蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

恐るべし、佐世保バーガー!

2011年12月23日 | 季節の便り・旅篇

 最早、師も走らなくなった年金生活者の静かな年の瀬。迎春準備もほぼ終わり、珍しく(結婚して以来2度目の)市販のお節料理で手抜きと決めたから、押し迫っても気持の忙しなさもない。アメリカで皆が家庭に帰る静かなクリスマスを何度も経験したから、信仰と関係なく、やたらジングルベルが姦しく巷に満ちて騒ぎ立てる日本のクリスマスにも興味はない。町内行事の掉尾を飾る餅つき大会も終わり、博物館ボランティアと博多座12月恒例の文楽を残すばかりで、今年もあと10日となった。

 「温泉ぱらだいす」というネットで「NEW【温ぱら平日限定】温泉の楽園プラン★湯殿“○○”入り放題★2名様よりOK!1万円ポッキリ!」という情報を見付けた。「美人の湯」で名を売る佐賀県・嬉野温泉の老舗である。しっかり空室がある。早速申し込んで翌日午後高速に乗った。1時間あまりの近場である。平日に自由に動ける年金生活者の特権と決め込んで、晴れた冬空の夕日に向かって西に走った。実は、ある出来事の1周年を祝う、重要な意味合いの小旅行でもあった。
 
 増設を重ねた迷路のような回廊を歩いて向かった大浴場、普段は1000円の追加料金が取られる「湯殿○○」だったが、カードキーで扉を開いて入った湯船は、あまりに客が少な過ぎて…と言うより誰一人浸かっていなくて、寒々とした独りっきりの貸し切りだった。私にしては珍しく湯当たり寸前まで長湯して部屋に戻り、ポカポカ温まった身体で心地よく暫しうたた寝…温泉好きの家内が帰ってきたのは、それから更に30分も後である。
 お食事処でいただいた13品の夕飯は小奇麗で美味しく、何よりも係の人たちの笑顔が嬉しい。格安の客にも分け隔てなく、美人女将が挨拶に来て却って恐縮してしまった。女将が描いたお地蔵さんや童の絵が館内到るところに飾られているのも、此処の名物である。土産物を物色する序でに200円のUFOキャッチャーで遊び、一発でウサギのぬいぐるみをゲット。就寝前にもう一度別の大浴場と露天風呂を又も貸切で楽しんで、近場の旅の宿の眠りに就いた。
 
 一夜明ければこの冬一番の寒波で、嬉野は氷点下2.1度の冷え込みとなった。朝風呂で温まり、バイキングの朝食を腹いっぱい食べてチェック・アウト。江戸文化が好きな家内が一度も行ったことがないというテーマパーク、「肥前夢街道」に寄ることにした。
 開園以来26年が過ぎ、オーナーも変って、気の毒なほどの寂れようである。現れた忍者が、一生懸命に解説や「南京玉すだれ」を披露してくれる。しきりに薦めるのを断り切れず、凍て付くような500円の忍者ショーの劇場に座った。観客は私達を含めて4人、何とも痛々しい。十字手裏剣探しでお土産をもらい、試しの十字手裏剣投げを全て的中させてご機嫌で坂道を下る途中、「なりきり写真館」から呼び込まれた。同情と興味と、どちらが勝っていたのだろう?
 服の上から3分で衣装と鬘が着けられ、大岡越前守と姫御前(家内は「あんみつ姫」と自称!)が出来上がった。かつては有名映画スターのブロマイドや、化粧品のカレンダーの為に女優を連れて海外撮影をしていたというプロのカメラマンである。我ながらよく似合っていると自画自賛し、次は眠狂四郎でいこうなどと悦に入りながら、それなりの暮れの想い出作りとなった。(この写真が後日、町内や友人達の「年忘れ大爆笑!」を誘うことになる。さすがに気恥ずかしくて、公開を憚る。)

