、土地柄か業務用のトラックが多い。どこを走ってもコルベットやランボルギーニ、フェラーリ、マスタングなどの高級スポーツカーがさりげなく走っているカリフォルニアと違い、何となく生活感満ち溢れた道路の雰囲気だった。
 ストームが残した強い横風の中を、130キロで疾駆した。日本の高速道路なら、50キロ制限が出るほどの烈風が車を煽る。直線と緩やかなカーブの道は殆どハンドル操作が要らないが、風に流されないようにハンドルをしっかりと固定しなければならないから、それなりに緊張する。展望豊かな快適なドライブだった。左ハンドルの右側通行は、慣れるまで暫く車線の維持に神経を使う。助手席の娘がナビしながら、時折「お父さん、寄ってるよ!」と注意してくれる。これでは却って娘を疲れさせるな、と心で詫びながら、それでも次第に慣れていくドライブが楽しくて、2時間ほど走り続けた。

 途中Kingmanで降りて、古い国道「R66」を覗いてみることにした。かつて「ルート66」はアメリカ全土を横切り、東海岸のシカゴと西海岸のロサンジェルスのサンタモニカを結ぶ栄光の国道だった。新たな高速道路網の整備により、半世紀にわたる主要観光道路・商業道路としての栄光の日々は色褪せてしまったが、今でも人々の胸に郷愁として生き続けている。当時の面影を残す町並みがあり、資料館がある。何故か理由は思い出せないのだが、私にも懐かしさを伴って心に残っていた「ルート66」だった。街の一角にSANTAFE鉄道の古く巨大な機関車が飾ってあった。12州に21,000キロ以上の路線網を誇った、これもかつての栄光のシンボルである。「アリゾナ」、「サンタフェ鉄道」、「ルート66 」……三つ並べると、何故かセピア色の郷愁に似た匂いが漂ってくる。

 途中寄り道をして、帰路が大幅に遅れた。13時24分、カリフォルニア州にはいった。道路に検問所があり、他の州からの農産物のチェックを行なうという。さすがに広いアメリカの国土ならではの情景である。モハーベ砂漠の荒涼とした風景の中を、再びハンドルを握った。アリゾナ大平原の美しい景色に慣れた目には、カリフォルニアの砂漠の一本道が、何となくみすぼらしく感じられた。
 Barstowでようやく往路で東に走ったR15号に合流した時、時刻はすでに16時を過ぎていた。「最初の計画では、今頃帰り着いてジャグジーにはいっている頃だよ!」と娘が笑う。途中夕飯に韓国料理の店で豆腐チゲを買い込み、夕暮れに追われるようにAliso Viejo(アリソ ヴィエホ)の娘の家に無事帰り着いたのは18時33分だった。

 5日間の走行距離、1,373マイル(2,197キロ)。「脱・日常の旅」の終わりだった。
          (2010年1月:写真:雪を頂くSan Francisco Peaks)

ストームを走る―脱・日常を探して(その7)

2010年01月12日 | 季節の便り・旅篇

 10月27日、快晴の朝が明けた。腕時計の表示は標高2,250メートル、気圧775hpと出た。アリゾナ州フラグスタッグは高原の町である。厳しい寒気の中を、町のグロッサリーを探して買い物を済ませた。ベッドルームにリビング、キッチン、ジャグジーにテラスを配したホテル・ウインダムの豪華なコテージで、備えられた炊事道具で自炊しながら、今日はのんびり休養日である。ゴルフ場や池を配した広大な敷地は、松の木に囲まれた閑静で贅沢なリゾート・ホテルだった。

 ブランチの後、昨日夕暮れの道端に幾つも建っていたインディアン・ジュエリー・ショップが気になって、R98号を1時間ほど北に走り戻った。
 天候が急速に崩れ、潅木を大きくしならせながら荒野を烈風が吹き募る。殆どの小屋掛けの店が入り口を閉ざしていた。店が見付からないままに、やがてGrand Canyon South Rimに向かうR64号への分岐点に来た。ストームが近付いている。諦めきれずにR64号に走りこんだところで、ようやく開いている店を見つけた。小屋の中に先住民ナバホ族の店番がいて、色とりどりのジュエリーで作ったアクセサリーや、織物、焼き物、民芸品などが並んでいた。幾つかを土産に求め、吹き募る風に背中を丸めながら車に逃げ戻った。
 娘が笑いながら言う「グランド・キャニオンまで、あと17マイル(27キロ)だよ。どうする?」「ウーン、お天気も悪いし、又にしようか」……ツアーだったら、嵐を衝いて何が何でも目的地に向かい、決して引き返すことはないだろう。「余裕だね!」と笑いながら、きっと又来るだろう、又来たいなと自分に言い聞かせた。Lake Powellを中心に、半径230キロの円の中に、8つの国立公園と16の国定公園がある。所謂Grand Circleと称される広大なエリアである。2年前のBryce Canyon、今回のZion Canyonの後には、やはりGrand Canyonは欠かすわけにはいかないだろう。元気でいたいと思う。

