蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

終わりの始まり

2009年01月21日 | つれづれに

 おなかがクルルル…と鳴る。350mlの缶ビールが限度というのに、間違えて500ml缶を買ってしまった。いつもなら半分助けてくれる家内は、横浜の娘の家に助っ人に行って留守。よせばいいのに、このビールを2時間半かけて一人で飲み干した挙句、今朝から遠雷をおなかに聞きながら、博物館ボランティアに出かける羽目になった。年甲斐もなく、無茶をするものではない。

 70歳古稀……構えていたにしてはさしたる感懐もなく、昨日の続きのような目覚めだった。この日、自分では最後の公的仕事と決めているパネル・ディスカッションのコーディネーターの役目が待っていた。おそらくこの街では前代未聞と思われる、日本語、英語、韓国語、中国語、タガログ語の5カ国語を並べたチラシが配られ、「くらし輝く地域づくり in 太宰府~世界のママ・パパの悩みを聞いてみよう!」というテーマの集いである。太宰府市中央公民館市民ホールに、国際結婚をして日本で育児中のタイ、イラン、中国の3人に、太宰府市長、日本語教室、子育て支援ボランティアの代表、合わせて6人のパネラーを招き、コーディネートする時間は僅か1時間という、頭を抱えたくなるような至難の要請である。
 日本滞在7年から21年、0歳から大学生までの子育てのパパママ3人は、日本語で話すハンディの重圧でやや緊張気味なのか言葉も少ない。いかに伸び伸びとした発言を引き出すかが、このディスカッションの成否を分ける。開会前の控え室でアイス・ブレーキング(緊張緩和)の雑談に引き込んだ。
 一番緊張しているタイ人のお父さんは、コンギン・ナタポンさんという。15歳から27歳まで僧侶として修業後、オーストラリアに留学して英語とビジネスを学ぶうちに、日本人の女性とめぐり合って結婚。東京、広島、長崎という地名以外は何も知らないままで愛する妻の国に住み着いたという。つい先ごろ、日本語のスピーチ・コンテストで優勝した語学力は見事と思うのだが、本人は充分に使いこなせないもどかしさに、表情が固まっている。もう随分昔に訪れたタイ旅行の話からはいり込んでみた。三島由紀夫の「豊饒の海」以来憧れていたバンコク・暁の寺(ワット・アルン)を目にした感動……すると、すぐさまナタポンさんが食いついてきた。ワット・アルンに程近いワット・ポーで修業していたという。エメラルド寺院、水上マーケット、アユタヤの廃寺、6時間かけて悠久の大河チャオ・プラヤを下ったクルーズ。ワット・プラケオ、ワット・ヤイチャイ・モンコン、ワット・プラシ・サンペット……蘇る記憶を挟んで交わす束の間の会話で、ナタポンさんの表情が一気にほぐれてきた。
 本番で誰よりも伸び伸びと、そして檄したように日本語の悩み、仕事の悩みを話し続けたのは、一番心配していたナタポンさんだった。タイ料理を作ることが好きで、タイ料理の店を出したいけれども資金がなく、調理師としての給料も安い。今はタイ式マッサージで生計を立てている彼には、0歳、3歳、5歳の子供達がいる。会場に母子揃って、家族思いのお父さんに声援を送る姿がいじらしかった。
 イラン人女性のファラさん(滞在21年、高校生と大学生の子供)、中国人女性の李玉蓮さん(滞在10年、4歳と9歳の子供)。それぞれの子育てと、難しい日本語をマスターする悩み、行き届かない行政の対応への不満等を何とか引き出して、1時間の持ち時間はあっという間に過ぎていった。行政への要望に市長が答え、これからの小さな改革の始まりを期待する言葉でディスカッションを閉じた。
 幾つか耳に痛い言葉がある。「日本は、女性に我慢を強いる国である」「日本の男性は、日本人の感覚だけで妻に接し、妻の国の文化・風習を尊重してくれない」「日本のお母さんは、子供に優しすぎる。叱らない。しつけをしない」「日本の子供は、食べ物を大事にしない」「外国人という言葉がなくなって欲しい。外国人と日本人の交流でなく、人間と人間の心の交流がしたい」……深い問題を孕んだ重い重い言葉である。
 終わって第2会場で、美しい民族衣装に着替えたファラさんや玉蓮さんに、それぞれのお国のお茶の饗応を受けた。壇上の緊張から開放された二人の表情は、眩しいほどに輝いていた。

 古稀の仕事を祝福の拍手で終えて、さあ新しい日々が始まる。九州国立博物館の地下施設の見学研修を受けながら、環境ボランティアの仲間たちは見学そっちのけで、暗がりに散るムカデやクモ、ゴキブリ、テントウムシ、コガネムシ、ゴミムシ、ジャノメチョウなどの死骸を見つけて喜んでいた。1年間のボランティア活動で、すっかり身についてしまった習性である。明日から、この仲間たちが私の余生の支えのひとつとなる。
(2009年1月:写真;九州国立博物館へのエントランス・虹の回廊)