蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

秋探しの旅

2013年10月26日 | 季節の便り・旅篇

 大向こうから「待ってました!」と声を落とす。間髪を入れずに、舞台の海老蔵が「待っていたとは、ありがてぇ!」と声を返す。清本の踊り「お祭り」のさわりに、海老蔵と差しで声を交わした快感は、浮き立つように心地よかった。

 熊本県山鹿市に、明治44年に創建されたままの姿をとどめる芝居小屋・八千代座がある。諦めていた「市川海老蔵・古典への誘い~江戸の華~」のホテル付きチケットが、偶然ネットで手にはいった。
 遠く南の海を北東に去った台風27号の余波の雨をしぶかせながら高速を走り、菊水ICで降りた。ホテルの露天風呂でトロリと肌に纏わりつく湯に浸り、ひと休みしてホテルの送迎車で八千代座に向かった。
 幟のはためく下で、偶然博多座の声掛けの会会長のAさんに出会い、彼を通じて海老蔵の番頭さんに紹介され、家内が舞い上がる。一人でも歌舞伎ファンを育てたいという願いを込めて「たまには歌舞伎を観よう会」という団体を立ち上げ、今では100人前後の同好仲間を博多座に送り込んでいる家内にとって、これは嬉しい巡り合いだった。
 個人でこれだけの数を動員する会はほかにないと、博多座の営業が一目置く存在である。(因みに海老蔵の番頭さんは、まだ30代と見受けられる若い女性だった。)束の間の会話を交わして「博多座で待ってます!」と声を残して桟敷にはいった。

 歌舞伎通の家内に肘でタイミングを教えられながら、観真似聴き真似で声を掛けるようになって十数年……とは言っても、時たま歌舞伎座や国立劇場、新橋演舞場などで修行をすることはあっても、年に2度ほどしかやってこない博多座大歌舞伎で経験を積むだけだから、所詮は素人である。博多座でお知り合いになって以来、耳で学ばせていただいているAさんの渋く絶妙な声掛けには、勿論及ぶべくもない。「今日は、二人で頑張って声掛けましょう」と励まされ、面映ゆいことこの上ない。
 清元「保名」はAさんでさえ難しいと首を傾げられる。これは本職に任せて、「口上」と「お祭り」で、「成田屋!」「十一代目!」と、Aさんの声に聴きほれながら、素人なりに存分に声掛けを楽しんだ夕べだった。

 山鹿温泉の露天風呂を3度楽しみ、晴れ間の覗く空の下、秋を探しに山に走った。菊池渓谷を抜け、標高1000mほどの阿蘇外輪山の尾根を走るミルキーウェーを駆け抜ける。ススキは既に盛りを過ぎ、紅葉にはまだ早いという季節の狭間である。途中車を停めて、玄関の甕に差す為に、少し鮮度を残すススキを10本ほど刈る。根方にノコンギクの花が淡い秋色をちりばめて優しかった。
 展望台から見はるかす阿蘇五岳は雨上がりの靄に霞んで、眼下の内牧の集落も鈍く沈んでいた。大観望を右に見ながら、やまなみハイウェーに抜ける。緑に覆われていた高原は既に枯れ草色に変わって、放牧されていた牛たちも既に小屋に戻ったのか姿は見えない。この高原ドライブの女性的でなだらかな景観は、四季折々いつ来ても飽きることがない。

 瀬の本から左に折れ、黒川温泉に下った。黒川を抜ける辺りから右に折れ、いつもの「ファームロードわいた」に走り下る。ここまでくれば、勿論お馴染みの立ち寄り温泉「豊礼の湯」を家内が素通りさせるわけがない。貸切家族露天風呂が1200円コインを入れると、50分間かけ流しである。目の前になだらかな稜線を拡げる湧蓋山を見ながら、乳色に濁るお湯に浸って、この旅4度目の温泉を満喫した。
 長いドライブの疲れもあるが、八千代座の少し傾斜した狭い桟敷席は足腰をしたたかに痛めつける。途中30分ほどの2度の休憩を挟み、延べ2時間半の苦行の報いが膝と腰にズッシリと残っていた。だから、この束の間の立ち寄り湯治はありがたかった。
 