 左手に、寄り集まる数軒のインディアン・ショップが見えた。欲張って寄ってよかった。そのすぐ裏に、巨大な渓谷があった。グランド・キャニオンのミニ版である。世界的な観光地グランド・キャニオンの陰にあって、殆ど省みられることのない渓谷だが、コロラド川が刻んだLittle Colorado River Gorge(峡谷)は、やはりナバホ族の居留地の中の捨てがたい観光資源のひとつである。むしろ、此処を観てよかったと思う。ザックに提げるお守りとして、小さなブルーの石を1個5ドルで求めて、自分への土産とした。

 雨交じりの強風にハンドルを取られながら戻ったホテルで、カマンベール・チーズと生ハムを添えて、広いジャグジーでシャンパン・パーティと洒落込んだ。3人共、ちゃっかり水着を用意しているからおかしい。明日は又、カリフォルニア州のAliso Viejoまでの長い長いドライブが待っている。明日こそハンドルを代わってやろうと思う。パスポートも3冊目となった。国際運転免許証も3度目の申請をした。「帰っての楽しみだよ!」と言って娘は教えてくれないが、おそらく2,000キロを超えるロング・ドライブになるだろう。前回の滞在では、延べ4,500キロを走った。運転が好きとは言っても、娘の疲れも半端じゃないと思う。1泊で帰れる道のりを、私達の疲れに気を遣って敢えて1日のリッチな休息日を娘が作ってくれた。
 
 しかし、ロス到着以来、肝臓だけは一日の休息日もなく、毎日ワイン、シャンパン、メキシカン・ビールなど、飲んだくれる日々である。「ジャグジーで飲んだら、あまり酔わないんだよ」という娘の言葉に惑わされてグラスを傾けたが、とんでもない!あまり強くない私は、回りに回る酔いにフラフラになりながら、ベッドに転びこむ旅の夜となった。
           (2010年1月:写真:Little Colorado River Gorge)

サプライズ―脱・日常を探して(その6)

2010年01月11日 | 季節の便り・旅篇

 11時30分、Virgin Riverを渡り、R9号からR89号に移って、沿道の紅葉を愛でながら南に走った。走りすぎる車も少なく、広大な原野を地形の変化だけを楽しみながら走り続けた。ジプシー・キングスをCDで聞きながら、やがて12時50分、アリゾナ州にはいる。遠くに煙を吐く3本煙突が見え、その遥か彼方に鋭い稜線を持つ美しい山が霞んでいた。実は、今夜の宿がその山・San Francisco Peaks(3,900メートル)の向こうにあった。再び西部時間に戻り、いまは11時50分となる。
 やがて、左手にGlen Canyon Damでせき止められた巨大な湖・Lake Powellが見えてくる。ダム・サイトでトイレ・タイムを取り、岩山に囲まれて曲折するダム湖の景観で目を休めたあと、少し走ってバーガー・キングでランチを摂った。

 Pageの街をかすめた時、その街の名前に、記憶の底の何かが触れた。確かめる間もなく、娘が左にハンドルを切って土埃を立てながら未舗装の道に走りこんだ。何もない荒れ果てた原野は、ネイティヴ・アメリカン・ナバホ族の土地である。
 原野にみすぼらしい1軒の小屋が建ち、数台の車が停まっている。娘が「小屋の方を見ないで、足元だけを見ながらついてきて!」という。何だろう、恐竜の化石でもあるのかな?と思いながら、乾き切った荒地の砂を踏んでついていった。何もない。砂と岩と潅木以外、生命の気配さえない荒野だった。200メートルほど歩いた時、地面に岩の割れ目が現れた。何気なく通り過ぎようとしたら、娘が「駄目駄目、その割れ目にはいって!」と言う。身を滑らせるように割れ目にはいった瞬間、思わず声を上げた。地底洞窟……というより、地隙。オレンジ色の様々な岩が美しい縞模様に彩られ、天井から射す光の中で幻想的に輝いていた。いつか娘から送られてきた写真で見た Antelope Canyonがそこにあった。娘がひと言も触れずに密かに用意した、究極のサプライズだった。

 かつて此処は、Lake Powellの水底だった。涸れた大地にナバホ族が発見し、ナバホ族自ら管理する、事前に申請して許可をもらわないとはいることが許されない聖地である。きめ細かい砂が足元を優しく受け止める。幻想的空間に息を呑み、嘆声を上げながら、変幻限りない岩肌の襞に触れ、身を捩じらせて下っていった。岩と水と光が刻む大自然の驚異!言葉では言い尽くせない眺めに酔う、Narrow Canyon の神秘だった。
 8月から10月にかけて、この砂漠地帯にも夕立が来る。烈しい雨は怒涛の鉄砲水となって砂漠を覆い、この割れ目に流れ込む。大型バスを押し流すほどの鉄砲水に逆らうことは出来ない。Canyonに流れ込んだ雨水は一気に天井までを埋め尽くし、観光客を地の底に押し流す。「上流で雷が鳴ったら、すぐに脱出するんだよ!と」娘が笑って言う。今は乾期だが、美しいこのCanyonが牙を剥いた痕跡は、天井近くにとどまっている流木や枯れ草に窺い知ることが出来る。
 数百メートル下り降りたところで、長い鉄梯子を上って地上に戻った。地の底から這い上がった目に、日差しが強烈に眩しかった。

