研ぎ澄まされた凛冽の冬空を飾っていたオリオン座も大三角も西の空に沈み、東の地平線の下には、猟師オリオンを倒した巨大な蠍がザワザワト蠢き始める季節である。
しかし、尾を巻き上げた蠍座を此処太宰府で観ることは殆どない。大気の濁りと街の灯の明るさが、夏空の風情を奪い去って久しい。喪っていったものばかりが、しきりに気にかかる昨今である。
住宅地に猿の出没が増えている。人の手で養生されていた里山が放棄され、荒れていく山林に猿や鹿、熊、狸、穴熊などの野生動物が還って来始めた。人間に奪われた生息地に、じわじわと押し戻してくる獣たちの動きが加速している。
一昨日、まだ二分咲きの桜が枝垂れる御笠川で、久し振りに美しい翡翠色のカワセミを見た。渓流にしか棲まない筈のカワセミが、人の営みのど真ん中に還って来た。これも自然界の逆襲のひと齣だろう。
「イモムシ探検隊」という本を書いた盛口 満さんの「人間の好みや理解を超越して、自然はそこにある。人間がいかに人間に都合のいいような世界を作ろうとも、自然はその中に滲み出してくる」という言葉が、改めて思い出される。
ハンターを増やすキャンペーンが起こり、「狩りガール」とか「シビエ(獣食)とかをブームにしようとする動きも、所詮は一時的な悪あがきでしかないのだろう。大自然が本気で巻き返しを始めたら、とても人知の及ぶところではではない。
人知の及ばない核エネルギーに手を付け、「フクシマの悲劇」を早々と忘れて、放射性廃棄物の処理のあてもないままに、原発再起動が当たり前のように進められている。利権金権まみれの政財界が、愚かにもトイレのない家を作り続ける……荒涼とした思いの中に、滅びの笛が蕭々と吹き抜けていく。
桜の開花を迎えてメジロの訪れがなくなり、庭先の八朔を啄みに来るのは姦しいヒヨドリだけになった。いいだろう、八朔の在庫が続く限り、ヒヨドリの食卓を飾ってやろう。
庭のあちこちにハナニラが六光星の花を散り拡げ始めた。カメラを近付けながら、ふと背景の煩わしさを思う。かつて、アナログカメラにこだわり続けていた頃が懐かしい。
24枚撮りのASA400の高感度フィルムを装着したカメラにマクロと接写レンズをダブルで嚙ませて、5ミリ足らずの山野草を這い蹲踞って5センチの距離から狙う。限界まで絞り込むと、背景が黒くボケて、花の姿だけがクッキリと浮かび上がる。
撮り終ったフィルムを何本も抱えて、馴染みの「五条フォト」で現像・焼き付けを頼み、期待と不安にときめきながら翌日の仕上がりを待つ。1本のフィルムで1~2枚、納得の絵を見付けた時の喜びに胸躍らせながら、再び「五条フォト」に駆け込み、六つ切りに引き伸ばしてもらう。この店はフィルム1本につきデカ六つ1枚を、白いプラスチックのフォトフレームをつけてサービスしてくれた。気に入らないと、何度でも焼き直してくれる親切な店だった。
やがて店は閉じたが、長い付き合いの縁で町内の敬老会の集合写真には、その後も駆けつけて来てくれた。やがて、集合写真を喜ばない敬老者が増え、「五条フォト」との縁も切れて、いつのまにか音信も絶えた。
身近に親しいDPEショップがなくなったのを機に、とうとう抵抗をあきらめてデジタルカメラに買い替えた。しかし、その場で結果が見えて、すぐに撮り直しが効くデジタルカメラに対する抵抗感はいまだに消えない。アナログカメラの持つ、待つ間の期待と不安、満足の一枚を見付けて引き伸ばしを頼む喜び……喪われた大きなもののひとつである。
使いなれたアナログカメラは、数多くの旅や山野草探訪登山の想い出と共に、今もリビングの飾り戸棚の奥深く大切に仕舞われている。
閑中有閑の日々、やはり人間はアナログがいい……そう嘯きながら、デジタル最先端のパソコンでブログを書いている自分が笑える。しかし、矛盾だらけなところが、いかにもアナログではないか。
桜満開まで、あと数日である。
(2016年3月:写真:ハナニラの乱舞)