 キリッと冷え込んできた山間の蕎麦屋でお昼を摂り、小国に抜けて下城の大銀杏に寄る。年月を経た大銀杏の葉色に、まだ秋の彩りはない。傍らの店でいつものようにピーナツを買い、大粒の銀杏を求める。お婆ちゃんに先立たれ、たった一人で殆ど耳が聞こえなくなったお爺ちゃんが、自分で育てたピーナツを並べて、全て1袋100円である。キリよく1000円でピーナツを6袋と銀杏を4袋買うと、いつものようにピーナツ1袋をおまけしてくれた。「元気でね!」と聞こえない耳に叫んで、斜めに傾いた日差しの中を日田に下った。

 260.3キロの、秋探しの旅だった。
         (2013年10月:写真:八千代座にはためく市川海老蔵の幟)

秋を飾る

2013年10月20日 | つれづれに

        初    秋

    薔薇の葉の
    銀のしずくに
    くちづけて
    秋はしのびぬ

      おとろえし
      蝶のひとひら
      ひっそりと
      窓を横切(よぎ)りて

        秋は来ぬ
        磯の香りに
        路(みち)急ぐ
        荷駄のわだちに

    しめやかに
    雨をまねきて
    吹く風は
    秋の色なり

      年老いし
      翁のひとり
      さびさびと
      雨に濡れつつ

      
        秋は来ぬ
        雲の流れに
        帰路(みち)急ぐ
        荷駄のひとみに

 多感で純粋だった高校生の頃の、秋の憂いである。当時はまだ馬が引く荷車が道を往来しており、海辺近くに住み、波音に四季の移ろいを綴っていた少年にとっても、秋はもの思う季節だった。今はもう、こんな詩は気恥ずかしくて書けない。

 庭のラカンマキに這ったカラスウリを始末したら、20個ほどのオレンジ色の実が現れた。この風情が欲しくて、山から採ってきたカラスウリの種を庭に蒔いた。もう、10年ほどになる。「ラカンマキの剪定が出来ない」と植木屋はぼやくが、最近は「実が取れたら剪定するからいいよ」と、私の好きなままに見守ってくれている。
 玄関の衝立にさりげなく提げる。足元にホトトギスの鉢を置き、その向こうにはウバユリの青い実が5本……なんでもない彩りの配置が、玄関の季節感を豊かにしてくれた。
 暑くなく、寒くなく……ふと、天神山の散策路に秋を訪ねてみたくなった。「野うさぎの広場」も、爽やかな秋風に包まれていることだろう。
 木漏れ日を降らせる木立の佇まいが、瞼にくっきりと浮かんできた。
             (2013年10月:写真:カラスウリを飾る)

これが件の、琉球鼠瓜?!

2013年10月18日 | つれづれに

 今年の秋は唐突にやってきた……というより、夏が未練がましい残暑をいつまでも引き摺っていたから、ようやく秋らしくなったに過ぎないのだが。
 10月14日、抜けるような秋空の「体育の日」に、13年前に始めたウォークラリーで11,397歩、5キロあまりを歩いた。校区5自治区から820人が参加する盛大な大会だった。
 Aコースは、階段と坂道の多い少しハードな道を歩く。リーダーの責任上、前々日に試し歩きしておいたからコースは頭に入っている。
 途中、繁りを深めてきた「九博の杜」の歴史や、九州国立博物館の総ガラス張りの壁面を空と見間違えて激突死する野鳥に警告を与える為に、2か所に置かれたフクロウのデコイの説明などを挟みながら、最年少の幼児の足に合わせて1時間40分掛けて歩いた。