 湖の畔に走り戻ってティー・ブレイクのあと、17時を過ぎたR98号を夕映えに染まりながら南下、San Francisco Peaksを右手に走りすぎて、18時30分アリゾナ州Flagstaffの町に到着。わがままなナビに振り回されながら、夜の底でようやく今夜の宿・ホテル・ウインダムに辿りついた。
 近くのゴルフ場のクラブ・ハウスのレストランで美味しい夕飯とワインを堪能してベッドにはいったが、Antelopeの神秘の景観に興奮した頭が冴え、訪れる眠りは遅かった。「2010年の年賀状に添える写真は、これしかない」!……閃いた思いに安堵して、ようやく深い眠りが訪れた。
             (2010年1月:写真:Antelope Canyonの幻想)
 

時よ、止まれ―脱・日常を探して(その5)

2010年01月11日 | 季節の便り・旅篇

 山岳時間に進めたユタ州Zionの深い渓谷の底でも、まだ日差しは明るい。ハードなアップ・ダウンに少し凝り始めた太ももを労わりながらシャトル・バスでモーテルに戻った。
 独り留守番のPark Town散策を、手馴れた「かたこと度胸英語」でそれなりに楽しんだ様子の家内を拾い、娘の車でZion National ParkのSouth Gateをはいった。入り口の係員に、アメリカ全土の国立公園共通のパス・カードを提示する。自然保護を大事にする大変いい制度だが、分別せずに広大な砂漠に無造作に生活ゴミを廃棄し続けることとの矛盾は、いったい何なんだろう?毎年捨てられるクリスマス・ツリーから出るメタンガスが問題視されたり、川や湖の汚染拡大が急速に進んでいる事実を、どれだけ深刻に捉えているのだろう?……訪米の度に感じる疑問である。
 閑話休題(それはさておき)……木立に囲まれたZion Lodgeに車を停めてVirgin Riverを渡り、Lower Emerald Pool Trail(往復1.2マイル、約2キロ)を歩いた。木々の梢は秋色濃く、メープル系の色とりどりの落ち葉が樹間に散り敷き、その絨毯を踏みながら野性の鹿が歩いている。短いTrailを楽しむ家族連れも多く、小さな上り下りを重ねる緩やかな散策路である。やがて着いたLower Emerald Poolは、その名の通り水溜りのような小さな淀みだったが、雨期には頭上の崖から滝が迸り、散策路は水のトンネルとなる。乾期を迎えた今は水量も乏しく、細い流れが滴り落ちるだけだった。

 Zion最後の夜は、「Pointed Dog」というレストランでのディナーとなる。赤ワインのカベルネにラム、レッド・サーモン、シュリンプ、ポテト・サラダで、渓谷の夜の団欒を楽しんだ。ワインも料理も、そしてサービスも、いずれも満足のいく内容だった。いつものように「別腹」を持つ家内は、パンプディングのデザートで締めくくってご満悦。この「別腹」という特殊臓器は、残念ながら男にはない。はち切れそうなおなかを抱えて、疼き始めた脚をやや持て余しながら、夜風の中をモ-テルに戻った。

 26日9時10分、モーテルを発つ。B&B(ベッドとバス…要するに素泊まり)だが、この大自然の中で、1人1泊3千円は安い。景観だけでも遥かにこの価値を超える。園内をひと回りして別れを告げ、娘が「どうしても食べさせたい!」という不思議なランチを摂って、East Gateへのワインディング・ロードを走った。
 眩しい日差しの中を、自然がとてつもない時間をかけて刻んだ巨大な岩のアーチを見て長いトンネルを抜けると、景色が一変した。East Zionに娘が用意してくれていた次のサプライズは、光と影。縦、横、斜め、サークルと、岩肌に刻まれた模様が織り成す景観の美しさは、荒々しいというより、寧ろ優しく温かかった。豪快で険しい渓谷とは全く趣を変えた景色を喜び、路傍に車を置いて岩肌をよじ登って歓声を上げ、岩肌に寝転んで真っ青な空を突き刺す飛行機雲に見とれ、時を忘れた。このあと、今夜のアリゾナの宿までの長いドライブが待っているというのに、「大丈夫だよ。ゆっくり楽しんでいいよ」と娘が言ってくれる。
 此処にも、探していた「脱・日常」があった。寝そべった身体を秋の日が優しく包み、疼きを増す太ももに柔らかな温シップを施してくれる。「永遠に時を止めたい」と思うのはこんな時だ。

 去り難く後ろ髪を引かれながらZion National Parkに別れを告げ、R9号を東に向かった。この時、この先にこの旅最大のサプライズが待っていようとは思いもよらず、ただ移りゆく景色の中を陶然と車に身を委ねていた。
              (2010年1月:写真:East Zionの岩肌)