蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

梅雨入り前夜

2008年06月04日 | 季節の便り・花篇

 長者原に駆け上がった瞬間絶句した!何、この車の群れ…?

 もう1年以上のご無沙汰が続いていた。週間天気予報を睨みながら、多分梅雨入り前の最後の晴れ間と読んで、急遽コテージに予約を入れた。後で考えたら、よくこんな直前に部屋が空いてたと思う。初夏のハイウエーを走り、豊後中村から一段と緑の色を濃くした十三曲がりの九十九折を抜けて、飯田高原・長者原に登りつめた。一望、三俣山がのしかかり、硫黄山の煙も真っ直ぐに吹き上がって、さしあたり今日のお天気は大丈夫。駐車場に溢れる車の群れに気付いたのはその時だった。
 迂闊だった!今日6月1日は久住連山の山開き、しかも梅雨入り間近の日曜日。マイカーや観光バスから吐き出された登山客が、群れ為して頂を目指す銀座状態の一日である。日曜日に動くのも何年振りだろう?人ごみ嫌いの年金生活者の特権は、平日の閑静な山歩きと決めていたのに、1泊2食6,800円のコテージ特別料金に我を忘れ、一番嫌いな雑踏状況に飛び込む羽目になった。
 早々に、男池の散策路に遁走して閑を求めようとしたが、とんでもない、ここも駐車場は満杯間近。黒岳、平治岳への基点である。そうそう甘くはなかった。腰を痛めた家内の温泉湯治を兼ねた山入りだったから、散策路も諦めて、男池近くの巨岩を抱いた欅の古木の陰の陽だまりにシートを広げて、今日は森林浴と決め込むことにした。
 木漏れ日の眩しさ、身体が染まりそうなほどに輝く緑の木立、葉末に遊ぶ小鳥達の可憐な囀り、時折遠くから軽快に転がってくる啄木鳥のドラミング……初夏の木立は命満ち満ちた躍動の季節だった。頬張る握り飯に誘われたように、ジャノメチョウが恐れる気配もなく手元に舞い寄ってくる。その蛇紋は雨の季節にこそ相応しい。日陰を好む慎ましい地味な蝶である。
 時流に棹差す空しい戦いに敗れ、今春遂にアナログからデジタルに宗旨替えした一眼レフカメラのデビューである。端境期の散策路に花は乏しいけれども、何か収穫が欲しかった。食後の珈琲に憩う家内を残し、せめていつもの「かくし水」まで登ってみることにした。
 春、芽吹きから早春の頃には、キスミレ、ユキワリイチゲ、アズマイチゲ、ハルトラノオ、ネコノメソウ、ヤマルリソウ、サバノオ、エンレイソウ、ジロボウエンゴサク、ヤマエンゴサク、ユキザサ…少し遅れてヤマシャクヤク…山野草の宝庫となる散策路である。木漏れ日の緑に染まりながら、専ら下草の間に花の姿を求めてゆっくりと登って行く。木立ちの中の宝石・ユキワリイチゲの葉群が、そこここに目立つのが却って悔しい。花びらを落としたユキザサが、枯れかけた花茎だけを垂れているのも悔しい。花盛りの頃を知るだけに、一層寂しい風情に感じられた。カメラの重みだけがずっしりと肩に来た。
 幾つか岩を越えた辺りに、ようやく今まで見たくて見られなかった花を見つけた。春先、瑞々しい緑の葉を扇のように広げていたバイケイソウが今真っ盛り。1メートル近い花茎をスックと延ばし、びっしりと白い花をつけていた。花自体は地味ながら、林立する群生は圧巻だった。そして、「かくし水」の岩陰に、期待通りサバノオが数厘花を残してくれていた。春まだ浅い頃は錆色だった葉も、今は瑞々しい緑に染まっている。この数厘で充分に満たされて、散策路を戻った。

 午後から急速に雲を厚くした久住高原。夜更けの露天風呂に星空はなく、少し冷えてきた夜気に湯煙が白く湯殿に棚引いて、吐口から注ぐ湯の音に風音だけが戯れていた。
             (2008年6月:写真:サバノオ)