平成13年6月、区長就任3ヶ月目の決意でした。「高齢者ばかりだから、小さい自治区だから何も出来ない」…そんな陰口を跳ね返す為に、まずこの町内の出来事や自治会行事を分かりやすく絵本感覚で新聞にして、区民の皆様の心をまとめていけないだろうか。……こうしてたどたどしく作り始めた「湯の谷西便り」も、この14年目の3月号で170号を重ねました。
14年間カメラを担いで町内行事を追い、パソコンで紙面を作り続ける作業は、地域に生かされていることを実感できる、豊かで楽しい時間でした。
そろそろ後任に譲り、新たな感性で再スタートして欲しいと数年前から考えていましたが、ようやくこの170号をもって、編集担当を降りることに致しました。
長い間支えていただいた区民の皆様に、紙面を借りて心から御礼申し上げます。今後は、一区民として新たな町内広報紙の愛読者として見守らせていただきます。
本当に、本当にありがとうございました。
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リタイアして翌年、町内のことは右も左もわからないままに、この小さな町(湯の谷西区)の区長(町内会長)を引き受けることになった。町内の事情にも疎く市役所とのパイプもなかったから、既に地域に密着していた家内に引き回されながら活動を始め、先ず思い付いたのが町内の広報誌の刊行だった。
長女に手ほどきを受けながら、たどたどしくワードだけで作り始めて徐々に慣れていく過程は、それなりに緊張と気疲れの日々だったが、それが楽しみになるのは早かった。(因みに、私のパソコン技能はWardだけで、ExcelとかPowerPointなどという高度な技能は持たない。それで十分機能するのが地域活動である。)
毎月の自治会行事の度にカメラ取材し、原稿を書き、A4サイズの紙面を作っていく過程で、かつて高校時代の新聞部のキャップだった家内が絶好の助手として、要所要所を固めていってくれた。時にはレイアウトにアイデアを出し、枠内の文字数に合わせて記事を書き込み、文言や表現にコメントを入れ、誤字脱字の校正をやってくれた。お蔭で、今では、写真と記事ネタさえあれば、2時間で仕上がるまでに手慣れた。内助の功、ここに極まる。
度々の2ヶ月に及ぶ海外旅行の際にも事前に制作して準備し、欠号することはなく、途中入院の2ヶ月と、たまたま行事がなかった1回を除く170号を欠かさず刊行し続けてきたことに、この町の歴史を綴り続けたという、ささやかな自負がある。
ようやく後任の目途がつき、この3月の170号をもって降板することになった。いつも取材する側だから自らの顔が出ることは殆どなかったが、冒頭に書いた「降任の挨拶」に老顔を晒し、心情の一部を吐露した。この町で生き、生かされ、会社人間からいち早く地域に回帰できたのは、こんな日々があったからだろう。結果として、6年間の区長業務も、12年間の「夏休み平成おもしろ塾」塾長の役目も、14年間の広報誌「湯の谷西便り」の編集も、むしろ楽しみでこそあれ、決して苦痛ではなかった
後期高齢者になるまで馬齢を重ね、此処を「終の棲家(ついのすみか)」と定めた我が身にとって、少し早目に恩返しが出来たかな?と、バックナンバーを並べて感懐に耽りながら、最終号を町内会長に届けた。
折からの自治会行事に組長代行として出席し、「カメラを担がないで町内行事に座ったのは14年振りだな」と、何か忘れ物をしたような不思議な気持ちだった。
春一番が吹いた。我が家の庭の白梅がようやく一輪咲いて、鉛色の空から落ちる雨を受け止めている。相変わらずメジロとヒヨドリが二つ割にしたミカンや八朔をつついて、早春の気配を呼び寄せていた。
(2015年2月写真:「湯の谷西便り」バックナンバー)