蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

松の木に雪の花咲く

2012年02月19日 | つれづれに

 霏霏として雪が舞う朝となった。早朝の気温は氷点下1.5度と冷え込み、蹲にツララが下がった。この冬3度目の雪景色である。積雪は10cmを超えた。鉛色の空の下、舞い散る雪を縫って漆黒のカラスが2羽飛んだ。家内が一昨日から助っ人に飛んだ横浜の娘の住むあたりは、氷点下0.1度で晴。まして、木造一戸建ての蟋蟀庵と違ってマンションだから、「室内は暖かいよ」と家内がメールしてくる。冬場は南北の差ではなく、太平洋側と日本海側の差が出る。福岡は決して南国ではなく、明らかに日本海気候である。季節によっては空の青さも、むしろ東京のほうが明るくて旅行者や赴任者が戸惑うこともある。

 久し振りの半月間の「独身貴族」……訂正!「独居老人」の夜半、突然の胃痛に目が覚めた。どうにも苦しくて2階のベッドに横になっていられずに、リビングに下りてガスストーブの前で毛布を被って屈み、油汗を流しながら呻吟すること2時間。日曜日の未明である。ホームドクターに相談出来る時間帯ではないし、一時は救急車を呼ぶことも覚悟した。
 ようやく明け方近くなって痛みがやわらぎ、ベッドに這い込んで爆睡した。昨夜の夕飯、やや暴食だったかなと反省しながら、今日は暫く絶食して様子を見ることにした。

 痛みに耐えながら、介護が必要になって一人でいることの怖さをしきりに考えていた。平均寿命が延び、今は元気とはいうものの、そろそろ終焉を考えなければならない年齢には違いない。「誰の世話にもならないで逝くよ」と豪語していても、現実は誰かの世話にならないと死ぬことも出来ない時代である。自宅の畳の上で大往生するなど、殆ど叶えられない夢である。
 蟋蟀庵を畳む日が近いことを、家内と話し始めている。庭があり土と戯れ、山が近く、九州の無数の温泉を楽しめる自然環境だけは恵まれた蟋蟀庵、去るには愛惜の念黙し難いがたいものがあるが、もう充分に楽しみ、地域への貢献もそれなりに尽くした。家内は早くから考えていたし、娘達も「こっちにおいでよ」と勧めてくれていたが、私に根強い未練があって結論を出すことを避けてきた。しかし、そろそろ潮時だなという思いが次第に固まりつつある。

 次女の住むアメリカ暮らしは、医療面と言葉に不安があるし、車なしでは生活できないから、さすがに踏み切れない。時折訪れて長期滞在する別荘として、次女の素敵な家を楽しもうと思う。となれば、結論はひとつしかない。現実的な話だが、地価の下落で此処を売っても税金を払ってしまえば横浜界隈のマンションを買う資金にはならない。長女の家の近くに2DKくらいの部屋を借りて、万一の時の世話に少なくとも交通費の負担をかけないようにして備えるしかないだろう。「スープの冷めない距離」に見付かればいうことはない。

 順応性に富む家内は、きっと新たな自分の世界をアッという間に作り上げるだろうし、好きな歌舞伎鑑賞の足場も格段に良くなる。心配な医療関係も、医学界に強力な力を持つ町田市の友人がサポートしてくれるだろう。(かかりつけのK大学病院の医師が3月で定年退職して他の病院に移ることも、この決断を後押ししている。彼の医術が必要な時は、また飛んで来ればいい。)私も戦前の京城(ソウル)で生まれて引き揚げて来て以来、会社人生も含めて色々な所で暮らしてきたから、それなりに順応出来るだろう。

 この春、下の孫娘が懸命の塾通いで学び、姉と同じ私立中学への入学試験に見事合格した。これを期に長女一家は学校に近い方面に転居を考えているらしい。それが決まったら長女と相談しながら、いよいよ蟋蟀庵を閉じるスケジュールが動き出す。1~2年をめどに、身辺及び家財や荷物の整理にかかろうと思う。