 翌日から1泊で、近郊1時間で届く原鶴温泉に走り、疲れを癒した。時折り突風が車を揺する。遠く南の海上から近付く大型台風が、この夜に牙を剥いて伊豆大島に襲い掛かり、激甚な災害を齎すとは思いもせずに南に走っていた。
 鄙び過ぎるほどに鄙びた古い宿だった。普段着のままのフロントや部屋係、雑然とした佇まい、今時温水洗浄便座がないトイレなど、「外したかな?」とちょっと足が竦んだが、料理の味付けは申し分なく、量もたっぷりで、牛シャブの肉を半分残すほどに豊かだった。
 しかも、この時節に部屋食で、貸切家族風呂が使い放題!これで1泊2食付6,800円は、むしろ贅沢の極みである。地域の皆さんが銭湯感覚で貰い湯に来ているのも、ほのぼのとして実にいい。
 台風26号が大陸から寒波を引き寄せ、この夜から急激に気温が下がった。

 実は数日前から鼻の具合がおかしくなり、小鼻が腫れて痛みがひどくなっていた。朝一番で耳鼻科に駆け込んだ。X線を撮り(生まれて初めて、自分の頭蓋骨を見た!)、副鼻腔炎と診断されて、抗生剤、鎮痛消炎剤、抗アレルギー剤など3種類の薬を5日分処方された。それを服んで原鶴温泉に走る頃から、身体に異常が生じた。
 頭がボウッとして顔がほてり、倦怠感がひどい。ものを言うのも億劫なほどの怠さに苛まれた。温泉宿の夕飯の定番の冷酒も家内に任せ、折角の温泉も湯あたり状態になって、3度目の朝の入浴を断念する始末だった。(その分、家内が4度も湯に浸かって元は取ったのだが。)
 帰り着いて、夕刻からの博物館環境ボランティア活動の自記温湿度計記録紙交換作業を何とかこなして、そのままダウンした。

 翌日の家内の定期検診に向かおうとしたら、車の前輪がバーストしており、急遽タクシー、電車、バスを乗り継いで一人で行かせる羽目になった。弱り目に祟り目、踏んだり蹴ったりである。不貞腐れて、一人かこちながら家で休養した。
 3日服んだところで鼻の具合も落ち着いたし、医師に相談して薬の服用をやめたら劇的に体調が戻った。薬が強すぎたのか、相性が悪かったのか……「どの薬が合いませんでしたか?」と医師に訊かれても、3種類同時に服んでいるのにわかる筈もない。薬も、ひとつ間違うと毒……シンドイ体験だった。

 夏の苛烈な日差しを避けて、寒冷紗を掛けた半日陰に置いていた山野草の鉢を、再び日当たりのいい場所に移して冬支度を整えた。ピンクの大文字草が開き、ホトトギスも今盛りである。日陰に何本も立つツワブキの花の黄色が鮮やかに目に沁みる。ラカンマキに這わせたカラスウリがオレンジ色に色付き、そして……件のリュウキュウネズミウリ(琉球鼠瓜)ならぬオキナワスズメウリ(沖縄雀瓜)の、2cmほどの小玉西瓜のような緑の実の一つが、真っ赤に色付いていた。30輪ほど付いた実が真っ赤に染めあがる頃、秋の向こうに冬将軍の先駆けが見え始めることだろう。

 きしり鳴く蟋蟀が侘しさを募らせながら、もう秋の足取りに躊躇いはない。
            (2013年10月:写真:色づいたオキナワスズメウリ)

