草をむしる指先に、額から汗の滴が落ちた。梅雨に入ってもう10日あまりというのに、雨が降らないままに鉛色の空から暑熱だけがのしかかる。じっとりと重い空気を分けるようにして一匹のツマグロヒョウモンが舞い降りた。
我が蟋蟀(コオロギ)庵の庭には、訪れる蝶たちのための席が用意してある。八朔にはアゲハチョウが、スミレの群落にはツマグロヒョウモンが、ギシギシにはベニシジミが、そしてプランターのパセリは我が家の食卓用ではなく、キアゲハが訪れて卵を産み落とすために植えられている。やがて卵を産み終わった蝶たちは、白い穂を立てるオカトラノオの花蜜を吸って暫しの憩いの時をすごし、また大空に舞い上がっていく。
蝶の卵は小さすぎてなかなか人の目にふれないが、ルーペに捉えられるその色と形はまさに造形の妙、ケーキのような果物のような、実に見事と言うほかはない。やがて卵から孵った幼虫はそれぞれの食草を食べながら育っていくが、幼虫の姿形もまた美しい。多くの人は「毛虫!」のひとことで文字通り毛嫌いするが、目を凝らせばその造形の妙に目を見張るに違いないのだ。
昔、九州大学の世界的魚類学者・内田恵太郎先生の随筆にこんな意味の言葉を読んだ。…人は怖い、嫌いと思ったら一歩退いてしまう。逆に一歩前に出て目を近づけてごらん、きっと嫌いなものにも好きになれる何かが見付かるはずだよ…子供や孫達にもこのことを教えてきた。おかげで二人の娘は「虫愛ずる姫君」に育ち、虫は勿論、沖縄ではキノボリトカゲをポケットに忍ばせて遊ぶまでになった。その影響を受けて二人の孫娘も小さな生き物に関心を寄せ、帰省するたびに「ジージ、虫採りに行こうよ」とせがむ。蟋蟀庵の孫育ての極意は「野に放つ」ことにある。
都会っ子がデパートでカブトムシやクワガタを買う姿は哀しい。年間輸入量100万匹と聞いて絶句したことがある。それを商売にして助長している大人達が腹立たしい。夜中に起きて雑木林を巡り、櫟の樹液に寄るクワガタやカブトを見つけて感動する環境から、子供達がどんどん遠ざけられている。子供の好き嫌いは、その多くが親に起因しているのも事実だろう。親の無責任な「汚い!怖い!危ない!いけません!やめなさい!」といった発言が、どれだけ子供達の旺盛な好奇心を摘み取っていることだろう。生まれながらの子供には、嫌いなもの怖いものなんて決してなかったはずなのだ。
「…と、こんなグチを言うようになったらもう歳だな。」と苦笑いしながら、今日も降りそうにない空を見上げて、又ひとしきり庭の草取りに精出す蟋蟀庵ご隠居だった。
(2005年6月:写真:ツマグロヒョウモン)