蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

旅の出会い

2011年05月26日 | 季節の便り・旅篇

 夜来の雨が、早朝ひとしきり雨脚を早めた後、次第に山霧が晴れていった。降りしきる雨に露天風呂を諦めて、内風呂で寝不足の重い身体と意識を宥めた。朝食を済ませ、ようやく雨が上がった10時半、湯坪温泉・K館を発った。いただいたお土産は、オーナーのE子さん自らが撮って作った、小さなアサギマダラの栞だった。
 山肌を縫う九十九折れの道を、再び長者原に向かう。少し時期を外しているが、味噌汁の具くらいは…と期待しながら、毎年野焼きの後のキスミレの群落を見る斜面の傍らに車を停めた。殆ど育ってしまった中に、おっとり寝坊した柔らかそうな蕨が幾つも立っていた。あと1本、あと1本のつもりが、包み込む掌を次第に膨らませてしまう。少し未練を残しながら車に戻った時、上から2台の車が下って来て徐行。「…君!」と声が掛かった。
 ご町内のTさんご夫妻の一行だった。一日早く久住にはいり、久住高原コッテージに2連泊して高原歩きを楽しまれており、メールで天候情報などを交換していたのだが、広い高原のこんな場所で偶然の邂逅、女同士は抱き合って喜んでいた。こんな旅のハプニングが時々起きる。
 ローマからベネチアに向かう列車の中で、俳優の日下武史と出会って荷物を棚に上げるお手伝いをしたり、ナイアガラの滝の傍で隣町の人に会ったり、ロスからの成田便で葉加瀬太郎や、沖縄出身のダンス・グループDA PUMPと一緒になったり…そういえば、マリナーズ時代の城島 健司が、恩師・王監督の手術見舞いに駆けつける姿を前の席に見たのも飛行機の中だった。日本語の聞こえない快感を知った海外旅行だが、元日のカリフォルニア州の国立公園デスバレーの岩陰から突然日本語が聞こえてきたり、アリゾナ州アンテロ-プ・キャニオンの地の底で、バッタリ日本人カメラマンに出会ったり、メキシコ・ロスカボスのネット・カフェに寄ったら、オーナーが日本人の女性だったり…何処に行っても、日本語から逃れるのは難しい。「憧れのハワイ航路」(ちょっと古いかな?)の時代からは、隔世の感がある。インドネシア・バリ島では、英語の話せないドイツ人夫妻と英語の話せない日本人夫婦が、片言の英語で一緒にクタの街を歩くハプニングもあった。これが、旅の醍醐味でもある。

 「お気を付けて!」と声を掛け合い別れた後、長者原を走り抜け、昨日お世話になったE山荘を遠望しながら男池(おいけ)に下った。山霧がまだ深く地を這い、肌寒い散策路も濃い霧の中に沈んでいた。春の花時を終えた小径には、もうヤマルリソウもヤマエンゴサク、サバノオ、ヒトリシズカ、ネコノメソウ、シロバナエンレイソウなどの彩りもなく、ただオオチャルメルソウが寂しく立つだけだったが、幻想的な木立の静寂が心に残った。

 束の間の霧の散策を終えて、湯の平経由湯布院にはいる。人気沸騰以来、急速に俗化してかつての湯治場の風情を喪っていった街中を避け、由布岳を右に仰ぎながら登っていった奥に、行きつけのペンション・レストラン・Mがある。予告してた時間を待ちかねたように、散り落ちるエゴノキの傍らで、店の名前の由来にもなった髭のマスターが、満面の笑みで迎えてくれる。自家製のパンで自家製のソーセージを包んだオリジナルのホットドッグ、香ばしさとジューシーさが絶品である。焼き野菜に珈琲を添えた遅めのランチは、今日も納得の味だった。
 時折泊めていただき、仕事を終えたマスターとワインや泡盛を傾ける夜は楽しい。誰にも奨めたい反面、独り占めしたい寛ぎの空間でもあるのだ。いつも期待に胸が膨らむ、もうひとつの出会いが此処にある。
 真っ赤なタイルを星のようにちりばめたドーム型のピザ釜と、四角いパン焼き釜と、ふたつの石釜が建造中だった。3度の火入れをして焼き込み、6月になると新しいメニューが加わる。釜を築く職人を指示するのは、まだ若い女社長だった。