名残の蕾

2013年10月11日 | 季節の便り・花篇


 夜半、激しい雨が奔ったという。その雨音に目覚めることもなく、脱力した身体を爆睡の底に沈めていた。

 「70歳以上の肺炎ワクチンが、10月1日から3400円になりました」
 以前は確か8000円だったように思う。高齢者医療費の増大に対処するため、公的援助が出たのだろうか。高齢者が肺炎で終焉を迎えるケースが多いという。5年間有効という言葉と、安くなったという惹句に、家内共々衝動的にワクチンを受けることにした。5年後の79歳まで命の保証をされたわけではないが、「もう少し長生きしようかな」などと自分に言い聞かせて、かかりつけの内科クリニックで、腕を差し出した。
 無意識に、腱板断裂の手術を受けて10か月の左腕を出したのが間違いだった。注射を受けてからしばらくして左腕が重く疼き、肩甲骨の下まで及んだ。左肩甲下筋を左腕の上腕骨に繋ぐ腱板の断裂である。まだ腕を回す角度によっては痛みが残り、術後2年間検診を続ける過程で無理は出来ない。ちょっとした油断だった。
 痛みはやがて治まったが、何となく身体が熱っぽく怠い。そんな日が数日続いた。想定内の副作用ではあるが、相性が悪かったらしい。そんなある日の昼食を済ませたところで、突然の腹痛が来た。弱り目に祟り目、薬を飲んで半日静養したが治まらず、実行委員長を務める夜の高校同窓会幹事会まで欠席する羽目になった。
 ひどい痛みは落ち着いたが、用心して絶食。スポーツドリンクで水分だけを補充しながら、降り始めた雨の中を眠りに沈んだ。

 夏の疲れが出始める時節でもある。結果として肩透かしに終わったが、久し振りに九州を窺った台風24号の情報に振り回され、事前事後の台風対策に追われた疲れもあろう。弱った身体に、何でもない食事が胃に負担になったということだろう。
 翌日朝の落ち葉掃きも、午後の九州国立博物館の特別展「徳川家の至宝」開会式も、家内に代理出席してもらうことにして、一日休養にあてた。3日後の体育の日には、校区のウォークラリーの1班を引き連れてリーダーを務めなければならない。追い打ちをかけるように、台風25号、26号のニュースが流れた。

 今年も十分に目と鼻と舌の保養をさせてもらい、もう終わったと思っていたのに、月下美人が小さな棘とげの蕾を二つ着けた。10月も全国的に異常な高温が続き、月下美人にとってはまだ夏が終わっていないのだろう。
 昨年は朝の光の中で花開く異常があった。代を重ねて37年、背の丈近く伸びた二鉢に、挿し葉した新しい鉢、カリフォルニアの娘の家の庭から持ち帰った一枚の葉から育てている鉢……こちらは花を着けるまで、まだ2年ほどかかるだろう。
 この棘とげの蕾の姿からは想像も出来ない絢爛豪華な花の姿と、馥郁と香る甘い香り、咲き終わった花を湯通しして三杯酢で食べるしゃきしゃきトロリの絶妙の食感……暑さに倦んだ身体を、この一夜限りの花にどれほど癒されたことだろう。引き摺った疲れを優しく慰めるかのような名残りの蕾に、半月が掛かった空から静かに吹き降ろす夜風は、紛れもなく秋の風である。

 お腹に優しい湯豆腐で、夕餉の時間となった。
            (2013年10月:写真:名残りの月下美人の蕾)

君は誰?

2013年10月06日 | 季節の便り・虫篇

 「参加者が少ないんです。お願い、来てくれませんか」

 楽しんできた九州国立博物館環境ボランティア6年目、最後の年も残すところ半年となった。第2期の3年を終えて後も続けてきた1年毎の登録ボランティアも、決まりにより3年目で終わりとなる。いろいろ紆余曲折あって登録後は黒子に徹し、週一回の温湿度計記録紙交換と隔週の生物インジケーター交換というルーティンワーク以外は、一切タッチしないで来た。
 たまたま第3期ボランティア研修の一環として、昆虫同定セミナーが開催されるに際し、博物館科学課の女性職員のTさんから拝まれた。5年前に受けたセミナーだったが、好きな昆虫のこと、依頼を受けて半日の研修に出ることにした。
 先月、第3期の皆さんが館周辺で昆虫採集をして、蝶類は展翅板にテープとピンでとめて形を整え、甲虫類などは虫ピンで固定してあるものを、図鑑を見ながら名前を特定していく作業である。 
 思えば昆虫少年の頃、まだ既成の道具類は殆ど市販されていないか、売られていても中学生のお小遣いでは手が出ない高価なものだった。捕虫網も、捕えた蝶を入れる三角紙も三角ケースも、樹液の幹から落下して逃げる習性のカブトムシやクワガタを受ける半円形の網も、展翅板も、標本箱も、全て手作りだった。ピンセットさえも竹を割って、工夫しながら自分で作っていた。そんなことを思い出しながら、九環協の二人の専門家の指導のもとに同定作業に入った。

