圧巻の誕生劇だった。1本の八朔の下枝や葉先で、11匹のクマゼミが一斉に集団羽化。羽化のあらゆるステージを、同時進行で見せてくれた。
いつもは、1匹に狙いを定めて、三脚代わりの両足の位置を決めて、2時間余りカメラを向け続ける。何故か、あれほど汗の匂いに敏感にすり寄ってくる藪蚊が、その間は鳴りを潜めるのが不思議だった。
1匹が誕生位置を定めてしっかり6本の足で足場を固め、やがて背中が割れて、ゆっくりと頭からせり出してくる。大きく仰け反りながら尻尾だけを殻の中に残して、しばらく静止する。螺旋状に畳まれていた緑色の翅が少し巻き戻されたころ、ゆっくりと頭を持ち上げて前足で殻を探る。前足でしっかり殻を掴むと、一気に尻尾を殻から抜き出す……曲芸のようなハラハラする動きに、息を止めて見詰めてしまう。シャッターを落とすことさえ忘れがちだった。
ここで足場が固まっていないと、地面に落ち、羽が伸びないままに、やがて蟻に引かれる過酷な運命が待っている。セミの羽化で、最もリスクが高い一瞬である。生と死の岐れ路が、この一瞬にある。
此処から一気に加速する。みるみる螺旋状の翅がほどかれて伸びていく。そして、半透明な初々しい緑の翅を持った蝉の姿が完成する。此処まで、およそ2時間の誕生劇である。
集団羽化が見せてくれたさまざまなステージをカメラにおさめ、この夜の観察は10分で終えた。
遠くの杜で、アオバズクがホウホウと鳴いた。
今朝、朝日が昇る頃、すっかり翅脈に体液が行き届き、褐色に色づいて固くなった翅で、11匹が1匹も欠けることなく、元気に青空に飛び立っていった。クマゼミ……その殆どが声なく飛び去る。昨夜はメスが多い誕生だった。
昼間、八朔の下を潜ると、何匹ものメスが慌てて飛んでいく。初鳴きから4日、早くも伴侶に巡り合って交尾を済ませ、産卵に訪れているのだろう。短い命である。『ワ~シワシワシワシ…♪』とひたむきに鳴くオスは、油照りの暑熱を一層掻き立てる。
この卵が産まれ、地に墜ちて6~7年の幼虫期を地中で過ごし、再び地上に誕生する姿を、多分もう私は見ることが出来ないだろう。
子孫を残すことだけに短い命を燃やす。生殖本能だけに生きる小さな命……だからこそ愛しい。発情期という自然のリズムを失って、年中発情している人間。生殖以外の目的で性の快楽に身を委ねる動物は、間違いなく人間だけだろう。それが人口を爆発させ、文明を推し進める原動力にはなっているのだが、純粋さという意味では、明らかにほか生き物に劣る。だから、小さな命の営みを尊いと慈しむ心だけは、人間として喪いたくないと思う。
暫く遊びに出ていたハンミョウが庭に帰ってきた。どこかで翅を傷めたのだろうか、飛ぶことが出来ず、すばしこく走り回るだけで庭の縄張りを守っている。身の回りの小さな自然の中で、気付かないままに日夜繰り返されている生と死の岐れ……。
洗濯物を干した。まだ8時過ぎというのに、頭頂を斧のような日差しが叩きつけた。アブラゼミとクマゼミが、競うように熱い大気を振るわせ続けて、36度と報じられた三連休が始まった。
(2018年7月:写真:クマゼミの羽化・生と死の岐れ路の瞬間)