蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

遅れて来た君へ

2011年08月24日 | 季節の便り・虫篇

 「遅いじゃないか、今迄何してたんだい?もうすぐ8月も終わるというのに…」
 「わたしだっていろいろ都合があるのッ!お天気の具合もあるし、そうそうあなたの期待に応えてばかりはいられないんだから」
 「そりゃ分かるけど…異常気象が続くから、君達も大変だよね。でも、散々待たせといて、今年は君一人だけなの?」
 「なによ、この前は私達の仲間を、近所の人参畑に放り出したくせに!」
 「だって、あんなに大勢で来られると、プランターのパセリだけじゃ食わせてやれないよ。飢え死にさせたくなかったから、夜陰に乗じて、こっそり人参畑に運んであげたんじゃないか。だからみんな元気に羽ばたいていけただろう?」
 「ウン、そうだね。お陰でみんな生き延びて、わたしの母さんに命繋いだんだよね」
 「わかれば、それでいい。たくさん食べて、早く蛹におなり」
 「でもさァ、今年のプランターは八朔の木陰で、探すの大変だったんだよ。もっと分かり易い日向に置いといてよ!」
 「だって、この暑さだろ?日に焼けて枯れてしまったら君たちに悪いと思って、半日陰に置いたんだよ。」
 「分かった。急がなきゃ秋になっちゃうから、一生懸命食べるネ。だから、暫く邪魔しないで!」

 早すぎた梅雨明けの少雨を取り戻すように、連日のように秋雨前線が烈しく降りしきった。1週間振りに雨が上がった薄日差す午後、山ほど溜まった洗濯物をようやく干して気付いたら、パセリのプランターに一頭のキアゲハの幼虫がいた。既に終齢を迎えた鮮やかな斑紋を緑の身体に散らして、旺盛な食欲に浸りきっている。例年になく遅い訪れに、今年はもう来ないのかと諦めかけていた。カメラのクローズアップレンズを近づけると、その気配を感じたのか、ふと動きを止めて頭を傾げた。一瞬、目が合ったような気がした。「フンッ!」と言いたげに暫くこちらを見たあと、また黙々とパセリを貪り始めた。
 一頭だけの孵化というのも珍しいが、お陰で6株のパセリで餌に不足はない。緊急避難先を探して、ご近所の畑を走り回ることもないだろう。スミレを丸裸にして、いつの間にか全数姿を消してしまったツマグロヒョウモンの幼虫。少し間引きすればよかったのかもしれないが、無心に餌を食べて日ごとに育っていく姿を見ると、それも胸が痛む。どこか小さな悔いを残したこの夏だったが、この一頭のキアゲハは健やかに蛹に育て、鮮やかな羽化の日を迎えてやりたいと思う。

 19人の小学生と過ごす、10年目の「夏休み平成おもしろ塾」。初日、二日目は、平均年齢80歳近い7人の先生方が、お点前、お習字、生け花、囲碁、将棋、ハンガーモップ作りなどで楽しく学び遊ばせてくれた。塾長としての私の昆虫講座「虫たちの顔を観よう」も、子ども達は目を輝かせて聴いてくれた(自画自賛)。
 最終日は夏休み最後の日曜日。児童公園にブロックで三つの竈を組み立て、7個の飯盒で炊爨する。勘を取り戻すため、試しにおよそ50年ぶりにネットで取り寄せた飯盒でご飯を炊いてみた。まずまずの炊き上がりだった。シンプルで合理的な兵式飯盒は、かつてはキャンプに欠かせない道具だったが、今では新しい炊飯用具にとって替わられ、スポーツ用品店にも置いてない。
 山仲間のNさんが、前日の薪集めと竈作りから助っ人に来てくれる。薪はスポーツ用品店で購ったが、焚き付け用の小枝や枯葉を集めるのに近くの山にはいるから、この長雨での湿りが気にかかる。飯盒の使い方を教え、お米研ぎと水加減までは子ども達にしてもらうが、火を着けた後、熱中症に罹らないように子ども達は公民館に引き上げ、竈番はお父さん達に任せることにした。ごっちん飯やお粥、お焦げも出来るだろうが、それも又よし。公民館の台所で子ども達が作る夏野菜カレーをかけて、今年の「おもしろ塾」を締めくくる。

