蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

晩秋の落し物

2018年11月20日 | つれづれに

 新調したカウベルをリンリンと鳴らしながら歩いた。時折晴れ間が覗くと、肩から背中に温もりが拡がり、うっすらと額に汗が滲み出る。日が陰ると、吹く風は既に晩秋。さくさくと落ち葉を踏みながら、いつもの散策路を辿った。道端に立つ紅葉が午後の日差しを浴びて艶やかに輝き、ようやく秋を感じる午後だった。

 与えてもらった残り1ヶ月のリハビリ。起き抜けにベッドの上で30分の筋トレストレッチを済ませ、10分間のテレビ体操の後、道路の枯れ紅葉を掃く。もう残り僅かになった紅葉の後を、キブシが追っかけている。7時前の朝風は、もう冷たかった。俄かに足取りを速めた季節に、庭の色彩が褪せていく。少し寂しさを催す季節だった。

 朝食後の洗濯を終えて、しばらく読書に耽った。じっと坐っていると、何時ものように股関節に違和感が生じる。少し歩き出せば疼痛は消えるのだが、残されたリハビリの課題である。人口股関節置換手術を受けた人の中には、痛みにびっこを引いたり、杖が必要な人も少なくないのに、この程度の違和感で済んでいるありがたさを思う。この違和感に親しみながら、これからの生活の中で慣れていくことになるのだろうか。

 昼食を済ませ、注ぎ始めた日差しに誘われて、ショルダーバッグとトレッキングポールを持って歩きに出ることにした。今日は御笠川沿いではなく、博物館を経て、山道を歩きたかった。
 博物館を巻いていくと、百合の種がすっくと立ち、ツワブキの黄色が存在感を示す。博物館を過ぎて山道にはいれば、昼下がりの散策路は人影もなく、落ち葉を踏む足音と背中のカウベルの音が、木立の静寂の中を漂っていくばかりだった。
 イノシシの乱暴狼藉は一段と過激になり、博物館周辺は勿論、この山道もいたる所が掘り返されていた。間違いなく、野性が勢力を拡げている。イノシシの数も、きっと増え続けていることだろう。夜歩けば、いったい幾頭のイノシシに遭遇することだろう。少しずつ、人に奪われた生息圏を奪還しつつある野性。イノシシ、猿、鹿、野うさぎ、野ねずみ、タヌキ、ハクビシン……畑仕事に励む人たちには申し訳ないが、何処かで野性を応援している自分がいる。人の生活圏にはいりこんでくる野性に、ドキドキわくわくしている自分がいる。

 「野うさぎの広場」で、朽木のマイベンチに座って喉を潤す。ふと思いついてショルダーから、小鳥を呼ぶ笛を出した。キュルキュルキュルリと鳴らしてみたが、木立の中で騒ぐのは、ヒヨドリとカラスだけだった。日差しが雲に隠れ、木漏れ日が消えると、もう晩秋の肌寒さが背筋を這う季節だった。

 106段の階段を、博物館に向かって下る。湿地帯はイノシシのぬた場。傍らのネコヤナギが、もう固い蕾をいっぱいに着けていた。セリが消えてしまった後に数珠玉が立って、びっしりと実を着けていた。
 もうずいぶん昔、娘たちがまだ幼いころ、この数珠玉を集めて糸を通し、暖簾や状差しを作った。2階の棚の上には、まだ箱いっぱいに、その時の数珠玉が残っている。先年の福岡沖地震で、震度4強の揺れに驚き庭先に飛び出した時、棚から落ちた箱から無数の数珠玉が部屋中に散らばった……みんな、遠い日の想い出になってしまった。

 四阿の近くで、肩にことんと落ちて来たものがあった。足元を見ると、踏み場もないほどドングリが散り落ちていた。晩秋の落し物、プチプチと踏みしめながら、幾つかを拾い上げてポケットに詰めた。今日の散策のお土産にしよう。

 6178歩、遊びながらゆっくり辿った散策路で、2時間の晩秋を楽しんだ。股関節に痛みはなく、むしろ 心地よい疲れだった。
              (2018年11月:写真:晩秋の落し物・ドングリ)