 そんなことを考えながら、降ってはやむ雪を見守っていた。
             (2012年2月:写真:雪の花咲く松の木)
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訪れを待ちながら

2012年02月11日 | つれづれに

 積雪とツララを伴うこの冬1番、2番という2度の大きな寒波に曝されて、八朔の実が落ち始めた。昨春、油粕と骨粉の混合肥料をたっぷりと施した八朔は夥しい花を着け、例年になく訪れる蜂の姿の少なさを憂うる中に、やがて無数の花びらと小さな実を散らしていった。自然摘果と分かっていても、数百の落果を朝夕掃き寄せながら心配し続けていた。やがて夏、緑濃い葉陰に膨らみ始めた実の数は30?40?と、見るたびに寂しさを助長するばかりだった。
 今年も台風に襲われることのなかった大宰府。秋が来て次第に黄色く色づき始めると、緑の葉陰に隠れていた実が、次第に数を増していく。数える毎にその数が増えていく。何とか昨年並みの80個くらいは採れるかなと安堵しながら、冬が来た。毎年繰り返す一喜一憂である。
 
 25年経た八朔の木は2階の窓に届きそうなほどに高くなり、年毎にもぐのが難しくなってきた。梯子を立て、塀に登り、届かない高い所はご近所から借りた掴み取り式高枝鋏でもいでいった。慣れない鋏使いに、ついつい道路に落としてしまうと実が割れる。
 小一時間でもぎ終わった。いつものように広縁に転がし、1~2週間ほど置いて熟成すると食べごろになる。大きなものから順に並べて数えてみた。自然落果したものを合わせると、191個が今年の収穫だった。何のことはない、今迄で最多の実りである。「なんだ、心配することなかったじゃないか」と自嘲しながら、密かにほくそ笑む。

 夕刻、家内と二人で博多座の2月花形歌舞伎、市川亀治郎を看板に据えた猿之助一門の楽しい舞台を観た。夜の部の「華果西遊記」「鬼揃紅葉狩」の華やかな芝居に、「澤潟屋!」「瀧乃屋!」「笑三郎!」「春猿!」などと存分に声を掛けて楽しみ、少し疲れて帰りついた夜、道路に落ちて割れてしまったひとつを試食してみた。転がして熟成を待つまでもないほど、甘く新鮮な八朔の香りが口いっぱいに広がった。
 大きく姿のいいものから、孫やご近所へのお裾分けで消えていき、我が家では割れたり、姿が悪かったり、小振りなものだけが残るのが例年のことなのだが、味に変りはない。

 そして、依然として気掛かりが続いている。消えたスズメがまだ戻ってこないのだ。「スズメが消えた!」とブログに書いた午後、3匹が軒を掠めたきりで、その後姿を見ない。昨年あれほど襲来していたヒヨドリも、メジロもまだ現れない。時たまシジュウカラが鳴き交わし、カササギが営巣を始め、先日は庭の松の枝で久し振りにキジバトを見た。しかし、1ヶ月ほど前に落果した八朔をふたつに割り塀の柵に刺したが、カラスがちょっとつついてイタズラをしただけで、そのままの姿をとどめている。
 一番気になるのはスズメである。夜明けと共に、時にはうるさいほどに鳴き騒ぎ、人の生活圏から離れることのない筈のスズメ達は、いったいどこで暮らしているのだろう?隣家の樹木を「スズメのお宿」にして、我が家の白梅の蕾を裸にしていた群は、本当にどこに消えてしまったのだろう?毎日訪れを待ちながら、スズメのさえずりが聞こえない朝を寂しく迎える日々が続いている。

 「建国記念日」の祝日。珍しく晴れ上がった青空から早春の日差しが降り注ぐ。吹く風はまだ鋭く冷たいけれども、広縁は暖かい日差しにくるまれて、もいだばかりの八朔が眩しいほど艶やかに輝いた。
                ( 2012年2月:写真:熟成を待つ八朔)

乗せられて、春立つ

2012年02月05日 | つれづれに


その1、願い事を思い浮かべる。
その2、今年の恵方は「北北西」の空を向く。
その3、恵方巻きを「がぶりッ」とかじる。
その4、黙ってモグモグ食べる。
その5、食べ終わるまでしゃべらず、願い事を唱える。
   *これが出来れば、願い事がきっと叶う!…かも?