 湯布院ICから大分道に乗る頃、ようやく西の空が晴れてきた。この日、南九州が例年になく早い梅雨入りを迎えた。
               (2011年5月:写真:霧の散策路)
 

雨を聴く

2011年05月25日 | 季節の便り・旅篇

 弾ける…弾ける。湯煙に、日暮れ近い山霧をかすかに絡ませながら、頭上の梢から雨の雫が降りかかり、半球状の泡を浮かばせては弾ける。弾けた泡から、また小さな泡が散る。顎まで沈めた顔の前で、繰り返す水玉の戯れに見入りながら、掛け流しの露天風呂にひっそりと身を沈めていた。湯坪温泉・K館、久し振りの訪れだった。

 九重連山を東から展望する山の斜面に建つ山荘で雨を聴きながら、至福の午後を過ごした。山荘の主・Eさんのお招きで、6年ぶりの訪問だった。ご主人はかつての山男。自然木の味わいを活かして造られた暖かな木の空間には、数多の山暦を偲ばせるザイルやピッケルがさりげなく飾られ、薪ストーブの焔が譬えようのない寛ぎの時を刻んでいた。2階の窓際に置かれた2脚の椅子、そこは眼下の広い水田と雄大な九重連山を見晴るかす、取って置きの指定席である。柱に釣られたハンモックが、しきりに心を誘う。いつか又、時を忘れ世俗を抜け出し、このハンモックに揺られて緑の風を聞きながら、黙って至福の空間に身を委ねてみたいと思った。その静寂をそのまま具現したような、穏やかで暖かいご主人の存在感は、何故か懐かしく魅力的だった。
 600坪の敷地内には豊かな木々や植物があるがままに置かれ、花時には様々な木々や山野草の花が庭を飾る。浅緑の芽吹きから新緑、夏の深緑を経て紅葉に染まり、やがて冬枯れの梢に雪を置くまで、この庭には絶えることなく小鳥の声が飛び交う。木の幹に括られた巣箱ではシジュウカラやヤマガラが営巣し、すっかり人懐こくなったヤマガラが、ご主人の指先から餌を啄ばんでいく。その一瞬をファインダーに捉えた。今回の旅の最大のときめきの瞬間だった。
 長い年月を掛けて心を籠めて土地の人と融和し、自ら手を掛けて作り上げてきた山荘は、ご夫妻にとっては何物にも代えがたい宝物に違いない。羨む気持よりも、此処に招かれ、この雰囲気に無心に酔うことが出来る幸せを噛み締めるばかりだった。此処では言葉は要らない。むしろ沈黙こそ相応しい。薪ストーブの焔が熾き火となり、ひっそりと灰になるまで、持参したサンドイッチに珈琲を添えてランチを楽しみ、ご主人の撮った四季折々の山荘の景色を見せていただきながら、豊かな時が流れた。

 日暮れ近く、降り続く雨の中に名残を惜しみながら辞し、長者原を経て湯坪温泉に下った。今夜も私達の貸し切りである。欅の巨木の下に広がる山庭の向こうに、いつも優しく稜線を見せる泉水山も今日はすっかり雲に覆われ、時折雨脚の合間を縫ってウグイスの笹鳴きやカッコウの声が届く。雨に濡れるのも厭わず、露天風呂に浸かった。山庭の片隅に竹垣を巡らせ、石を組んだ小さな2坪足らずの露天風呂なのだが、頭上の木々が四季それぞれの佇まいを見せてくれる。今回の連れも、いつもの山仲間のN夫妻。ご主人の正昭さんは、時として劇的な演出をこの露天風呂で繰り広げる。(自作の竹灯を並べて誘い込まれたときの感動は、かつてこのブログでも紹介した。「露天風呂幻想」(2005-07-19 13:52:56 | つれづれに)
 湯上りには、芳醇な食前のワインとカマンベール・チーズが待っていた。この日、5月23日、我が家の46回目の結婚記念日だった。