真っ向勝負

2018年11月16日 | 季節の便り・旅篇

 吐口から落ちる湯の音が、深い夜の暗がりに静寂を呼ぶ。湯船に差しかかる紅葉は既に枯葉色。乱高下する温度変化で、今年は目を瞠るような鮮やかな紅葉を見ることはなかった。ようやく季節に気温が追い付き、俄かに冷たい風が吹き始めた。夜気に濃くなった湯気が、湯の上を捩れるように這う。人っ子一人いない露天風呂を、今夜も独り占めして夜が更けた。

 宿に着いてすぐに飛び込んだ大浴場は、未就学の姉弟を連れた父親とお爺ちゃんの家族連れに占められていた。吐口の下の半畳ほどの湯船はピリッと熱い。48度の源泉から送る間に少し冷まして、そのままかけ流しているから、多分43度はある。熱めの湯が好きな私にとっても、ちょっと覚悟が要る。
 その湯が岩の隙間を通って、4畳くらいの第二の湯船に注ぐ。此処は逆に冷え過ぎて、入ったら出るに出られぬ38度くらいの湯だった。そこを、姉弟が潜ったり泳いだり騒ぎまわり、鼻血まで出して遊んでいた。折角楽しんでいる家族連れである。しぶきを浴びながら、じっと我慢してぬるま湯に浸っていた。一家が露天風呂に移ったのを機に、ようやく熱い湯船に沈んで、術後の股関節を労わった。

 術後3ヶ月半の検査と診察を受けた。毎日のストレッチを重ねたお蔭で、左足の筋力は右足並みに回復していた。「7000歩程度の長距離歩行や、坂道、階段、山道の歩行も可能となり、日常生活に殆ど支障ないレベル。ただ、端坐位保持後の起立動作時(要するに、長く椅子に坐った状態から立ち上がったとき)に、鼠蹊部及び股関節外側に軽い疼痛が残る(但し、数歩歩けば、この痛みは消える)」
 理学療法士のリハビリ報告書を見て、医師が言う「まだ、痛みが残ってますね。どうします?まだリハビリ継続可能ですから、もう少し頑張ってみましょうか?」(同一病気でのリハビリ治療は、150日が限度)
 その言葉に、安心して九州道に乗った。鳥栖JCTを左折して大分道に乗り、我が家から50キロ、1時間足らずで原鶴温泉に着いた。新車の走りが心地よかった。
 
 夕食で飲んだ冷酒の酔いを醒まし、露天風呂を独り占めした。「日本の名湯100選」に選ばれた湯である。「殿の湯」、「姫の湯」の入り口に掲げられたパネルに、こうある。
 「アンチエイジングの湯。源泉かけ流しで、加水も加温もしていません。本物の純生の温泉に、どうぞごゆっくりお楽しみください。男性は、いつまでも元気で、逞しく、格好よく、女性はいつまでも若々しく、美しく、しなやかに」
 ちょっと手遅れか、と苦笑いしながら……しかし、この肌触りの滑らかさはどうだろう!我が肌ながら、とろりすべすべとして、まるでしなやかな女体に触れているように……夜気が呼んだ、ひとりよがりの妄想だった。
 原鶴温泉「やぐるま荘」、部屋数は少ないが、広い敷地に贅沢な空間が広がり、浴室の広さでは原鶴でも1、2を争うとか。

 気負わない料理が美味しかった。やたら創作料理風に凝り過ぎた料理を出す温泉宿が増えた中で、素材の味と食感をそのまま生かした素朴な料理がいい。その、真っ向勝負な味が心地よく、「今年訪れた温泉では一番!」とお女将に告げた。化粧塩に飾られて反り返った大振りな鮎の塩焼き。此処は、鵜飼で知られた筑後川の畔、骨を外して舌鼓を打った。
 2合の冷酒を二人でもてあまして部屋に戻り、下を向けないほどの満腹感に布団に倒れ込んだ。この宿は、チェックインした時に、既に部屋に布団が敷いてある。
 「温泉に入られて、ゆっくり夕飯までおやすみ下さい」
 初めて経験した、嬉しい心遣いだった。

 帰路は一般道を走る。途中寄った「道の駅・原鶴ファームステーション・バサロ」で旬の富有柿をはじめ、したたかに買い物をした。
 「バサロ」とは、方言で「どっさり」、「沢山」を意味するという。その名に恥じず、しかも昨年の7月5日九州北部を襲った記録的な集中豪雨で大きな被害を受けた、朝倉市杷木町の復興に少し貢献したかなと、些細な自己満足に浸りながら帰った道は35キロ。
 ナビは、距離より所要時間を優先するものらしい。
 
 帰り着いた家は、たった一夜の留守なのに、しんしんと冷え切っていた。留守の間に、初冬の気配が忍び込んでいた。
                  (2018年11月・写真:やぐるま荘「殿の湯」)

照之、でかした!