 先日、60年振りの再会に感動したばかりのイシガケチョウが3頭も捕獲されていたのに、先ずショック!今年は発生が多いという。多分博物館を囲む木立の中に、食餌のイヌビワがあるのだろう。独り占めの感動が少し薄れたのが残念だった。
 同席した元・博物館科学課の虫に詳しいYさんが「私はイシガケチョウを、おぼろ昆布と言ってます」と笑う。言い得て妙、あの微妙な翅の模様は、まさしくおぼろ昆布である。
 60年虫たちと付き合ってきたのに、教えられた同定の手順は新鮮な発見続きだった。バッタとイナゴを見分けるポイントは喉の小さな突起であること、トンボの区分はまず正面から顔を見て単眼と複眼の並び具合を比較、翅の縁の膨らみ、前翅と後翅の長さ、尾部の突起、胸の斜線の色と太さを観察すること、甲虫の肩の膨らみと腹端の伸び具合に注目等々、驚き、ときめきながら、2時間で9種類の同定を為し終えた。
 ナガサキアゲハ、(♀)、イシガケチョウ、キチョウ、クロヒカゲ、コロコノマチョウ、アブラゼミ……ここまでは得意分野でスイスイと決まった。しかし、トンボで行き詰って、本職の指導を受けたのが何より楽しい発見の時間となった。
 ウスバキトンボ、少し小型のマイコアカネ……いつも見ていながら似たものが多く、何となくアカネトンボと大雑把にとらえていたものが、くっきりと戸籍を明らかにしていく。これは虫キチにとって嬉しい瞬間である。
 とどめは、コメツキムシの一種サビキコリの同定が出来たことだった。「錆木樵」と書く。文字通り錆色のコメツキムシの一種で、ザラザラした体表と、前胸背板には1対の小突起をもっている。肩が張り、腹端がコメツキムシよりやや鋭い。
 「正解です!」と言われて、ハッと思い出したことがある。あの頃の私の標本箱に、確かにサビキコリがいた!中学生の知識で、どうやって同定したのだろう?父に無理を言って買ってもらった、昆虫図鑑と蝶類図鑑の2冊だけで虫を特定していた。あの頃の感性を懐かしく思い出しながら、2時間はあっという間に過ぎた。
 同定を終えた昆虫を標本箱に並べ、ほのぼのとした気持ちで小雨の中を家路についた。

 庭の木に育っていたクロメンガタスズメの姿が消えていた。終齢を過ぎて枝から落ち、10センチほどの地中で蛹への道を辿ったのだろう。
 虫たちはそろそろ冬越しへの準備に取り掛かっているというのに、時折戻って来る残暑に、我が家ではまだ夏物衣類の片付けに取り掛かれないでいる。
 行きつ戻りつ……定まらない季節の狭間である。
              (2013年10月:写真:クロメンガタスズメの幼虫)

山路の再会

2013年10月03日 | 季節の便り・虫篇

 歎異抄を読み解く文学講座を終えて、久し振りのドライブ疲れを午睡で癒した。

 ふと思い立って秋風の中を歩きたくなった。ヒップバッグにお茶を忍ばせて、団地の中を抜けようと玄関を出たら、早速ミチオシエが先導を始めた。
 九州国立博物館南側の階段下まで徒歩10分。風に逆らうように、モンキアゲハが頭上を横切っていく。89段の階段を登るとき、再びミチオシエが導いた。この時期、やたらにこの虫が多い。我が家の庭でも、2匹が毎日水撒きの飛沫の中を飛び遊んでいる。
 この89段が、いつもの足慣らしの関門である。登り詰めて総ガラス張りの博物館が姿を現すと、待っていたかのように檜林でたった1匹のツクツクボウシが鳴いた。そろそろ姿が少なくなる季節である。うまく伴侶が梢に向かってにじり寄って、無事交尾できることを祈りたくなる。
 特別展の狭間の博物館は、さながら休館日のように人気が少なく、秋風を独り占めしながらエントランス前を通り過ぎた。
 四阿でひと息いれる傍らを、2匹のキチョウが縺れ飛んだ。馬酔木が、早くも来春の花房の蕾を並べ始めている。

