やがて6月が終わろうとする28日の宵、次第に闇を広げつつある石穴稲荷の杜で、今年初めてヒグラシが鳴いた。去年の手帳を繰ると、7月3日に「ヒグラシ初鳴き」の記載がある。ニイニイゼミ:7月12日、アブラゼミ:7月16日、そして翌17日にはクマゼミと、一斉に蝉の大合唱が始まっている。当たり前の季節の移ろいなのに、やはり昆虫たちの体内時計の巧みさに感動してしまう。翌朝、夜明けの薄明にヒグラシと競うように、ホトトギスの囀りが混じった。
その日の朝、突然イカの活き作りが食べたくなって、曇り空の下を車で走り出した。太宰府ICそばから都市高に乗り、この春全通したばかりの路線を駆ける。博多の街の北側の海沿いまで遠回りしなくても、街の南の山沿いを抜けて一気に西に走り、そのまま糸島経由唐津に向かうことが出来るようになった。
途中少し寄り道をして、浜玉の町並みから虹ノ松原に出た。文字通り白砂青松の美しい松原がしばらく続く。時折「唐津バーガー」という旗に食指が動くが、「今日はイカ、イカ、イカ」と言い聞かせながら唐津の街に抜け、そのまま呼子港を目指した。
家を出て2時間弱、港のあたりには、傘のように吊るされたイカがモーターによって高速で回され、名物の一夜干しが作られている。ランプをいっぱい吊るしたイカ釣り船がずらりと並んだ港の近くに、有名な「呼子の朝市」がある。すでに朝の雑踏は終わり、疎らな人影を売り子の声が引っ張り合ってる時刻だった。
その声に右に左に引っ張られながら、意識しておばあちゃんが出している露店を選んで買い求めた。「イカの一夜干し」と「アジの味醂干し」は当然。生きのいい小鯵がびっくりするほどに安い。味見しながら、どの買い物にも必ずおまけがついてくる。パックからはみ出しそうな盛りを喜び、おまけの「タコの塩辛」や氷代わりの凍らせたペットボトルを乗せた袋の重みを確かめ、売り子との会話を転がしながら30分ほどの買い物を楽しんだ。積み込んだアイスボックスに入れて、さあ待望のイカの活き作り!
港を後にしてしばらく走り、呼子大橋を渡って加部島の海岸線に下る。10年以上行きつけの店に着いたら、いつの間にか経営者が変わり、店の名前も変わっていた。何となく「大丈夫かな?」という不安が伴う。しかし、ここまで来たらほかの店を探すのも同じこと。「それに、生きのいいイカが美味しくない筈がない!」と言い聞かせ、「あれ?300円高くなったね」と言いながら、一人2,800円のコースを注文。平日の12時前の時間帯に、お客は私たち夫婦だけで、益々心細くなる。初めての店は何とも落ち着かない。
しかし、結果は全て杞憂に終わった。二人前を大きめのイカ一匹に目方を合わせ、見事な糸作りの「姿造り」が並んだ。添えられた口取りや椀物、「イカしゅうまい」、この店オリジナルの「いかニラ饅頭」など、目に美しく、舌に美味しく、前の店をはるかに凌駕する板さんのセンスだった。
仕上げの「げその天ぷら」を半分テイクアウトしてもらうほど満腹になり、満足して、世話になった親しい友人に「イカしゅうまい」と「いかニラ饅頭」を冷凍便で送り、店を後にした。時折薄日が差し、透明な海が眩しく輝いた。
加部島にはもう一つ寄るところがある。海を見下ろす丘の上に風車が回り、「風の見える丘」という素敵な名前が付けられたビュースポット。その駐車場に、この時期いつも甘夏柑を並べているおばあちゃんがいるのだ。美味しい甘夏柑をひと山500円で買うと、倍ほどおまけがついてくる。生憎この日はお休みだった。脇の土産物屋で訊くと、今日は芋掘りでお休みという。仕方なくその店で、8個500円で買った。おばあちゃんの話をしたら、おまけが1個だけついてきた。
ひとつ、その店員に教えてもらったことがある。甘夏柑は姿や大きさで選んではいけない、姿は悪くてもしっかり重いものを選べば、たっぷり果汁を含んだ実が詰まってる、と。
帰路は一気にひた走った。1時間40分で帰り着き、まだ3時前。出来心で走った久し振りの「呼子のイカの活き作り」200キロのランチ・ドライブは、鬱陶しい梅雨疲れを吹き飛ばして余りあった。家内もブログネタの写真をいっぱい撮り、コリコリしたイカの活き作りに満足して、表情が一段と明るかった。
(2012年6月:写真:呼子名物「イカの活き作り」)