蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

町内広報紙、14年の軌跡

2015年02月22日 | つれづれに

 平成13年6月、区長就任3ヶ月目の決意でした。「高齢者ばかりだから、小さい自治区だから何も出来ない」…そんな陰口を跳ね返す為に、まずこの町内の出来事や自治会行事を分かりやすく絵本感覚で新聞にして、区民の皆様の心をまとめていけないだろうか。……こうしてたどたどしく作り始めた「湯の谷西便り」も、この14年目の3月号で170号を重ねました。
 14年間カメラを担いで町内行事を追い、パソコンで紙面を作り続ける作業は、地域に生かされていることを実感できる、豊かで楽しい時間でした。
 そろそろ後任に譲り、新たな感性で再スタートして欲しいと数年前から考えていましたが、ようやくこの170号をもって、編集担当を降りることに致しました。
 長い間支えていただいた区民の皆様に、紙面を借りて心から御礼申し上げます。今後は、一区民として新たな町内広報紙の愛読者として見守らせていただきます。
 本当に、本当にありがとうございました。
……………………………………
 リタイアして翌年、町内のことは右も左もわからないままに、この小さな町(湯の谷西区)の区長(町内会長)を引き受けることになった。町内の事情にも疎く市役所とのパイプもなかったから、既に地域に密着していた家内に引き回されながら活動を始め、先ず思い付いたのが町内の広報誌の刊行だった。

 長女に手ほどきを受けながら、たどたどしくワードだけで作り始めて徐々に慣れていく過程は、それなりに緊張と気疲れの日々だったが、それが楽しみになるのは早かった。(因みに、私のパソコン技能はWardだけで、ExcelとかPowerPointなどという高度な技能は持たない。それで十分機能するのが地域活動である。)
 毎月の自治会行事の度にカメラ取材し、原稿を書き、A4サイズの紙面を作っていく過程で、かつて高校時代の新聞部のキャップだった家内が絶好の助手として、要所要所を固めていってくれた。時にはレイアウトにアイデアを出し、枠内の文字数に合わせて記事を書き込み、文言や表現にコメントを入れ、誤字脱字の校正をやってくれた。お蔭で、今では、写真と記事ネタさえあれば、2時間で仕上がるまでに手慣れた。内助の功、ここに極まる。

 度々の2ヶ月に及ぶ海外旅行の際にも事前に制作して準備し、欠号することはなく、途中入院の2ヶ月と、たまたま行事がなかった1回を除く170号を欠かさず刊行し続けてきたことに、この町の歴史を綴り続けたという、ささやかな自負がある。

 ようやく後任の目途がつき、この3月の170号をもって降板することになった。いつも取材する側だから自らの顔が出ることは殆どなかったが、冒頭に書いた「降任の挨拶」に老顔を晒し、心情の一部を吐露した。この町で生き、生かされ、会社人間からいち早く地域に回帰できたのは、こんな日々があったからだろう。結果として、6年間の区長業務も、12年間の「夏休み平成おもしろ塾」塾長の役目も、14年間の広報誌「湯の谷西便り」の編集も、むしろ楽しみでこそあれ、決して苦痛ではなかった
 後期高齢者になるまで馬齢を重ね、此処を「終の棲家(ついのすみか)」と定めた我が身にとって、少し早目に恩返しが出来たかな?と、バックナンバーを並べて感懐に耽りながら、最終号を町内会長に届けた。
 折からの自治会行事に組長代行として出席し、「カメラを担がないで町内行事に座ったのは14年振りだな」と、何か忘れ物をしたような不思議な気持ちだった。

 春一番が吹いた。我が家の庭の白梅がようやく一輪咲いて、鉛色の空から落ちる雨を受け止めている。相変わらずメジロとヒヨドリが二つ割にしたミカンや八朔をつついて、早春の気配を呼び寄せていた。
        (2015年2月写真:「湯の谷西便り」バックナンバー)

春はそこまで……

2015年02月14日 | 季節の便り・花篇

 久し振りの青空だった。
 朝の空気は切れるように冷たかったが、午前中の気功教室で1時間半身体をほぐし、車を走らせて「太宰府食堂」で好きなお惣菜を選んでお昼を食べた。焼物・揚げ物は、その場で焼きたて・揚げたてを供してくれる家庭的な食堂である。

 午後の日差しの温もりに誘われて、早春の散歩に出た。年末以来の疲労・心労で少し風邪気味の家内から、「早春のひと齣の写真撮って来て」とカメラを託される。目指すは「野うさぎの広場」と天神山散策路……いつもの変わり映えしないコースではあるが、その時その時で新鮮な発見があるから、毎日歩いても飽きることはない。
 お正月明けに、アメリカから帰省していた次女と途中までは歩いたが、帯状疱疹から完全に回復していなかった次女が痛みを訴えたため、「野うさぎの広場」の登り口を確かめたところで引き返した。以来、一か月振りの散策だった。

 毎年、一面の土筆と芹に覆われる博物館裏の湿地は、相変わらず猪のぬた場となって見るも無残に荒らされていた。木道の外れに佇むネコヤナギが、ようやく蕾を膨らませて日差しにキラキラと輝いていた。木立を縫う100段あまりの急な階段を上がって、車道から博物館の裏山にはいる山道の入り口に、石楠花が固い蕾を空に突き上げている。
 檜の樹林と孟宗竹の林の間を抜ける木漏れ日の山道は、まだ冬枯れのまま落ち葉と枯れ枝に覆われていた。行き止まりの山道だから訪ねる人も少なく、風の音と鳥のさえずりだけの静寂の空間である。辿り登った行き止まりの小さな台地、そこが私の秘密基地「野うさぎの広場」である。

 いつもの倒木に腰をおろし、水を口に含みながら汗ばんだ身体を風に弄らせた。見上げる木立越しに青空が広がり、煌めき落ちる木漏れ日が優しい。やがてひと月もすれば、此処は一面のハルリンドウが咲き誇る。待ち遠しい春の訪れである。

 車道に戻り、少し道なりに辿って天神山の尾根を縫う散策路に渡る。紅梅・白梅はまだ三分咲きにとどまっていたが、その根方に一面オオイヌノフグリが咲いていた。早春の花である。「青空のかけら」と名付けて、この道で早春の便りを探すのが、毎年の恒例となって久しい。微かなときめきが心を弾ませる。
 その傍らの側溝の縁に、一輪のスミレを見付けた。嬉しい一瞬である。早速携帯(我が家はスマホではなく、しぶとく「ガラ携」を死守している)で写真に撮り、オオイヌノフグリと一緒に、「早春賦」と書いて家内に写メした。折り返し「春はそこまで」と返信が来る。

 種子を散らせた後のウバユリの枯れ花を見ながら、天神山から「だざいふ遊園地」の脇に下る。膝に負担を掛ける階段を避け、落ち葉をサクサクと踏みながら脇の坂道をゆっくりと降りて行った。散らばるドングリに、10羽余りの野鳥が群がっていた。こんな時、野鳥の名前に疎いのが悔やまれる。

 丁度2時間、8700歩の散策だった。久し振りの長歩きで、少し膝が震える。いつも仕上げに登る120段の博物館への階段を、今日はエスカレーターのお世話になって家路についた。

 冬空を飾っていたオリオン座、そしてオリオン座のベテルギウス、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオンが形作る壮大な冬の大三角が、中天を過ぎる時間が少しずつ早くなる……こうして、季節は冬から春へと移ろっていくのだ。
 
 蟋蟀庵の紅梅・白梅の蕾は、まだ固い。
               (2015年2月:写真:早春のオオイヌノフグリ)