 またまた現れたミチオシエに引かれながら、木道を渡って湿地の中の小道を辿っているとき、小さな水たまりの傍らに張り付くようにとまって水を吸う蝶がいた。翅を立てることが多い蝶の中で、このように翅をべったり開いてとまるのは珍しい。え?……一瞬、胸がときめいた。モンシロチョウでもなく、スジグロチョウでもない。少し黄味がかった地色に、濃淡の茶色の模様が、まるで地図のように描かれている!なんと、中学生の頃たった一度採集して以来、久しく出会うことのなかったイシガケチョウだった。実に60年近い歳月を経ての再会である。
 こんな邂逅があるのなら、望遠レンズ付きカメラを持ってくるのだった。残念ながら、手持ちの携帯(スマホ嫌いのこだわりの爺は、いまだにガラケイ=有史以前の「ガラパゴス携帯」と蔑称される、二つ折りの携帯を愛用している)を近付けるが、気配を感じて飛び立ってしまう。何度も挑戦したが遂に断念、ブログにはネットの写真を借用してアップすることにした。
 傍らでは、シオカラトンボと真っ赤なアカトンボが、ベンチの陽だまりを奪おうとせめぎあっている。昆虫少年だった昔日への想いにときめきを温めながら、次第に傾斜を強めていく112段の階段を登った。
 車道に出て少し歩くと、そこが「野うさぎの広場」への散策路の入り口。額から滴る汗を拭いながら、ゆっくりと登っていく。春になれば、この小道にハルリンドウが群れ咲く。訪れる人も少ない林の中を、拾った小枝で蜘蛛の巣を払いながら小道を辿って行った。
 さわさわと風が鳴る。小さなイトトンボが「野うさぎの広場」で今日も遊んでいた。木立を抜ける風に汗を弄らせていると、藪蚊の襲来!タオルで払いながら、ほうほうの態で逃げ出した。まだ山路には藪蚊という夏の名残が色濃く残って、とてもひと息いれるどころではない。ひたすら身体を動かし、腕を振り、タオルで払い続けたのに、むき出しの両腕はしたたかに藪蚊に苛まれていた。

 天神山の散策路を辿る。そろそろ落ち始めたドングリをカリカリと踏みながら、天開稲荷の所まで来ると、ここにもミチオシエがいて境内に誘う。横目拝みで通り過ぎると、なんと4匹のミチオシエが山道を飛び交っていた。さてさて、どの一匹に従えばいいのだろう?
 この道には、ウバユリの群生地がある。まだ緑の握り拳をしっかりと振り立てて、秋風の中に孤高の姿で佇んでいた。藪陰の数本を分けてもらう。種子まで育って枯れたら、我が家の庭に蒔いてみよう。
 博物館エントランスの120段の階段を一気に上がり、ベンチで憩う。滴る汗を拭いながら、ジーパンの裾にびっしりと張り付くイノコヅチを一つずつむしり取るのが、この季節の散策の仕上げである。

 一人歩きの山路で出会ったイシガケチョウと、拾い採ったドングリ、摘み取ったウバユリの実……秋風の中の散策路でいただいた、ささやかなお土産だった。
 夏の背中はもう見えない。
           (2013年10月:写真:イシガケチョウ~ネットより借用)

セピア色の旅

2013年10月01日 | 季節の便り・旅篇

 秋晴れの有明海、14キロの海峡を有明フェリーで渡る。波静かな海面から、眩しい銀波が秋の日差しを照り返した。

 「伊勢屋旅館」……創業340年、15代目の当主が守る小浜温泉最古の宿である。火野葦平や斉藤茂吉も訪れた宿だが、それよりも何よりも60年の昔、小学校の修学旅行で訪れた想い出の宿である。勿論、改装を繰り返し今は当時の面影はないが、私の話を聞いたフロントの男性が当時の写真をコピーしてくれた。セピア色に色褪せた記憶のフィルムが一気に巻き戻されて、ひたすら懐かしかった。

