激しい雨脚が二日続いた。降り始めからの太宰府市の雨量、382.5ミリ!深さ40センチのバケツの水を、太宰府市全域にぶちまける、この自然の脅威は何だろう!
8月晦日前日、猛々しい雷鳴に家鳴り震動した。慄く犬が吠える。テレビの音が聞こえないほどの豪雨が続いた。幸い、ここ蟋蟀庵に出水の不安はない。水害の不安に駆られ、轟く雷鳴に耳を塞ぐ人たちには誠に申し訳ないが、雷大好き人間のとっては、血沸き肉躍る夕べだった。
夕飯を摂りながら、部屋中のカーテンを開け、石穴神社の杜の右肩の闇に落ちる稲妻を愛で、びりびりとガラス戸を揺する轟音に、苦しめられたこの夏への鬱憤を晴らした。「2階の方がよく見えるかも」と、家内が箸を置いて階段を駆け上がる。おかしな夫婦である。
若い頃から雷に惚れ込み、沖縄でも、この太宰府でも、雷雲が近付くと追っかけを楽しんだ。まだアナログカメラの時代に、ここぞと思う方向にカメラを構えて、シャッター開放で落雷の瞬間を待ち続ける。その一瞬にシャッターを落とし、見事に稲妻を捕えたときの快感!その貴重な写真が、今も手元にある。ネガの行方は、もうわからないほどの昔である。プリントを引っ張り出して、改めて接写してみた。
一瞬の目には1本の光の刃にしか見えないものが、これほど複雑な模様を空に描き出しているとは驚きだった。天を駆ける龍に擬えた古人の感性は素晴らしいと思う。以来、いつもバッグの中に持ち歩く一枚になった。
近くに落ちて、稲妻と雷鳴が殆ど同時に届く瞬間の緊迫した昂揚がいい。光って轟音が届くまでの秒数を計り、距離を読むのも楽しい。又、鉄球を引き摺り転がすような遠雷の風情もいい。忘れ雪の頃の突然の春雷、梅雨の終わりの激しい雨に轟く雷、夕立を伴う束の間の夏の雷は、時折美しい虹を空に架ける先触れだった。
時には怖い思いもした。夏山で出会った雷は、首をすくめて岩陰に逃げ込んで通り過ぎるのを待った。海水浴の沖で襲われて、海面に出た突起物の頭に落ちないことを祈りながら、ひたすら岸に向かって泳いだこともあった。
広島に赴任中の会社勤め最後の6年間、月に一度留守宅に帰って風を通し、庭の草取りに励んだ。ある時帰ってみたら、仏間のコンセントの蓋が吹き飛び、壁が黒く焦げていたことがあった。アンテナに雷が落ちたのだろう、テレビ、ビデオ、アンテナなどすべてのAV機器がやられて、家財保険の世話になる羽目になった。幸い、買った時の定価で補償する保険に入っていたから、年々低価格化が進んでいた家電製品に時価の倍以上の補償が得られて、ワンランク上のAV機器に買い替えることが出来た。まさに焼け太りである。
写真で見る落雷の主流でなく、脇の1本が落ちたのだろう。主流だったら、おそらく家一軒を焼く羽目になったかもしれない。
束の間雲が切れて、豪雨が一瞬やむことがある。それを待っていたように、虫の声が庭に満ちる。その逞しい生命力に感じ入るのも、この夜の醍醐味だった。
前夜、何故か浅かった眠りに瞼が重くなり、9時過ぎに早々とベッドに入った。私には、夜を轟かせる雷鳴も心地よい子守唄である。夜半まで豪雨が続き、雷鳴も断続したらしいが、今朝6時まで、爆睡する私の眠りを妨げることはなかった。
8月が逝く。暑く重い夏の疲れが身体に澱む。初めて「憎い!」と思った今年の夏だった。
小学生を集めて12年塾長を続けた「夏休み平成おもしろ塾」も、今年で閉じた。編集を続けて13年目を迎えた町内月刊広報紙「湯の谷西便り」153号に記事を掲載し、「想い出いっぱいの12年間の歴史を閉じました。長い間ご協力をいただいた皆様、本当にありがとうございました」と書きながら、感無量だった。
……夏が終わる。
(2013年8月晦日:写真:落雷)
<追記>
8月29日に降り始めた雨は、秋雨前線に台風17号の追い打ちを加えて降り続き、9月4日までやむことはなかった。ようやく青空が戻った9月4日までに、太宰府の雨量は526ミリに達し、この時期の平年の3か月分に及んだ。
ゲリラ豪雨は全国に拡大、関東の相次ぐ竜巻まで加わって、歴史に残る異常気象が続いている。
福島原発の汚染水の水漏れは解決のめどさえ立たず、ようやく政府あげて対策に乗り出したが、遅きに失した感は否めない。最終処分の道筋すらつかない中で、行政も電力会社も懲りることなく、原発再稼働を進めようとしている。唯一の被爆国でありながら、この愚かさは何だろう。世界に、そして人類に対する責任を、日本は果たし得るのだろうか。
その事態に他人事のように目を背けて、東京オリンピックを誘致しようとする厚顔無恥を、異常気象が容赦なく叩きのめしていく。
……亡びの笛が聞こえる。