ザックを枕にシートに寝転び、カミサンと枕を並べて緑の風に染まっていた。ツグミがせわしなく草の間を覗きながら餌を探している。眩しいほどの紫の野薊が咲き、小さなボタンのように可憐なニワゼキショウが風に揺れ、黄色いキンポウゲ(ウマノアシガタ)が艶やかな輝きを見せ、木漏れ日の下をジャノメチョウが舞う。南に迫る梅雨前線が足踏みする5月半ばの五月晴れの都府楼・太宰府政庁跡は、爽やかな初夏の風と日差しに溢れる緑の空間だった。
DNA鑑定の検体は、昨夕の町内での追加捕獲に加え、頼んでいたご近所からのお届けが加わり、総数85匹を超えた。博物館近隣1キロ以内のサンプルとしては、十分過ぎる数となったが、博物館科学課の虫愛ずる姫のYさんから第2ポイントでの捕獲を頼まれ、長年の虫好きのダンナにすっかり感化されたカミサンを伴い、数キロは離れた政庁跡にお握りを持ってミニ・ピクニックを兼ねたヒメマルカツオブシムシの探索にやって来たのだった。
先に腹ごなしを済ませ、捕中網もなく花もない政庁跡での探索を諦め、近くの散策路を辿った。100メートルほど観世音寺方面に戻った畑の畦道の隅に、ひと握りのマーガレットを見付け、目を寄せた。ほんの僅かな花の塊なのに、何と数十匹のヒメマル君が黄色い蕊の絨毯の上に蠢いていた。その気になって見ないと、決して目にとまらない2~3ミリの粟粒のような甲虫である。歩き出して僅か10分あまりで、目標の数をクリア、ビニールの小袋に移して、明日までの命のつなぎに花を一輪添えた。「2010年5月16日13時15分、観世音寺4丁目」とサインペンで袋に書き込む。
折角だからもう少しと、50メートルほど欲張って足を進めて、少し背中が寒くなる光景を目にした。同じ所番地の、とあるお宅の庭園を覆いつくしている数百本を超えるマーガレットの群落があった。「ウワッ、何十匹捕獲!」と勇躍覗き込んだ花びらの中に、なんと1匹のヒメマル君さえいない。繰り返し見詰め続けたけれども、一面の花の絨毯が拡がるだけで、とうとう収穫ゼロのままそこを後にした。おそらく……手入れの良い庭だった。消毒が行き届いていたのだろう。ヒメマルカツオブシムシの成虫は、花の蜜を吸うだけで何の悪さもしないのに……行き過ぎた殺虫・殺菌は、無害な虫さえ殺戮して生態系を崩していく。
九州国立博物館が一貫して固持しているIPM(総合的有害生物管理:大規模な化学薬剤燻蒸をやらずに、文化財はもとより人と環境に配慮したあらゆる有効な防除手段を合理的総合的に組み合わせて、害虫を入れない、増やさない、黴を発生させないように日常管理する)という理念の持つ重大な意味合いに、改めて思いを馳せたのだった。
少し先の庭先で更に捕獲を重ね、およそ50匹を超えたところで、政庁跡に戻った。こうして、3日間で135匹を超えたヒメマルカツオブシムシ捕獲のミッションは終わった。
立ったままの人の目線、およそ1メートル50センチから世界を見ていたのが変ったきっかけは、庭の隅のユキノシタの花だった。何気なく「白い花」としか見ていなかったのが、ある日屈み込んでマクロレンズをつけたカメラのファインダーで覗いて、その目を見張るような繊細な美しさに息を呑んだ。山野草の花にのめり込み、いつしか大輪の花に目を向けなくなったのは、その日が始まりだった。
30人ほどの博物館の環境ボランティアの中で、唯一「虫の味方」を公言して憚らない。人の目でなく、目線を下げた虫の目で見るとき、そこには思いがけない感動の世界が広がる。そうそう無駄に虫は殺させない。今回の検体が、博物館のヒメマル君のルーツを見極め、今後のIPMにどんな形で反映されるのか……それを見守るのが、135匹も捕らえた私の贖罪でもあるのだろう。
「昆虫少年の成れの果て」が燃えた3日間の心躍るミッションを終え、博物館科学課のYさんに届けて帰る頃、太宰府では29.5度の日差しが燃えていた。
(2010年5月:写真:太宰府政庁跡寸景)