 高速を走り戻る途中、昼餉の時間となった。川登のSAに寄り、噂の「佐世保バーガー」に巡り会った。二人ともこの歳で国内はもとより、アメリカでも何軒ものバーガー・ショップを食べ歩いて娘の顰蹙を買う、結構なハンバーガー・マニアである。
 ウーン!と唸った。ベーコン、トマト、レタスにベークド・エッグを挟み込んだ何の変哲もないハンバーガーなのだが、ソースの妙!和風に味付けされ、小奇麗に飾られて、オニオン・フライと三日月型のポテトフライ、ピクルスとオリーブとオレンジのひと切れが添えられた味のバランスが絶妙なのである。日頃のバーガー・ショップの値段からすれば、1000円は決して安くはないファースト・フードなのだが、どうやら病み付きになりそうな美味であった。恐るべし、佐世保バーガー!
 
 おかしなおかしなシニア・ライフの、年の瀬のひと駒である。
                 (2011年12月:写真:佐世保バーガー)

師走のこだわり

2011年12月15日 | つれづれに

 太宰府天満宮参道の傍らに建つ古刹・光明寺で除夜の鐘を撞き、1年の煩悩の残滓を払うのが数十年来の我が家の大晦日の習慣だった。数年前に住職が代わってから、何故か一方的に多くの人が楽しみにしていた太宰府の大晦日の風物詩が断たれた。以来、師走のけじめが何となくつかないままに年を越している。
 公私いろいろと言い尽くせないほどの多難な一年だった。何かけじめをつけたくて、ふと思い立って数年ぶりに障子を張り替えることにした。珍しく雲ひとつなく晴れ上がり、秋のように澄み切った青空の一日である。
 二十数年前に家を新築するにあたり、客間と仏間は純日本風にこだわり10枚の障子を立てた 。客間の一間廊下に面した4枚は雪見障子にこだわり、長年の夢をかなえた。これが実は、障子の張替えに厄介なひと手間を加えることになるとは読み切っていなかった。

 歳月が少しずつ建て付けを歪ませ、幾枚かの障子の滑りを滞らせている。力ずくで外して鉋で削り、溝を切り出しナイフで削ぎ、サンドペーパーで整えるのに半日を要した。雑巾で桟を濡らし、古い紙を剥がしていく。黄ばんだ古紙の脆さに、張替えをサボった歳月を思い知る。
 今は1枚張りが主流という。中にはアイロンで張る紙まであり、ホームセンターの棚にも、昔ながらの障子紙は肩身が狭い。しかし、昭和を生きたジジイには、やはり昔ながらの桟一段ずつを糊刷毛で叩いて張っていく手法にこだわりがある。そこには、亡き父の後ろ姿がある。
 海辺に住んでいた頃、年の暮れになると父は障子を外し、波打ち際に運んで古紙を剥がし、冷たい風に曝されながらたわしで洗った。尻はしょりして冬の海で障子を洗う父の記憶はいつも後ろ姿である。逆さまにして上から張ると、糊のボタ落ちで張ったばかりの障子を汚さないし、張り目に埃が溜まらないことも父に教えられた。
 ところが最近の障子紙にはその配慮がない。仏間の無地の紙はともかく、玄関の明り取り障子と客間の雪見障子に竹の模様を漉き込んだ紙を張ろうとすると、右利きで左からロールを転がす私にとって、この手法だと模様が逆さまになってしまうのだ。かといって、右から左にロールを転がすのは、微妙な調整が難しい。仕方なく畳に古新聞を敷いて障子を寝かせ、下から張ることにした。前かがみの姿勢が、腰をミシミシ痛みつける。雪見障子は隠し桟を錐で刺して抜き取り、スライドする部分を外して張るというひと手間が加わる。紙が引き攣らないように何度もカッターの刃を取り替えながら、10枚14面の障子を張り替えるのに丸二日を要した。部屋が一気に明るくなった。(仏間の4面は手抜きして1枚張りを試してみた。確かに素早く張り上がるが、やはり何となく充足感がない。)