 「それにしても、旺盛な食欲だね!」
 「ショリショリ…………、ショリショリ…………!」
        (2011年8月:写真:キアゲハの幼虫、ただいまお食事中)

早朝のお散歩

2011年08月18日 | 季節の便り・虫篇

 暑熱の日差しを浴びながら庭の雑草を毟っている時、イロハカエデの枝でアブラゼミが異常に騒いだ。覗いてみると、カマキリが遅めのランチの最中だった。ひとしきり油照りの夏を歌い上げてたオスゼミなのだろう、既に羽は破れかかり、僅かな余命も尽きかかって動きが鈍くなっていたのかもしれない。鎌でガッチリ咥え込まれて烈しく鳴きながら羽ばたいているが、既に腹部をカマキリに貪られていた。カメラを近づけると、擡げた頭をクルリと回して、片方の鎌を振り上げながら斜めに睨み上げてくる。クローズアップすると、精一杯猛々しく獰猛な威嚇姿勢なのだが、何となく愛嬌もあって微笑んでしまう。

 生きて、子孫を残すための必死の捕食。残酷なようだが、そう擬人化して感じるのは人間の物差しでしかない。さまざまな食物連鎖の中で、今日も厳然とした自然の掟が庭の片隅にも君臨しているのだ。あの、悠然と歩くカマキリも、餌の前では驚くような機敏さを発揮する。まだ元気なセミでさえ、鳴きたてることに夢中になっているときに、後ろから忍び寄られたら逃げるすべはない。我が家の庭でも、毎年のようにカマキリに貪られるセミの姿を目にする。焼け付くような残暑の午後、日差しの苛烈さを忘れて暫くカマキリの食事に見入っていた。

 父母の位牌は既に広島の兄の仏壇に移しているのだが、何となく心のけじめとして迎え火を炊き、空き家となった仏壇にお花を供える。遠い遠い西方浄土から東の広島に向かう帰り道、空の道もきっと大渋滞だろう。こっそり途中下車させてひと休みしてもらうのもいいよね…そう理由付けして、毎年迎え火を焚き、送り火でお盆のけじめをつける。この日、珍しくオハグロトンボが舞った。

 暦の上の立秋を過ぎても、まだまだ残暑は厳しい。それでも、立秋の翌日ツクツクボウシの初鳴きを聴いたし、早朝の空に秋雲の気配を感じるようになった。お盆を過ぎると、宵闇に虫のすだきも始まっている。炎天に焦がされるセミの亡骸、狩人蜂が運ぶ途中で取り落としてしまったツユムシ、張り巡らした網の中で少しずつ大きくなるコガネグモ…移ろい往く季節に取り残されたように、今年のパセリのプランターにキアゲハの訪れがない。こんな夏はかつてなかった。そして、産卵の樹木を選ぶのか、我が家の庭で羽化するのは何故か全てクマゼミである。どこか見えないところで、不思議な自然の掟が働いているのだろうか?

 今朝、いつものように道路を掃いているとき、ブロック塀の上をちびっ子カマキリが(これも擬人化した表現だが)、気持よさそうにお散歩していた。誇らしげに頭を擡げ、体を反らせ、脚を踏ん張り、優雅に体を前後に揺らしながら歩いている。カメラのレンズを近づけると、一人前に鎌を振り上げて威嚇してくるのが何とも可愛い。やがて見事なジャンプを見せて、楓の葉陰に消えていった。

 こうして少しずつ夏は後ろ姿を見せ始め、風の中にかすかな秋の気配が忍び寄ってくる。 
            (2011年8月:写真:ちびっ子カマキリの威嚇)

