蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

夕闇に儚く

2005年08月24日 | 季節の便り・花篇

 孫達が土産に残していったスズムシが、夜毎涼やかに秋を告げている。8月12日、陋屋の裏口で蟋蟀(コオロギ)の初鳴きを聴いた。残暑を引きずりながら、それからの季節の足取りは速かった。10日後の今日、気が付けばカネタタキも庭の隅から澄み切った音色を届け、我が家はいつの間にかすっかりコオロギの鳴き声に包まれている。
 すだく虫の声に誘われたように、夕顔が一輪、宵闇の中にひっそりと花開き、薫りを拡げた。夜風に揺れる清楚な白、それは少し寂しく儚いが故に一層惹きつけるものがある。「源氏物語・巻之四・夕顔」。修猷館高校3年、初めて源氏物語に触れた。中学の頃から「奥の細道」「平家物語」はじめ、幾つもの古典にのめり込んではいたが、「源氏」はまだ難しすぎた。ようやく辿り着いたときには受験地獄の真っ直中、深く読み込むには心のゆとりをなくしている時期だったが、繰り広げられる絢爛たる世界に陶酔した。
 かつて頭中将と3年の月日愛し合って枕を交わし、女の子までもうけながら姿を隠した常夏の女・夕顔。その住まいはやや荒廃し、塀には青々と蔓が茂って、白く儚い夕顔が花開いていた。光源氏17歳、夕顔19歳。葵の上、六条の御息所、引徽殿女御と高貴な育ちの女性ばかりと情を交わしていた光源氏にとって、低い身分の夕顔との出会いは新鮮だった。
   心あてに それかとぞ見る 白露の
             光そえたる 夕顔の花
と扇に歌を添えた夕顔に、光源氏も歌で返す。
   寄りてこそ それかとも見め たそかれに
             ほのぼの見つる 花の夕顔
 こうして始まっためくるめく二人の恋も、やがて京の片田舎の荒れ果てた廃屋の一夜、怖れ怯える夕顔が、嫉妬に狂う六条御息所の怨霊に呪い殺されて終わる。
 多感な年頃である。時の国語教師とその一節の解釈を巡って2週間論議を交わしたこともあった。
 その夏、受験勉強の多忙を割いて、親友と3人で久住に登った。十三曲りをバスで越え、長者原から硫黄山の中腹を巻いてすがもり越えに上がり、北千里に下ったところで深い霧に包まれた。足元が霞むほどの濃霧である。日暮れ近い焦りの中で途方に暮れた。夏でも山は怖い。閃いたことがあって、三人で足元に蹲り、降りしきる雨の流れを這うように追った。やがて一瞬の霧の晴れ間に猿岩が見えた。坊がつる・法華院温泉への下りがここから始まる。北千里ではこの切れ目からしか雨水は流れないことを思い出したのが幸いしたのだった。
 三日の間法華院に雨で閉じこめられた。山小屋で雨の音を聴きながら、「源氏物語巻之二・帚木」の章の「雨夜の品定め」を真似て、源氏に登場する女性達を論じたことを思い出す。夕顔への憧れで3人の意見は一致した。貝原益軒13代目の子孫と北原白秋の愛弟子の息子、中学で出会った二人の親友達だった。プランクトンを追っていた一人は鳥取大学の医学部教授となり、貝を採集していた一人は芸大卒業後開いたデザイン事務所をやがて失敗し、失意のうちに癌で逝った。昆虫少年だった私は、今こうして蟋蟀庵で自適の日々を送っている。それぞれの人生の軌跡を辿りながら、遠い日を想った。
 夕顔の住む貧しい家の軒先で、光源氏も蟋蟀を聴いたという。
            (2005年8月:写真:夕顔)

夏の別れ

2005年08月06日 | つれづれに

 激しい雷雨が襲った。朝のギラつく日差しが嘘のように、俄かに沸き上がった黒雲から注がれる大粒の雨が大地を叩いた。そんな中、庭の片隅で日差しを避けていた鉢に、今年もイワタバコが紫の花を咲かせた。原爆記念日。雨を聴きながら、ふと10年前のこの日のエッセイを読み返す心境になった。

