夜来の雨が、早朝ひとしきり雨脚を早めた後、次第に山霧が晴れていった。降りしきる雨に露天風呂を諦めて、内風呂で寝不足の重い身体と意識を宥めた。朝食を済ませ、ようやく雨が上がった10時半、湯坪温泉・K館を発った。いただいたお土産は、オーナーのE子さん自らが撮って作った、小さなアサギマダラの栞だった。
山肌を縫う九十九折れの道を、再び長者原に向かう。少し時期を外しているが、味噌汁の具くらいは…と期待しながら、毎年野焼きの後のキスミレの群落を見る斜面の傍らに車を停めた。殆ど育ってしまった中に、おっとり寝坊した柔らかそうな蕨が幾つも立っていた。あと1本、あと1本のつもりが、包み込む掌を次第に膨らませてしまう。少し未練を残しながら車に戻った時、上から2台の車が下って来て徐行。「…君!」と声が掛かった。
ご町内のTさんご夫妻の一行だった。一日早く久住にはいり、久住高原コッテージに2連泊して高原歩きを楽しまれており、メールで天候情報などを交換していたのだが、広い高原のこんな場所で偶然の邂逅、女同士は抱き合って喜んでいた。こんな旅のハプニングが時々起きる。
ローマからベネチアに向かう列車の中で、俳優の日下武史と出会って荷物を棚に上げるお手伝いをしたり、ナイアガラの滝の傍で隣町の人に会ったり、ロスからの成田便で葉加瀬太郎や、沖縄出身のダンス・グループDA PUMPと一緒になったり…そういえば、マリナーズ時代の城島 健司が、恩師・王監督の手術見舞いに駆けつける姿を前の席に見たのも飛行機の中だった。日本語の聞こえない快感を知った海外旅行だが、元日のカリフォルニア州の国立公園デスバレーの岩陰から突然日本語が聞こえてきたり、アリゾナ州アンテロ-プ・キャニオンの地の底で、バッタリ日本人カメラマンに出会ったり、メキシコ・ロスカボスのネット・カフェに寄ったら、オーナーが日本人の女性だったり…何処に行っても、日本語から逃れるのは難しい。「憧れのハワイ航路」(ちょっと古いかな?)の時代からは、隔世の感がある。インドネシア・バリ島では、英語の話せないドイツ人夫妻と英語の話せない日本人夫婦が、片言の英語で一緒にクタの街を歩くハプニングもあった。これが、旅の醍醐味でもある。
「お気を付けて!」と声を掛け合い別れた後、長者原を走り抜け、昨日お世話になったE山荘を遠望しながら男池(おいけ)に下った。山霧がまだ深く地を這い、肌寒い散策路も濃い霧の中に沈んでいた。春の花時を終えた小径には、もうヤマルリソウもヤマエンゴサク、サバノオ、ヒトリシズカ、ネコノメソウ、シロバナエンレイソウなどの彩りもなく、ただオオチャルメルソウが寂しく立つだけだったが、幻想的な木立の静寂が心に残った。
束の間の霧の散策を終えて、湯の平経由湯布院にはいる。人気沸騰以来、急速に俗化してかつての湯治場の風情を喪っていった街中を避け、由布岳を右に仰ぎながら登っていった奥に、行きつけのペンション・レストラン・Mがある。予告してた時間を待ちかねたように、散り落ちるエゴノキの傍らで、店の名前の由来にもなった髭のマスターが、満面の笑みで迎えてくれる。自家製のパンで自家製のソーセージを包んだオリジナルのホットドッグ、香ばしさとジューシーさが絶品である。焼き野菜に珈琲を添えた遅めのランチは、今日も納得の味だった。
時折泊めていただき、仕事を終えたマスターとワインや泡盛を傾ける夜は楽しい。誰にも奨めたい反面、独り占めしたい寛ぎの空間でもあるのだ。いつも期待に胸が膨らむ、もうひとつの出会いが此処にある。
真っ赤なタイルを星のようにちりばめたドーム型のピザ釜と、四角いパン焼き釜と、ふたつの石釜が建造中だった。3度の火入れをして焼き込み、6月になると新しいメニューが加わる。釜を築く職人を指示するのは、まだ若い女社長だった。
湯布院ICから大分道に乗る頃、ようやく西の空が晴れてきた。この日、南九州が例年になく早い梅雨入りを迎えた。
(2011年5月:写真:霧の散策路)