蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

春を探しに

2008年02月29日 | つれづれに

 いかつい顔の山伏と穏やかな表情の役行者を左右に侍らせて、石の祠の奥に牛に跨った飯綱権現が山を見守っていた。木立ちに囲まれた薄暗い山頂は訪れる人も少なく、早春の冷たい風が揺する葉擦れの囁きだけの静寂だった。
 快晴の温かい陽射しに誘われて、午後のささやかな山歩きに出た。2度目の対決で剣聖・宮本武蔵を破ったと伝えられる、神道夢想流杖術の流祖・夢想権之助修業の場・竈門神社の駐車場に車を置いて、ザックを担ぎストックを延ばす。霊峰・宝満山(830m)のふもと、玉依姫命、応神天皇、神功皇后を祭神とする竈門神社は、太宰府天満宮から徒歩15分の、縁結びの神様である。実は、太宰府天満宮は縁切りの神、心字池の太鼓橋を渡ると縁が切れるとか……学問の神様だから、男女の仲は学問の妨げというのか、独り都から流されて寂しい日々をかこつ道真公が嫉妬するというのか……いずれも、ありそうな話である。元々、天神様は祟り神であり、龍神と化して天拝山から都に飛び、数々の悪疫をもたらしたから、鎮める為に神として祀ったとか……地元民として物議をかもしかねないことを書いてしまったが、そこはよくしたもので、天満宮の一隅に竈門神社の縁結びのお札を置いて、縁切り縁結びどちらもお任せなさいという仕組みになっている。

 竈門神社の右脇から山道に入る。左に抜ければ霊峰・宝満山への登山道、いつも銀座状態の人気ある山である。表道はひたすら岩の階段の九十九折で、ハードな登山道が続く。1度目は「よく来た」、2度目は「また来たか」、3度目は「また来たのか、馬鹿」と言われるほどキツイ山だが、熱狂的ファンも多く、毎日欠かさず登る人や、3千回、5千回という豪の者もいるという。私はこの石段に倦んで、専ら左に迂回して古城・有智山城址から、うさぎ道を抜ける木立と土の道を経由して、仏頂山(869m)への尾根道に続くコースを行く。銀座状態の日曜日でも、このコースは殆ど人に会うことがない。道程は長いが、その静けさがいい。
 今日は散策の延長のようなお手軽山歩きである。木立ちの中を緩やかな小径が続く。景観を楽しむ山ではない。散策より少し汗を流したい時に、木漏れ日の中を身構えずに歩き始める。早春の山道には、梢の先のかすかな芽生えだけが春の気配だが、踵をそっと押し返す散り敷いた落ち葉と優しい腐葉土の感触が嬉しい。高圧線の鉄塔を過ぎる辺りから、ようやく山らしい雰囲気となる。登山者も少なく、ところどころ道を塞ぐ倒木を跨ぎ、崩れかけた危うい斜面を越えたりしながら、ゆっくりと登り詰めていく。マムシグサの群落も、シャガの群生地も、今は冬枯れの下草だけに覆われている。うっすらと苔に覆われた杉木立を抜け、幾つかの急坂を過ぎると、やがて山頂。20段の顎を打つほど傾斜のキツイ石段を上がると、そこに、愛嶽山(おだけさん・432メートル)山頂の祠が静寂に沈んでいた。
 ゆっくり歩いても、1時間足らずの小山である。木立の間から、すぐ目の前に更に400mを残す宝満山が見え隠れする。飯綱(いづな)権現は牛や馬などの家畜を守り、五穀豊穣をもたらす農業の神様だが、今は詣でる人も少ないのか、鉄の鳥居も錆び付き、石段の脇のお篭り堂も朽ち果てている。しかし、祠の後ろに小さな竹箒が置いてあるから、全く見捨てられているわけではないのだろう。
 石垣にもたれてザックをおろし、ペットボトルの水を飲みながら、汗に濡れた肌に風を入れる。キリキリと痛いほどの冷たさで、額を撫でて過ぎる風が何とも心地よい。時折、キョッキヨッ、チッチッ、ジージーと幾つかの鳥の声が聞こえてくる。
 沢鳴りのような風の音の中に、静かに春が芽生えようとしていた。
           (2008年2月:写真:飯綱権現山伏坐像)