 日差しが真っ白な障子に照り映える。どことなく気持ちのけじめをつけて、今年が暮れていく。たわわに実った八朔が日ごと黄色い輝きを増し、葉を落とし続ける蝋梅の枝はミッシリと蕾に覆われている。1年がかりで枝振りを整えた紅梅、無数の花穂を垂れたキブシと並んで、やがて我が家は華やぐ早春を迎えることだろう。
 2005年1月4日にこのブログを書き始めて以来、拙いエッセーを覗きに来ていただいた方の数が、12月10日で3万人を超えた。これも師走のひとつのけじめである。
 300枚の年賀状を書き上げ、お屠蘇を買い…それぞれに働き盛りの娘達も、部活や塾に忙しい孫達も帰ってこないジジババの静かな越年だが、思いは万感。新しい年に期すものはいつになく大きいものがある。

 夜半、庭に降り立った。夜空に「オリオン座」が還ってきた。その左肩のベテルギウスを頂点に、「おおいぬ座」のシリウスと「こいぬ座」のプロキオンが冬空の大三角を形作り、中天に君臨する。見上げる一瞬、オリオン座を左上から右下に切るように流れ星が走った。思いがけず視線を掠めた「ふたご座」流星群のひとつ。何かいいことが始まりそうな、嬉しい師走のけじめだった。
           (2011年12月:写真:張り終わった雪見障子)

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カリフォルニアに暮らす

2011年12月02日 | 季節の便り・旅篇

 LAX(ロサンゼルス空港)から南へ小一時間、Orange Countyの一角の高級住宅地Aliso Viejo(アリソ・ヴィエホ)にある娘の3軒目の持ち家で、6週間の「生活」をした。ディズニーランドや、かつてワールド・ベースボールで日本代表が活躍したアナハイム球場まで2~30分の立地にある。

 玄関の扉を開き、ハイビスカスの真っ赤な花を肩でかわしながら小さなパティオを抜けて、極楽鳥花が咲き誇る門扉を出る。通りを20メートルほど歩いた生垣の中に、2メートル角ほどの巨大なダンプスター(ゴミ箱)が二つ並んでいる。窓の外の砂糖水の給餌器にホバリングするハミングバード(蜂鳥)を見ながら、家内が娘夫婦に美味しいものを食べさせてやろうと、毎日信じられないほど元気溌剌と炊事に励むかたわら、クリーナーで家中を掃除したり、夜毎生ゴミや娘夫婦の愛猫サヤのトイレの砂を捨てに行くのが私の日課だった。ロスの夜空にも美しい月が傾き、キッチンの窓の下で野ウサギを見かけることもあった。時にはコヨーテの親子がダンプスターの辺りを歩いていることもあると娘が言う。一度、芝から斜めに舗装道路を歩いたコヨーテらしい濡れた足跡を見た。だから、夜毎のゴミ捨ては少しばかりスリルがある日課でもあった。
 夕飯が済むと、吹き抜けのリビングのソファーに座り、娘の大好きな“嵐”三昧。暖炉の上の壁面に取り付けられた大画面に、周囲を6台のスピーカーに囲まれ、臨場感溢れる国立競技場やドームでのライブに盛り上がり、翔君、大野君、松潤、ニノ、相葉君、5人それぞれの個性が滲むドラマを楽しみ、バラエティーに笑い転げる。そこにあるのは、心を解き放す温かな「日常」の団欒だった。

 住宅地の短い坂道を下ると、片側3車線にバイクレーンと1車線幅の歩道が設けられたEl Toroという大通りに出る。数日おきに、家内と二人でリュックを担いで散歩代わりのランチとショッピングに出掛けた。車もさほどは多くなく、ゆっくり25分、バス停ふたつ分をCalle sonoraまで歩くと、大型のグロッサリー(食料品店)やホームセンター、事務文具店などがあり、周辺にCarl’s Jr.(バーガー・ショップ)、Subway(サンドイッチ屋)、寿司バー、ピザ屋、そして嬉しいことに珈琲ショップのスターバックスが並んでいる。
 そこに到る道筋は、延々と続くシニア専用住宅の敷地である。Whispering Fountains at Laguna Woods(ラグーナの森の囁く泉)というお洒落な名前がついて、塀を巡らせ、木立で囲み、広大な敷地の中には専用のゴルフ場(フィーは8ドル、600円ほど!)、映画館、病院、図書館などもあり、ゲートの数が少なくとも14箇所ある。だから、此処のグロッサリーには車ばかりでなく、ゴルフカートや専用の車椅子用のバスなどで乗り付けるお年寄りも多く、高齢の私達も全然抵抗がなかった。ボランティアなのか、学校の授業の一環なのか、若い人達がレジで袋に入れるのを手伝ってくれたり、買い物のサポートをしてくれる。
 Subwayに寄って片言英語でランチとしゃれ込み、グロッサリーでリュックに持てるだけの食料品を買い、時にはホームセンターでお花を買って、スタバで珈琲を買って歩き飲みしながら帰ってくる。
 歩き疲れて汗ばんだ身体には、敷地内にある住人専用の温水プールと40度ほどの温かいジャグジーが待っている。温泉気分を楽しみながら、眩しいカリフォルニア・ブルーの空から注ぐ日差しを存分に浴びて癒された。