2018年11月08日 | 季節の便り・虫篇

 少雨傾向顕著な秋である。昼夜14度もの温度差に翻弄されながら、ようやく空気の冷たさに馴染み始めたというのに、また1ヶ月季節を戻し、24度を超える異常な暖かさが続く毎日になった。昨日、東京ではミンミンゼミが鳴いたという。
 朝と昼で下着まで替えないと、温度変化に身体がついていけない。それじゃなくても、寒さに過敏に反応し、暑さに鈍くなるのが年寄りである。だから夏は熱中症で倒れ易く、冬は風呂場の脱衣所で亡くなる人が増える。
 「他人ごとじゃないよなぁ!」、とぼやきながら、久し振りに近付く雨の気配に、次第に重くなる空を眺めていた。

 ハナミズキの葉がようやく散りつくし、キブシの落ち葉が盛んになった。気温乱高下の中で、季節は秋から冬への歩みを進めている。
 これから木枯らしの季節にかけて、山道の散策の度に目を凝らして、カマキリの卵塊(卵鞘)を探す。お馴染みの「野うさぎの広場」に向かう途中、博物館に上る89段の階段の左ののり面が、私の格好の狩場である。葉が落ちて茎だけを残す草や木の数十センチ上に、それはある。
 狙うのは、分かりやすいオオカマキリの卵塊。折り取って庭の鉢に挿しておくと、春3月、この卵塊から200匹ほどのちびっこカマキリがワラワラと誕生する。前幼虫という姿で卵塊から這い出るとすぐに脱皮し、一丁前のカマキリの姿になって、斧を振りかざす。ちょっぴり小生意気で、可愛くて、それが見たさに、冬場の卵塊狩りをやめられないのだ。

 200匹ほど生まれても、天敵に襲われたり、共食いしたりで、生き残るのは僅か2~3匹でしかない。交尾しながら、雌が雄を食べてしまうのは有名な話だし、目撃したこともある。残酷と言うのはあくまでも人間目線、動くものは獲物と認識する本能が成せる業であり、産卵に必要な栄養を蓄えるための仕方ない行動なのだ。むしろ、頭から食べられながら交尾を続ける雄の健気さにエールを送るべきだろう。神経系統が異なっているから、こんな器用な真似が出来るらしい。多少、羨ましくもある。

 このところ2年ほど、卵塊を見付けらずにいた。今年も、リハビリの合間を縫って数度この道を辿ったが、まだ発見出来ていない。
 ところが……である。今朝、寝室の窓を開けたら、外に提げた天津簾の裏側に、乾いた泡状のオオカマキリの卵塊が固まっていた。
 退院した日に、洗濯物にしがみ付いて迎えてくれたオオカマキリ……香川照之の「昆虫凄いぜ!」のカマキリの着ぐるみを思い出したものだった。その後、キブシの葉陰でセミを貪り食っていたオオカマキリ。「照之、食い逃げかよ!」と書いた、あの一匹ではないと思うが、ちゃんと私の寝室の窓辺に産み付けてくれたのが、何とも粋で健気ではないか。
 だから今回は、「照之、でかした!」とタイトルをつけることにした。

 卵鞘は、産み付けられたときはふわふわの泡状だが、数時間で固くなる。これから天敵に耐えながら寒い寒い冬を越す。この固くなった卵鞘で、寒さに耐え、衝撃にも耐え、カマキリタマゴカツオブシムシや、オナガアシブトコバチなどの攻撃にも耐えなければならない。生存率の低い幼虫たちは、生まれる前から様々な試練をくぐらなければならないのだ。
 ネットの解説に、こんな一節があった。
 「(交尾中に雄を喰ってしまうという)この行為は、産卵に必要な栄養を補給するためであり、これによってより多くの子孫を残すことができるのです。 どうせ生き延びても冬は越せないので、ある意味で命を有効活用していると言えます。」
 