忍び寄る影

2008年02月27日 | 全体

 晩秋の玄界灘は、激しい波濤が渦巻いていた。歴戦の生き残りの駆逐艦「雪風」の主砲塔の下に転がって、突き上げる船酔いに苦しみながら、青い空に流れる雲を、半ば朦朧とした意識の中で呆然と眺めていた。
 社宅の隣家の庭先で親達の後ろに立ちながら、聞き取りにくいラジオの放送を聴いた。天皇の終戦の詔勅だった。6歳の子供心には、戦のことも敗戦の恐怖も何も解らず、頭頂に照りつける日差しの暑さだけが記憶にある。召集されていた父は、済州島(チェジュド)で終戦を迎えた。
 商事会社に勤める父の転勤で、兄が外地(植民地)の釜山(プサン)、私が京城(ソウル)、妹が平壌(ピョンヤン)で生まれ、その後大阪・豊中を経由して再び京城に赴任中に、召集・終戦を迎えた。国民学校1年生に入学して1学期を終えた夏休みの終戦だった。(歴史を学ばない最近の若者にこの話をすると「え、あちらの人だったんですか」と一歩退く。「とんでもない!父は神奈川の金時山近くの蜜柑山農家の生まれだし、母は生粋の博多っ子で、純血の日本人だよ」と言葉を添えなければならない。)
 南向きの斜面に立ち並ぶ社宅の横に、テニスコートがあった。戦に疲弊して手入れする人もなく草茫々のコートは、子供達の格好の遊び場だった。バッタを戦闘機に見立てて戦争ごっこをしたり、アシナガバチの巣を叩き落したり、腕白たちの秘密基地でもあった。
 街を取り巻く峰々には高射砲陣地が並び、戦時中も高空を偵察機がたまに飛ぶだけで、まるで戦とは無縁の平和な環境だった。しかし終戦と同時に、ロッキードやグラマンの編隊が低空で飛び回り、それまで内向して一見穏やかだった人種間の軋轢が一気に噴出し、街中から日の丸が消えて韓国旗が翻り、外出禁止となった。日用品は会社がトラックで届けてくる。やがて父も復員、慌しく引揚げを待つことになる。散弾銃の弾丸を自製し、狩猟道楽出来るほどに豊かだった。「雉のすき焼きや、山鳩のすり身の離乳食を食べさせた」と母はよく言っていたが、記憶にはない。引揚げに持ち帰ることが出来るのは、身体で持てるだけの荷物と、現金は一人千円だけ。貴金属類は没収されるという話だった。
 それまで築いた全ての財産を残し、会社が差し向けたトラックで京城駅に運ばれ、有蓋貨車に詰め込まれて釜山に向かった。途中何度も山の中で列車が停まる。その度になけなしの現金を集めて機関士に届けながら、ようやく釜山駅に着いた時には、現金は殆ど残っていなかったという。駅から港に向かう道の両側は、捨てられた荷物が山をなしていた。両手一杯荷物を持った親達は、子供を声で誘導しながら引揚げ船までの道を歩いた。気力で持ってきた重たい荷物が、引き上げ船を見た途端に力が抜けて持てなくなったのだという。(多くの情景は母から聞かされたものだが、子供心には定かではなく、母の記憶も長い歳月で少しずつ事実とは変容しているかもしれない。)
 残留浮遊機雷のため、行き先は不明と言われて離岸した。翌朝、遠くに箱崎八幡の大鳥居が見えたとき、安堵のあまり涙が出たと母は言う。
 牛車で箱崎八幡横の母に実家に辿りついた。三世代、3家族14人がせまい長屋で暮らす、戦後の耐乏生活の始まりである。飽食の今の人たちには想像もつかない、油臭い塩鯨、野草を入れた汁、芋づるの水団、筋だらけの痩せたサツマイモの弁当、長屋の脇にあった椋の巨木の実の甘み……豊かさへの飽くなき希求の原点がここにある。これが軍の傲慢な暴走に翻弄された日本の敗戦の現実である。

 相次ぐ自衛隊の不祥事、その報道の中に見え隠れする軍の傲慢、旧日本軍の暴虐な記憶は、今の為政者達にとってどれほどの重みを持っているのだろう。船酔いの原体験が今も残る引揚げ船を思い出しながら、恐ろしい「亡びの笛」を聴く昨今である。満開の梅の季節、この穏やかな日々にも、地球温暖化の急加速、血税を費やして膨張し続ける軍事力、民の痛みを忘れてひたすら利権に走る政治屋などの、暗く重い影が容赦なくのしかかってくる。