 宿の奥様、E子さん手作りの夕飯の後、ひとしきり山仲間と談笑して夜が更けた。持参のマイ枕とマイパジャマで就いた床に、何故か眠りが訪れるのは遅かった。越し方行く末に思いを馳せたわけでもない。ただ訳もなく目が冴え渡り、雨の音を聴き腕時計の1時のチャイムを聞きながら、夜の闇の中でいつまでも膝を抱えていた。
 初夏の山宿の夜は、まだしんと冷え込む肌寒さだった。
             (2011年5月:写真:餌を啄ばむヤマガラ)
 

人生ゲーム

2011年05月06日 | つれづれに

 夜更け、石穴神社の深い森でフクロウが鳴いた。「ホウ、ホウ、ホホッホ、ホッホ」と聴こえる鳴き声も、聴く人によって表現は様々である。図鑑を開くと「ゴロスケ、ホッホ」「ウォウォ、ゴロスケコーホー」と表記されている。緑深いこの森があるから、蟋蟀庵の趣がある。久し振りの訪れだった。「まだ、いたんだ!」…懐かしくて、しばらく闇の中に佇んで耳を澄ませた。
 娘達が、まだ中高生の頃だっただろうか、部活のトレーニングを兼ねて冬の早朝ランニングをやっていた時期があった。熟睡している娘達を起こし、真っ暗な冷気の中を天満宮の境内まで走り、弾む息を宥めながら体操していた時、天神の杜でフクロウが鳴いた。

 連休中日、横浜から長女一家がやって来た。余震が続く街を逃れ、揺れない夜を温泉で寛ぎながら爆睡したい!おばあちゃんの快気祝いと、母の日のお祝いもしたい。…娘婿は文字通り東奔西走の海外出張が続き、時差ぼけで疲れ果て、ひたすら眠りたいことだろう。…盛りだくさんの意味合いを籠めて空港のゲートを出て来たとき、下の孫は「ジージと一緒にやるんだ!」と、大きな「人生ゲーム」の箱を大事そうに抱えていた。中学3年生と小学校6年、1年2ヶ月の時の流れは、子供の成長を驚異的に見せる
 視界5キロの濃い黄砂の中を、その日のうちに原鶴温泉に走った。大渋滞の高速道を尻目に、閑散とした裏道をスイスイと走る。6人は車の定員を超える。娘と上の孫は、鹿児島本線から久大線を乗り継ぎ、都会では珍しい一両編成のローカル電車の旅を楽しんだ。

 熟年期をひた走る娘達、あとで考えると信じられないような厳しい毎日を、当たり前のようにさりげなく生きている時である。
  「疲れたら休んでもいいんだよ。まだまだ長い人生が残っているんだから。自分を大事にして、流れに逆らわずに生きて行きなよ」
 そう心で声を掛けながら遠くで見守る私達は、既に人生の玄冬期にある。青春は遠く想い出の中に薄れ行き、娘達と同じ朱夏の季節は、ひたすら走り続けた。白秋の時節に現役を去り、ようやくススキの原に穏やかで真っ直ぐな自分の道を見出した。振り返れば、足跡は時に深く、時に浅く、時に乱れて道を踏み外しながら、連綿と続いている。悔いはいっぱいあるけれども、もう辿り直すことは出来ないし、路傍の花を愛で、景色を記憶に残しながら、残された短い道のりを辿るばかりである。やがて、玄武(亀)の背に乗って、静かに彼岸に渡る時が来るだろう。これが私達の「人生ゲーム」のゴールである。
 地球上の分子の数は、殆ど変っていないという。私自身の分子も、やがて姿を変え、違う命を生きるのかもしれない。そこに、「来世」や「輪廻転生」の夢を見ながら、充実した今を大切に楽しみたいと思う。

 「人生ゲーム」は下の孫が圧勝。横浜でのリベンジを約束して、娘一家は原鶴温泉の湯煙で疲れを癒し、一夜を我が家で眠って、慌しく長崎へと旅立っていった。俄かにガランとした初夏の蟋蟀庵は、孫達が残していってくれたエネルギーで励まされながら、またジジババふたりの日々に戻った。

 夜更けの森に、闇を包み込みながらフクロウが鳴く。
             (2011年5月:写真:川面に見入る孫娘達)