 坂の下にTanagerというバス停がある。残念ながら南に向かうバス停はないから、10分ほど歩いて下ったバス停から、40分毎にやって来る89番のバスに乗る。シニア料金は一般の三分の一の60セント(およそ45円)と安く、15分も乗ると終点のLaguna Beachのバスターミナルに着く。
 太平洋に面した崖沿いの小さな観光地。芸術家が数多く集い、秋にはアート・フェスティバルが開かれる街である。観光地らしいお土産屋さん、芸術工芸品ショップ、ブティックなどの間に、そして崖の上やビーチ沿いにシーフードやメキシカン料理のレストラン、ピザ・ショップ、アイスクリーム・ショップ、珈琲ショップなどが点在し、何度訪れても飽きることがない。店を冷やかしながらお土産を物色して散策し、疲れたら崖の上のお気に入りのレストランThe Cliffのオープン・テラスで、日差しに煌く太平洋の大海原を見ながらメキシカン・ビールを飲み、シーフードのランチを楽しんだ。

 カリフォルニアはシーフードが美味しい。娘夫婦とカリフォルニア・ワインの白を傾けながらOyster(生牡蠣)をダースで頼んで幾種類かを食べ比べたり、烏賊のフライに舌鼓を打ったり、家内と二人でShrimp(海老)のフライを取ってココナッツ・ソースをディップにしてつまんだり、クラムチャウダーとクラブサンドにフルーツが盛られたコンボを食べたり、白身魚とホタテと海老の串焼きを楽しんだり、ささやかながら気持リッチなひと時を幾度か過ごした。
 食べ残せば、To go boxをもらって持ち帰り、夕飯の足しにする。(日本で言うテイク・アウトを、アメリカではTo goという。食べ残したものは持ち帰るのがごく普通の習慣なのだ。)15%のチップも、素早く計算出来るようになった。
 秋深いというのにビーチでは泳ぐ人がいたり、ビキニで日光浴する人、ジョギングする人、砂遊びに興じる子ども達など、まだまだ夏の風情が残っていた。
 海岸沿いの国道South Coast Highwayには、この地域の豊かな住民を象徴するように、ランボルギーニ、フェラーリ、コルベットなどの高級スポーツカーが当たり前のようにさりげなく走っている。何度か通ううちに街の地図が頭の中で出来上がり、Post office(郵便局)やPublic Rest Room(公衆便所)の場所まで覚えてしまった。

 因みに、車社会の此処では、バスに乗るのは殆どが貧しいメキシカンか学生である。私達日本人の老夫婦が、その中に混じってランチや散策に通う。それは私達にとっては決して貧しいものではなく、ひとつの楽しい生活のひとコマだった。帰りは住宅の入り口のTanagerのバス停で降りるから、娘の家まではすぐに帰り着く。(土地柄、カリフォルニアはスペイン語の地名が多い。Tanagerの発音は、とうとうバスの運転手に最後まで通じなかった。)

 6週間のカリフォルニア生活、いつものような長距離ドライブや山登りやトレッキング、キャンプなどの観光がなかった分、一段と「生活」の身近さを感じ取ることが出来る充実の日々だった。
    (2011年12月:写真:閑静な佇まいの娘夫婦のマイホーム)