 ご贔屓の鮨屋で求めた「恵方巻き」に添えてあった言葉である。「かも?」という微妙な逃げが打ってあるところが心憎い。比較的近年まで、九州の節分にはなかった習慣である。起源には色街のやや卑猥なものから、商いに絡むものや神事に到るまで諸説あるようだが、大阪に始まり、鮨屋や海苔業界の販売促進に便乗した某コンビニの戦略で、全国に広まったという辺りが真相のようだ。
 十数年前に広島で初体験した。その年の方位に向かって、黙々と巨大な巻き寿司にかぶりつく姿は決して敬虔ではなく、むしろ滑稽…そして確かにいささか卑猥でもある。笑いながらも、いつの間にか鮨屋に予約に走るのが毎年の習慣になった。
 コンビニの戦略大当たりで、この日のこの鮨屋も通常の営業を全て断って、ひたすら恵方巻きを作り続けてもおっつかない盛況だったという。美味しくて、少しばかりユーモラスで、こんな乗せられ方なら悪くない
 顎が外れそうな太巻きを一本、満腹になるまでのボリュームを食べ終わるまで黙っているのはつらいし、異様でもある。「食べ残したら、一生黙ってなきゃならないよ」ということになっても困る。だから我が家では、一口だけ食べ終わるまで黙っていることにしようと、妥協案を採用している。ともすれば欲張りがちになる願い事を、一口分に凝縮して黙々と食べ、今年も無事節分の行事を終えた。

 直前、冬将軍が観測史に残る過酷な太刀を振り下ろした。この冬一番の寒波が列島を襲い、北国で大雪の被害が深刻となった。ここ太宰府でも昼前に氷点下4・3度を記録、降り積んだ雪がアイスバーンとなって、二日間家に篭る羽目になった。蹲(つくばい)に滴る水が直径5センチ、長さ18センチのツララに育ち、カーポートの軒からも25センチのツララが下がった。雪が降り、翌朝は何もなかったのに、束の間の日差しで雪が解けかかったところに昼間の寒気が襲い掛かってツララを育てた。少し寒が緩んだ立春にも解けることなく、ようやくその翌日になって蹲が本来の雫を滴らせ始めた。
 時として「福岡の豪雪地帯」と揶揄される太宰府、その又少し山手に建つ我が家。40年ほど前に越してきた頃は、ひと冬に何度か20センチを超す積雪があった。雪の中を登山靴や長靴を履いて駅まで歩き、ビジネス・シューズに履き替えて福岡市内に出ると、雪が全くない街の上に青空が広がっていてからかわれたりする。我が家に到る途中、僅か30メートルほどのゆるい坂道があり、たったそれだけを越えるために、タイヤチェーンが離せないし、酷い時にはタクシーに断られたりもする…それが我が蟋蟀庵の立地である。

 満開の蝋梅を雪が覆い、盛りを過ぎた花びらから次第に輝きが失われていく。3週間以上甘い匂いを漂わせていた水仙も雪で伏せた。紅梅白梅の蕾はまだ固く、名のみの春は立ったけれども、これから1ヶ月は寒さの底で冬篭りの日々が続く。「春になったら起こしてくれ」というお馴染みの口癖のひと言で、今夜もベッドに逃げ込むことにしよう。

  待ち焦がれている「早春賦」の歌声も、今年はまだ聞こえてこない。
                 (2012年2月:写真:恵方巻き)