草食系男子

2011年08月06日 | つれづれに

 テレビを観ながらニンマリ笑ってしまった。…カマキリの話である。

 大きな身体のメスにしがみ付いて交尾を続ける小振りな身体のオス。その頭をメスがバリバリと食べている。オスは食われながらも交尾をやめない。…このことは知っていた。健気なオスと美化していたけれども、何のことはない、動いているものはメスにとって所詮餌でしかないのだ。たまたまそこに動く餌があるから、産卵に向かう貴重な蛋白源として、メスはオスのカマキリと意識せずに食らう。カマキリは神経系統が特殊で、頭を食われても下半身の生殖本能に何の支障もないという(羨ましい!)。たまに気付かれないようにそっと逃げることが出来るオスは、10匹に2匹しかいない…哀しく非情で厳粛な自然界の掟である。

 最近の若い男女に似てるなと、無性に可笑しくなった。いやいや、カマキリのメスとオスの方が遥かに立派かもしれない。ファッションとメイクとダイエットばかりにうつつを抜かし、知性のかけらも感じさせないバッタの脚のような女の子にせっせと貢ぎ、言われるがままにアッシー君をつとめ、挙句イケメンじゃないからと捨てられ、野性も生殖能力も希薄になった若い草食系男子。これほど騒然としている世相にも無関心、ただだらしないとしか見えない薄汚い「ずり落ちファッション」で背中を丸めて歩く姿に、覇気も精気も知性も感じられない。…そんな若者が増えてきた。今ほど学生や若者に社会的存在感がない時代はない…と、連日の暑さに倦んだジジイが、年寄りの特権を振りかざして嘯いてみた。(呵呵!)

 「昆虫顔面図鑑」…今年手に入れた中で、イチオシの本である。カマキリが毅然として表紙を飾る。キアシナガバチの睨みは海老蔵を超える。クロオオアリの精悍、ヤマトヤブカの狷介、ノコギリクワガタの威厳、アオカナブンの剽軽、コナラシギゾウムシの愛嬌…110ページの一枚一枚に、ワクワクするような虫達の表情が並び、個性的で見飽きることがない。利権・金権・権盛欲で醜く歪んだ政治屋達の顔に比べ、なんと純粋で輝いていることだろう!
 人間一人に対して3億を超える昆虫達の個体数、地球上で最も数が多いのが昆虫である。アリやミツバチの社会性、短い命を懸命に生きるひたむきさ、環境に同化するしたたかな知恵、あるものだけに甘んじて驕ることのない謙虚さ…擬人化して見てしまう部分もあるが、教えられることは数知れないだろう。
 昆虫少年の成れの果てのジジイが、最近しきりに虫への気持ちの回帰がある。もしかしたら、私の前世は虫だったのだろうか?博物館で環境ボランティアしながら、「私だけは虫の味方」と、半ば本気で公言してきた。餌があるから虫は食う、博物館は美味しい食料倉庫、形あるものは滅びる、それを「害虫」と言うは人間の驕りでしかない、と。多分学芸員にから見れば、私はまさしく「獅子身中の虫」と顰蹙ものかもしれない。そう言いながら博物館の作業が好きだから、4年目のボランティア活動を、誰の為でもなく自分自身の楽しみとして黙々と続けている。ほかのボランティアは既に活動にはいったのに、研修が遅れている後輩の第3期環境ボランティアは、5ヶ月経ってもまだ現場作業に入れない。ぼやきや不満が出始めている中で、その間、生き残りの数人の第2期環境ボランテイアが、黙々と切れ目を作ることなくカバーしている。しかし、さすがに酷暑の中での月に8日の束縛が少し苦痛になってきた。メスを頭から食いちぎる肉食系男子の心意気で、いま少し頑張ってみよう。尤も、靴ブラシのような付け睫毛したバッタ脚の女の子より、戦後の貴重な蛋白源として食べたイナゴの方がはるかに美味しいのは分かっている。

 遠く西の海上を駆け抜ける台風の余波で時折熱風が奔る中を、狩人蜂がしきりに庭の草の葉の陰をブンブンと飛び回っている。スミレの葉を蚕食していたツマグロヒョウモンの幼虫は、今はもう一匹もいない。
 今日は広島原爆の日、アメリカに住む下の娘の誕生日である。
                (2011年8月:写真:「昆虫顔面図鑑」)