 夜来の雨が晴れて、陽射しが戻った。
                (2008年2月:写真:満開の紅梅)

訃…引き継がれるもの

2008年02月14日 | 全体

 いつもの山道を歩く。心を空にして黙々と歩く。冬枯れの木立の陰に、種子を飛ばしたあとのウバユリの実が幾本も立ち竦んでいた。梢の先で木枯らしが泣くこの季節、夕暮れ間近の淡い冬日は温もりを失い、足元からしんとした冷気が這い登ってくる。

 ひたひたと寒気団が寄せてくるそんな夜、訃報が届いた。区長を務めた6年間、民生児童委員として地域の福祉をサポートしてくれたMさんが、74歳の若さで彼岸に旅立った。9年続けた民生児童委員の終盤は、病に臥すご主人の看護・看病に献身する傍ら、お年寄りと子供達への心配りに尽くす日々だった。公務を全うし、やっとこれから自分の時間とご主人の看護に専念出来るようになったというのに、いつの間にか病魔が容赦なく身体を蚕食し、病に臥すご主人に思いを残しながら、退任して僅か2ヶ月余りで慌しく逝ってしまった。25年前、一朝の病で呆気なく亡くなった父がやはり74歳だった。四分の一世紀前でさえ早過ぎる永眠だったが、世界一の長寿を誇るこの時代の74歳は余りにも早い。
 木枯らしの中の通夜に、町内のたくさんのお年寄りが、半ば呆然として斎場に集った。その中に、お母さんと連れ立った5人の子供達の姿があった。「夏休み平成おもしろ塾」の卒業生と塾生だった。

 区長2年目、「ゆとり教育」という不可解な政策で子供達が土曜全休となったとき、子供達の思い出作りに、何か学校教育で学べないものを地域で提供出来ないかと、家内とふたりで考えた。辿りついた切り口が、「経験豊かな町内のお年寄りの智恵を借りよう」というものだった。呼びかけにふたつ返事で協力が寄せられた。夏休みの3日間、小学生が9時に公民館に集まる。夏休みの宿題自習30分の後、お茶の先生方によって屏風やお茶花で茶室に仕立てられた和室に移って、お茶のお点前の体験が1時間。それぞれお運びとお客様に分かれて、簡単な作法を学ぶ。腕白たちが殊勝に畏まりながら正座して、懐紙に載ったお茶菓子を食べたあと、子供の口には多分苦いだけのお抹茶を味わっている姿は微笑ましく、見守るお母さん達の笑顔も優しかった。そのあと、女の子は大正琴を習い、男の子は将棋や五目並べを楽しむ。昨年は、割り箸鉄砲を作る遊びもあった。最後は公民館の大広間に新聞紙を敷いて、存分に大きな文字のお習字を習う。最終日には、持ち寄った道端の草花を花瓶や空き瓶に気ままに生ける体験もあるし、先生方に世話人やお母さん達も交えてのお食事会でお開きとなる。
 塾長の私が、毎年昆虫についての特別授業をやるのも恒例になった。塾の最中に、公民館の前の畑で脱皮したばかりのカマキリを見付け、みんなで観察するという巧まざる偶然の野外授業もあった。そして、ここで習った大正琴を、秋の敬老会で子供達が十数台のお琴を並べて披露するのが恒例になって、6年を重ねた。貸していただいたお年寄りの智恵への、ささやかな恩返しである。その大正琴を教えてくれた先生の一人が、25年のキャリアを持つMさんだった。
 通夜の席に涙ぐみながら参列した子供達は、みんなこの「夏休み平成おもしろ塾」の塾生達だった。こうして、Mさんの智恵は、子供達の思い出の中に継承されていった。

 翌日、小雪舞う厳しい寒さの中を、多くの人たちの合掌に見守られながら、Mさんは西方浄土に旅立っていった。夜半、木枯らしが雲を払った。西に傾く細い三日月を浮かべながら、美しい星空が広がった。中天やや南にオリオン座のベテルギウスと、その下に一段と光り輝く大犬座のシリウス、左斜め上に子犬座のプロキオン……凍て付く夜気の中に、見事な冬空の大三角が君臨していた。
 ……名のみの春は、まだまだ遠い。
         (2008年2月:写真:種子を飛ばしたウバユリの実)