 ……五十路を過ぎ、午前様が翌日こたえるようになり、ものともしなかった筈の夏の暑さがいつの間にか鬱陶しくなり、気が付いたら礼服のネクタイの白を締める機会が少なくなり、圧倒的に黒いタイばかり多くなって……。
 「そんな年代になったんだな…」
 それを認めることは寂しくもあり、さらに避け難い怖れも心の片隅にひっそりと育って来ている。
 身近な年齢の訃報が増えた。しかも、その訃報の年齢幅がいつの間にか自分の歳をうしろに通り過ぎて、若くなりつつある。死の影が頭上を通り過ぎて若返っていく……緊張しながらそれを見守っている自分がいる。
 8月2日、家内の従妹のマサヨが逝った。48歳。肺癌が、それも末期に至らず、むしろ2度目の入院と抗癌剤の投与で落ち着いた筈なのに、呆気なく若い命を奪い去っていった。
 本人は勿論、周囲の者達にとっても心の準備もならず、茫然自失の弔いとなった。サバサバと明るい、博多の女だった。東京の長女はいきなり涙声となり、アトランタの次女は「ウソォ!」と言って信じようとしなかった。
 20年前沖縄に赴任したとき、マサヨ一家が先行して沖縄に住んでいた。長女は沖縄で小学校3年生に進学し、次女は幼稚園にはいった。二人にとって第2の故郷となった沖縄だけに、同じ接点を持つマサヨ一家とは、一段と深い思い出があったに違いない。
 娘達は二人とも遠く離れ、私も東京出張のため葬儀に参列できず、家内だけが通夜から福岡に駆けつけた。妹同様に可愛がっていた家内にとって、衝撃は大きかった。葬儀を終えて4日目に、気力も体力もすっかり失って広島に帰り着いた。慰める言葉がなかった。

 葬儀の翌日の8月6日、広島は50回目の原爆の日を迎えた。出張から戻り、夕食を終えて、原爆ドームの下まで灯籠流しを送りに行くことにした。原爆資料館の噴水が、半月に向かって七色の水を噴き上げ、点在する記念碑は無数の千羽鶴に覆い尽くされていた。ひとつひとつに手を合わせながら、平和公園の人並みを分けて夕闇迫る川べりに出た。
 僧侶の読経が川面を叩くように響き渡る中を、無数の色とりどりの灯籠が、縺れたり離れたりしながら海に向かって流れた。ビルの明かり、ネオンの輝きが戦後50年の繁栄でドームのライトアップを包み込み、その絢爛さがむしろ戦後の風化を感じさせる。多少後ろめたい思いで川べりに座り、カメラで灯籠を追う私自身が、所詮よそ者の観光客でしかないのだ。人混みの中には外国人の姿も多い。それぞれが何を思い、何を見ているのだろう。
 
 このところ街もマスコミも原爆一色に染められ、街中が叫び続けているようだった広島…。
 むしろヤマトンチュには触れてほしくない傷跡として、背中で泣いているように思えた沖縄…。
 ミサの中にひっそりと包み込んでいた長崎…。
 
 先の大戦で最も激しく悲しい戦火に見舞われた三つの街。短い間ながら住み着き生活して、自分なりに感じたそれぞれの街の平和への姿勢の違いを、改めて噛みしめてみる。
 私自身の中でも、もう紛れもなく風化が始まっているのだが、こだわり続けるものと、キッパリ歴史のページの中に袂別するものと、はっきりけじめを付ける……それが「戦後50年」の正しい受け止め方ではないだろうか。

 引き潮に乗って、灯籠は無数の魂をその灯のちらつきに纏わせながら、海に向かって流れ続けた。手を合わせて立ち去る私の背中を、読経の声がいつまでも追い掛けてくるようだった。
 この日、アトランタの次女は26歳の誕生日を迎えた。……(1995年8月)

 地を裂く落雷を聴きながらこの10年の歳月を思った。広島は今年も変わらず60年目の式典が行われた。この10年で日本はどれだけ「平和」に向かって前進したというのだろう。イラクに兵を送る政治家の詭弁が蘇り、空しさだけが心に去来した。
           (2005年8月:写真:イワタバコ)

千灯明

2005年08月03日 | つれづれに

 昼間の油照りの余熱がまだ境内に籠もっていた。心配していた風もおさまり、夕凪の中を次第に闇が落ちてくる。大宰府天満宮・夏の風物詩、「千灯明」の夜が来た。
 小学校3年生と幼稚園年長組の孫娘が、初めての大冒険。二人だけで空の旅をして羽田から飛んできた。二人は大人達の心配をよそに、何事もなかったように空港係員のお姉さんに連れられて改札口から降りてきた。
 折良く翌7月25日は天満宮の夏祭り2日目。早速家内が浴衣を着せ、早めの夕食を終えて出掛けることにした。参道裏の駐車場に車を止めて境内にはいると、幾つもの屋台が並び、縦横に張り巡らされた提灯の列の下に夏祭りの賑わいが弾けていた。氏子達や子供達の浴衣姿に、境内はいつにないざわめきの中にあった。小さな手を合わせて殊勝に参拝する孫の姿に目を細めたあと、茅の輪をくぐり、現在、過去、未来を繋ぐと言われる朱塗りの太鼓橋に上がった。蝉の姦しい鳴き声も鎮まり、盆踊りの音が消されて静寂が落ちる。氏子や子供達が描いた絵が灯籠に仕立てられ、参道の上に掲げられている。そういえば娘の絵が飾られたのは、もう何年前のことだろう。
 午後8時。打ち鳴らされる太鼓を合図に、心字池の周りと太鼓橋の欄干に取り付けられた数千本の蝋燭に灯がはいる。分けてもらった蝋燭に灯を移し替え、孫達にも点灯の経験をさせた。上の子は昨年の大晦日、山門脇の禅寺・光明寺で初めて除夜の鐘を撞く体験もした。35年住んだ太宰府で娘達が体験してきた行事を、こうして少しずつ次の世代に受け継いでいく。ライトが落とされた中で揺らぐ蝋燭の灯が心字池の水面に映え、幻想的な世界が夜の底に広がっていった。橋から眺め、橋を降りて眺め、池の畔を周りながら眺め、光の揺らぎはいつまでも飽きることがなかった。
 静止する電灯でなく、生きた小さな焔の揺らぎだからこそ広がる幻想の世界。いつまで「ジージ」「オバアチャン」と慕ってお正月と夏休みに来てくれるかわからないけれども、この静かな光の饗宴を忘れないでいてほしいと思う。
 半ば蝋燭が燃え進む頃、再び盆踊りの輪が蘇った。神官や宮司の家族も踊りの輪の中で笑顔を振りまいていた。そんな姿にカメラを向けて挨拶しながら、孫達の手を引いて輪の外を巡った。
 汗に濡れた肌を夜風が優しく撫でて過ぎる。梅雨が明け千灯明も終わると、太宰府の夏は一段と暑さを募らせる。2週間の孫達の夏休みがこうして始まった。
        (2005年8月:写真:大宰府天満宮・千灯明)