アブラゼミの死

2011年08月02日 | 季節の便り・虫篇

 34度の炎熱の下、苛烈に照りつける犬走りのコンクリートの上で、一匹のアブラゼミの雌が力尽きようとしていた。1週間を生きて、子孫を残す営みを無事に終えたのだろうか?ここ数日セミの羽化が途絶え、梢にしがみ付くセミ達も、交尾を終えて産卵の時期になったのだろうと思っていた。籠に集めた空蝉は50個あまり、昨年に比べるとかなり少ない数で終わっている。地面に空ろに開いたたくさんの穴、中身を失いながら毅然と梢にしがみ付く抜け殻…巣立っていったセミの雄達は豪快に夏を謳い上げ、伴侶を求めて炎天下を短く生きた。
 そして8月。蟻に引かれる死骸も目に付くようになった。中には羽化に失敗して、伸びそこなった片方の羽を引き摺りながら地面を歩く姿もあった。軒端から飛び掛ったカラスに咥えられ、姦しく鳴きながら運び去られたクマゼミもいた。いつかの夏は、カマキリにがっちり捕まえられて鳴きながら食われているヒグラシも見た。夏毎に繰り返されえる大自然の営みをあるがままに受け止め見守るのも、時につらいことがある。

 義父の17回忌、義母の13回忌の法要を執り行った。日々迎え送る時の流れは速く、振り返ればもうそれほどの歳月が過去のものとなっていた。「歳月、人を待たず」という。外国にもTime and tide, wait for no man という同義の言葉がある。とどめることが出来ないからこそ、過ぎていく一瞬一瞬が珠玉となるのだろう。残り少ない余生をひとつひとつ大事に折りたたみながら、今日も過ぎ行く時の刻みに耳を澄ましている。

 今年産み付けられたセミの卵はやがて幼虫となって地に潜り、7年以上の歳月を経て再び羽化の時を迎える。それまで健やかに生き延びてそのときを迎える自信はないが、その当たり前の命の営みに、ふと感懐がよぎる。地球温暖化、異常気象、資源枯渇、環境破壊、放射能汚染…人間の近未来に容赦なく突きつけられているたくさんの課題の中で、人はどう生き、次世代のセミ達の声を聴くのだろう?
 10年目を迎えた「夏休み平成おもしろ塾」初日、開講式でいつものように「塾長先生の昆虫講座」を進めながら、元気な子ども達の未来の安寧を祈った。記念に全員に配ったタマムシとルリボシカミキリの写真。しかし、こんな綺麗な生き物をとてつもない勢いで絶滅に追い込んでいるホモ・サピエンス。大自然からのしっぺ返しは、既にいろいろなところで始まっている。子供達の屈託ない笑顔を見ながら、暗澹たる思いも拭い去ることが出来なかった。

 プランターいっぱいに植えていたスミレを、ツマグロヒョウモンの幼虫達がたちまち蚕食して坊主にした。餌が足りずに炎天の地面に這い出していくのを一匹ずつ捕まえては、庭に点在するスミレの株に運んだ。こんな馬鹿なことをする人間がいてもいいだろう。あとは虫達の運と生命力である。餓えて熱に干からびるものもいるだろう。蟻に引かれるものもいるだろう。そして、しきりに地面に穴を穿っている狩人蜂にさらわれるものもいるかもしれない。しかし、生き延びてどこかの枝で蛹になるものもいることを信じよう。
 もうひとつのプランターにしっかりと繁っているパセリに、いつものキアゲハの訪れはまだない。例年になく遅れた産卵に気を揉みながら、今年の異常に思いを馳せる。珍しい虫達の訪問が増えたり、セミの羽化が少なくなったりするのが、自然界のたまたまの波の振幅であればいいのだが。
 福島でまた地震のテロップが流れた。震災はまだ終わっていない。
               (2011年8月:写真:力尽きたアブラゼミ)