 降ってはやむ小雨交じりの中、諫早ICで高速長崎道を降りた。3年間単身赴任で住んで知り尽くした町である。途中で右に折れ、橘湾を見下ろす湾岸道路に出て、アップダウンを楽しみながら愛野のジャガイモ畑の中を一気に駆け抜けた。駆け下った千々石(ちぢわ)の町から又右に折れると、離合も難しい細い道が独特のカーブで海沿いを走る。かつての小浜鉄道跡の、地元の人しか知らない秘密の道である。左右の崖から緑が天を覆い、幾つかの昔懐かしい馬蹄形の小さなトンネルが連なる、何とも趣のあるこの道が気に入り、幾度となく走りに来た。トンネルが現れる度に、対向車が来ないことを祈りながら走り込んでいく……その微かな緊張感が又いい。
 この日は、珍しく滅多に会わない対向車に出くわし、トンネルの途中からバックして道を譲った。そんなハプニングまでが何故か嬉しい。15分ほどで再び元の道に合流すれば、もう湯煙立つ小浜温泉はすぐそこである。家を出て157キロ、途中川登SAでお昼を摂って、3時間のドライブだった。
 露天風呂で疲れを癒し、海辺に出て泉源の湯温105度に因んだ長さ105mの「日本一長い足湯」を楽しんだ。やがて雲が切れ、壮麗な日没を部屋の窓から見送る夕暮れが来た。

 箸付「菊花豆腐」、吸物「清汁仕立」、造り「鰹叩き、鯛、サーモン、太刀魚細造り」、蓋物「大豆飛龍頭」、焼物「あかね豚朴葉焼」、替鉢「茄子替り田楽」、鍋物「吹寄鍋鯨スープ仕立」、蒸物「湯葉茶碗蒸 鼈甲餡」、揚物「秋刀魚香り揚籠盛」、酢物「もだま湯引き」、お食事「栗御飯」、香の物「二種盛」、デザート「きなこプリン」……このお品書きに「伊勢海老の活き造り」と「鮑の踊り焼き」が加わり、更に「鯛のあら煮」を追加注文して、家内の快気祝いの夕餉とした。祝いに調理場から届けられた冷酒を酌みながら、納得の味を心行くまで楽しんだ。退院後は雀の涙ほどしか食べられなかった家内が、ほぼ完食したのに驚きながら、術後3ヶ月を経て、漸く快気を実感した夜となった。

 一夜明けて……染まるほどに青い秋空のもとに登山道を走って雲仙温泉を駆け抜け、ススキ揺れる仁田峠に車を停めた。平成2年11月17日、198年ぶりに噴火して多くの命を呑み込んだ普賢岳の荒々しい火砕流の跡も少しずつ年月が和らげ、土石流が流れ下った水無川も穏やかに景色の中に溶け込んでいた。23年前に長崎支店長として迎えた、あの噴火・火砕流の緊迫した慌ただしい日々も、もう遠い記憶の淵に紛れつつある。

 島原に下り、島原城前の姫松屋で名物「具雑煮」のお昼を摂った。箸袋によれば、およそ350年前の「島原の乱」の戦さの折に、天草四郎を総大将と仰いだ37,000人の信徒が籠城、兵糧として蓄えた餅に海や山の幾種類もの材料を混ぜて雑煮を作って食べながら、3ヶ月を戦ったという。それに因んで生み出された「具雑煮」は、芳醇なだしにふんだんに炊き込まれた十数種類の食材の味が溶け込み、忘れられない味わいである。

 多比良港から有明フェリーに乗った。小雨の中に走り出した「快気祝の旅」は、セピア色の想い出を絡ませながら、秋晴れの海峡を越える潮風の中で終わった。走行距離298キロのドライブ+14キロの船旅である。
 ひとつの節目の旅だった。
                  (2013年10月:写真:かつての伊勢屋旅館)