枝の間をせわしなく飛び回っていたヤマガラが、差し伸べたご主人の腕に一瞬とまって、見慣れない私の姿に驚いたのか、再び枝に逃げた。昔、縁日でおみくじを引いてくる見世物の主役がヤマガラだった記憶がある。しかし、野性の鳥を指から餌を啄むまでに馴らすには、よほどの優しさと根気が必要だろう。ベランダの手摺りに二つの皿が置かれている。一つの薄めたジュースをヒヨドリがいつまでも吸っていた。音や動きに敏感と聞いて、窓越しにそっと近づき、カメラのファインダーに捕えた。
時たま、男池や飯田高原・長者原の自然探究路散策の折りに寄せていただく。600坪の敷地に建つ山荘の優しさは、きっとご夫妻の人柄から滲み出るものなのだろう。眼下の水田の向こうに久住山に寄り添う山々が連なり、2階の窓越しに見はるかす風景は、四季折々の美しい絵を見せてくれる。
男池周辺の山野草の寂しさに少し思いを残しながら、帰路立ち寄った束の間のコーヒー・ブレイク。ご主人手作りの美味しいケーキを舌に溶かしながら、深煎りの珈琲の寛ぎに深く浸っていた。
山庭に待っていた思いがけない花々。ヤマシャクヤクが程よいふくらみで、恥ずかしげに黄色い花芯を覗かせる。この花は、綻び始めた今がいい。ハルリンドウが、ヤマルリソウが、エヒメアヤメが、ニホンサクラソウが、そして、初めて見る黄花のカタクリまでも咲かせて、此処は春真っ盛りだった。今日の日差しに、霧氷が咲いたという戻り寒波の鋭さはなく、我が家の食卓を飾るに足りるワラビまでが、得意気に風に揺れていた。
淡いピンクの花弁をふたつ並べるニリンソウの初々しさ、青い小花を広げるワスレナグサの可憐、小さなランタンを連ねるアマドコロ、紫の花を立てるカキドオシ、艶やかに輝く葉に囲まれたヒトリシズカ、傍らに群生するスズランも鈴を並べようとしている。ミツバツツジもいっぱいにピンクの蕾を立てて、既に数輪が花開いていた。リハビリ痛の肩も忘れ、左手に支えた1kgの一眼レフのファインダーに花を追い続けた。至福の時間はあっという間に過ぎた。
お土産は「天ぷらにどうぞ」といただいたタラの芽、コシアブラの新芽、ハナイカダの葉、庭からご主人が掘り採って下さったウド。お隣の山荘の奥様から鉢植えの葉ワサビまでいただく果報に、尽きぬ名残を抱えて山を下った。
傾く日差しの下を、気温13度の長者原から標高1,333mの牧の戸峠を越え、ヘアピン・カーブの「やまなみハイウエイ」を瀬の本に下った。豊後竹田に向かって10分あまり、今夜の宿「久住高原コテージ」に着いたのは、昨日電話で約束した15時を既に2時間も超えていた。
遅くなったチェック・インに夕飯は19時40分の遅番に回されたが、そのおかげで広い露天風呂を独り占めにする癒しの時間が待っていた。吐口から広がる波紋に湯気が纏わりつき、高原の遥か向こうには阿蘇五岳の涅槃像が横たわる。冬将軍も、多分これで刃を納めることだろう。湯船の傍らでいっぱいの花を咲かせていたエゴノキが、何故か切り倒されて切り株だけが残されていた。女湯と隔てる土手は、黄色のキンポウゲが盛りである。
1,500円グレードアップした和懐石の夕飯を、一杯の地ビールとワインのほろ酔いで終えると、いつもの寝る前の露天風呂を楽しむゆとりもなく眠りに沈んだ。
5時の黎明に目覚めて朝風呂にはいり、バイキングの朝食をゆっくり摂る頃から空模様が怪しくなってきた。予定していた竹田でのイチゴ狩りを割愛し、ガンジー・ファームで買い物して赤川温泉に立ち寄った。
多少の湯疲れを感じながら硫黄の匂いに包まれ、瀬の本、黒川温泉経由、お気に入りのファームロードWAITAを駆け下った。帰り着いた15時、300キロを走り抜いた車の窓に雨が来た。
山野草尽くしの旅が終わった。
(2013年4月:写真:E山荘2階の窓から望む九重連山