少年時代

2005年08月03日 | 季節の便り・虫篇

 「おじちゃーん!」お向かえの誠也クンの声がする。玄関を開けると、誇らしげに右手を挙げながら「ノコギリクワガタ!」と叫ぶ誠也クンがいた。4年生の虫キチだが、その知識は侮りがたいものがある。
 町内の子供達を集めて、毎年「夏休み・平成おもしろ塾」なるものを開いている。町内のお年寄り達が、ボランティアでお点前やお習字や大正琴を子供達に教える小さな塾なのだが、毎年身近な虫の話の特別授業をするのが塾長としての私の役割なのだ。子供達から「虫博士」と呼ばれて悦に入っていたが、誠也クンの博学に脱帽し、先年「虫博士」の資格を彼に譲ることにした。夏の間中、虫かごを離さない健気さが嬉しい。
 中学校時代、いっぱしの虫キチだった。学校の裏山に365日通い詰め、虫を追い続けた。何月のこの時期、この時間にここに立つと、こっちからあっちへ何々という蝶々が飛んでいく(これを「蝶道」という)ということを極めるまで詳しくなり、東京の大人の同人誌に投稿するほど虫にハマッていた。
 当時、昆虫少年は少なくなかったが、今みたいにあらゆる道具が揃っている時代ではなく、捕虫網、三角ケース、捕虫瓶、展翅台、ピンセット、標本箱など全てが手作りだった。当時のノートを開くと、その製作メモが克明に綴ってあり、豊かでなかった分、「創造の喜び」をほしいままにしている幸せが行間に溢れている。勿論珍しい虫を売りつける哀しい大人など存在しなかった。世の中が豊かになっていくにつれて喪われていったものは数限りない。
 夜中に起きて自転車で1時間の山の中に入り、樹液を溢れさせる櫟の木立を何度も廻って、30匹ほどのカブトムシやクワガタを箱一杯に詰めて薄明の中を帰って来たり、山中に泊まり込み、白いシーツを樹間に張り巡らせて、藪蚊に苛まれながらアセチレン灯で虫を集めたり、毎日が夢のように過ぎていった。
 しかし、標本箱の数を誇る期間は短かった。虫を殺せなくなった幾つかのキッカケがある。その一つ、中学卒業式を終えた早春の一日、まだ寒風が吹く太宰府・都府楼政庁址で、スカンポの葉裏に初めてベニシジミの幼虫を見付けた。淡いグリーンに優しいピンクを掃いた幼虫はあまりにも可憐だった。道端を小さな焔のようにチロチロと舞うベニシジミは、私の一番好きな蝶だった。雪に埋もれ、半ば凍結したまま冬を越すその幼虫の神秘に打たれ、やがて「採集」から「飼育」に転じた。大人になってからは300ミリの望遠レンズを着けたカメラで、野にあるがままの姿を追うようになって今に至っている。
 今、誠也クンの周りに昆虫少年の輪が出来始めている。この前も3人の悪ガキ共が「おじちゃーん、スズムシ見せて!」とやって来た。この夏、孫達が二人だけで飛行機に乗って横浜から帰省する際、虫かごを抱えてきた。5匹のスズムシが育ち、数日前から綺麗に鈴を転がし始めている。我が家の孫娘二人も、「虫愛ずる姫君」に育ちつつあり、元・虫博士としては、密かに快哉を叫ぶ日々である。
 夏の日差しには、「少年時代」への郷愁を誘う魔力があるようだ。
           (2005年8月:写真:ノコギリクワガタ)