 カマキリが産卵する高さによって、冬の降雪量を予測できるとの俗説がある 。天津簾に産み付けられた卵塊は、およそ1メートルの高さである。太宰府は「福岡の豪雪地帯」とからかわれることもあるが、まさかここまで積もることはあるまい。あくまでも、雪国での俗説だろう。

 春の楽しみが増えた。歳取るほどに、日々の小さな喜びの発見が貴重になる。明日は、どんな喜びが待っているのだろう。

 島根の、20年前の仕事の取引先から、今年もドライアイスで渋を抜いた西条柿が届いた。11月恒例の贈り物である。リタイアして20年も過ぎたのに、いまだに忘れずいてくれて、家族ぐるみのお付き合いが続いている取引先が、島根、徳島、北九州などにある。40年の会社人生の、かけがえのない財産である。
           (2018年11月:写真:天津簾に産み付けられたオオカマキリの卵塊)

蘇る逸品

2018年11月03日 | つれづれに

 ……東南アラスカ・州都ジュノーの鉛色の空を、王者の風格を見せて白頭鷲が雄渾に舞った。期待していた野生との出会いの一瞬が、こんなに呆気なく実現するとは思いもしなかった。胸の奥で一気に弾けるものがあった……

 ……だからこそ、梢の先で静止する姿や、堂々とした滑空を見せてくれた白頭鷲は素晴らしかった。眼下の観光客のざわめきを俯瞰しながら、彼等はいったい何を思っていたのだろう……

 もう13年前になる。ルビー婚(40年)を記念して、116,000トンの『ダイヤモンド・プリンセス号』に乗り、東南アラスカのインサイド・パッセージを楽しむ10日間のクルーズに出掛けた。その時に出会ったハクトウワシの印象を綴ったブログの一節である。

 それ以前、もういつの頃だろう?次女が真鍮製の一つのバックルを送ってくれた。ハクトウワシ……「AE」と刻印があるから、アメリカのカジュアルブランドAmerican Eagleの製品だろう。
 アメリカの国鳥であり、国章(国璽)にもあしらわれている雄渾な鷲で、翼を広げると2メートルにもなる。何故か描かれるのはいつも横顔……前から見ると、迫力に欠けるかららしい。確かに少し滑稽で可愛らしく、猛々しさがない。
 友人の知り合いの革職人に特注して、ジーンズ用のベルトを作ってもらった。複雑な模様を掘り込んだ見事な逸品が出来上がった。2万円のところを、友人価格の1万円でいいという。以来、私の秘蔵・自慢・愛用のベルトとなった。
 夏場は誇らしく見せびらかし、冬場はトレーナーを着ていると隠れてしまうが、その分擦られて黒く染められた白頭の部分に美しい銅色(あかがねいろ)の輝きが出る。

 しかし、20年余の歳月が、ベルトの革をすっかり傷めてしまった。着脱式のベルトで、日本では同等のベルトを見付けることが出来ないままに、タンスの中に眠って数年になる。
 ふと、3年半前に訪れた武雄温泉の宿の傍らに、皮革専門店があったことを思い出した。全て手作りで、カミさんにハンドバッグ、私は子牛の革を使った二つ折りの財布を求め、ネームを焼き込んでもらった。
 そのケアを含め、今回の湯治旅のついでに寄ることにした。これが、この旅のもう一つの目的だった。

 二つ返事で特注を受けてくれた。複雑な掘り込みは出来ないが、材質のいい牛皮の合わせ革で作るという。新しいうちは浅い革色だが、使い込むうちに深く濃いあめ色に変わっていく。3年半前の財布も、いい色になった。もっともっと濃くなる。7000円+レターパックプラスの510円。武雄温泉通入り口にある皮革専門店は、「バッグショップ・サム」という。

 一夜の湯治を終えて帰った翌日、手書きの手紙を添えて新しいベルトが届いた。シンプルだけに、ハクトウワシの炯々たる眼光が冴える。秘蔵の逸品の復活だった。
 このベルトが濃いあめ色に染まるまで、私は元気で生きていなければなるまい。

 日本晴れの「文化の日」になった。暖かな日差しの下、このベルトを締めて気功教室に向かうことにしよう。何か、嬉しい!
                  (2018年11月:写真:蘇った白頭鷲)

湯治……レトロな宿で

2018年11月01日 | つれづれに

 5ヶ月振りの温泉だった。入院・手術を経て、湯船で熱中症に罹りそうな苛酷な夏場は見送り、ようやく秋風の中に傷を癒しに出掛けることにした。
 佐賀県武雄温泉。単純温泉・炭酸水素塩泉 であり、ここには、東京駅、日本銀行本店などを設計した、唐津出身の辰野金吾設計による重要文化財の楼門と新館がある。伝説によれば、神功皇后が凱旋の途中、太刀の柄(つか)で岩を一突きしたところ、たちどころに湯が湧き出たと言われており、かつては柄崎温泉と呼ばれていた。また、蓬莱山の麓に湧くことから蓬莱泉とも呼ばれていたという。
 豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には、負傷兵士の湯治場として利用したといわれる。
 江戸時代は街道の宿場町としても栄え、幕末にはシーボルト、吉田松陰など、長崎を往来した勤皇志士や文人らが盛んにこの湯を訪れた。江戸時代初期には伊達政宗、宮本武蔵が入湯したともいわれる。

 佐賀県の温泉と言えば、斐乃上温泉、喜連川温泉と共に「日本三大美肌の湯」に選ばれている嬉野温泉がある。ナトリウム - 炭酸水素塩・塩化物泉で、歴史は非常に古く、此処も神功皇后の西征に遡る。帰途、傷を負った白鶴を見付け心配していたところ、河原に舞い降りて湯浴みをして、再び元気に去っていくのを見て、「あな、うれしや」と感歎された。この語が転訛して「嬉野」という地名になった。嬉野は元々「うれしや」と呼ばれていたとされる(温泉組合では「うれしいの」が嬉野となったと記述されており、由来に諸説があるという)。ここも又、長崎街道の宿場町である。

 いずれも、走れば1時間余りの近場である。武雄温泉の向こうに、嬉野温泉がある。今回は、「美肌の嬉野温泉」ではなく、「傷の武雄温泉」(と、武雄温泉の中居さんが言っていた)を選んだ。選んだ理由がもう一つあるが、それは次回に譲る。
 買い替えて間もない新車が、初めて高速に乗る……少しばかり緊張感しながら、風の中を九州道から長崎道を走った。思った以上にハンドルの安定性が心地よく、久し振りに秋空のドライブを楽しんだ。

 3年半ぶりに訪れたレトロな宿である。佐賀県なのに、何故か「京都屋」という。寝るだけの部屋は畳の根太板があちこち抜けていたが、1泊2食付き¥9,000の優待だから、贅沢は言わない。大浴場でトロトロすべすべの湯質を心ゆくまで満喫した。この湯があれば、もう何もいらない。

 ロビーの傍らに、レトロな喫茶室がある。この宿で一番のお気に入りの場所である。古いオルゴールや電蓄の音色を聴きながら、水出し珈琲の香りに浸る。
 特に、オーク材で作られたラッパの蓄音機が珍しい!昭和16年に売り出されたという童謡[鳩ポッポ」のSPレコードを聴かせてもらいながら、この電蓄の由来を読んだ。
 
  ~REGINAPHONE  Wooden horn Style 150~
      1910年代製造 レジーナ社(アメリカ)製
 「レコードとの過渡期に製造されたオルゴールと蓄音機の兼用タイプ。高音から低音まで音域すべてに渡って音色が美しいのがこの機種の特長です。
 取り付けられたウッドフォン(木のラッパ)は蓄音機のスピーカーの役割をしています。
 本来男性的といわれるオーク材を、曲線的な作りで柔らかく見せている箱の部分には、虎斑(とらふ)と呼ばれる自然のシマ模様。これは材質の密度が高い証拠。
 つまり木のよい部分を使っているということなのです。
 シンプルですが、愛着のわきそうな作品です。」
 
 ベッドの生活に慣れた身体に、畳に敷かれた布団の起き伏しがこたえた。この前来た時には感じなかったのに……3年半の歳月の流れを実感した一夜だった。
 やはり、ベッドで露天ぶろ付きの宿がいい……ささやかな贅沢が許される歳である。

 10月の晦日だった。
                 (2018年10月:写真:レトロな電蓄)