蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

蝉の異変

2008年07月20日 | 季節の便り・虫篇

 油照りの夏を演出するクマゼミを、ひたすら待ち続けた。夏真っ盛りの沖縄から真っ黒に日焼けして帰って数日、例年になく早い梅雨明けを迎えた。34度、35度がもうニュースにならないほど、いきなりの夏本番だった。1週間ほど過ぎたとき、異変に気がついた。梅雨明けと共に湧き上がるように大気を満たす蝉の大合唱がないのだ。この日差しに静寂は似つかわしくない。なんとも落ち着かないままに耳を澄まし続けた。そういえば、昨年聴いたハルゼミの声を、今年は一度も聴かなかった。

 新聞の投書欄にも「蝉が鳴かない」という指摘があった。7月13日未明、薄明の中にようやく近くの石穴神社の杜で鳴くヒグラシの声を聴いた。今年の初鳴きだった。5時過ぎに起きて新聞を取りに出たとき、勝手口の塀にとまるヒグラシの雄を見つけた。傍らに、抜け殻がある。今朝羽化したばかりの夏の使者だった。
 おかしいな、遅いな?と、ふと思う。6月のハルゼミのあと、7月にはいってニイニイゼミ、アブラゼミ、クマゼミ、ミンミンゼミ、ヒグラシ、そして秋の訪れを告げるツクツクボウシ……記憶の中にそんな曖昧な序列がある。数日後、ニイニイゼミとアブラゼミが加わった。よしよし……だが待て待て、クマゼミはまだか?

 この3日の間に我が家の庭で、羽化し切れずに死んでいる蝉の幼虫が立て続けに4匹も見つかった。いったい何が起きてるのだろう?

 7月19日の西日本新聞夕刊に「天神セミ異変」(聞こえぬ「夏の風物詩」)という記事が出た。「街路樹にクマゼミが好む常緑高木のクロガネモチが並ぶ福岡市・天神地区は、都心にあるクマゼミの繁殖地として知られる。」この夏、その鳴き声がまだ殆ど聞こえないという。「例年よりも、初鳴きが10日から2週間遅れている」という九大農学研究院の紙谷准教授の分析談話もある。6月の気温に左右されるというクマゼミの羽化、今年は平均気温が1度低かった。箱崎の定点観測でも、初鳴きは7月9日であり、過去5年で最も遅かったという。クマゼミの個体数もこの10年で5分の1に減ったが、その原因は6割近く減ったクロガネモチを中心とする街路樹の数らしいともいう。
 なるほどと思いながら、どこか納得していない自分がいる。

 その夜、小学校の同窓会総会で、昆虫に造詣深い後輩に尋ねてみた。「我が家の辺りでは鳴いてますよ。確かに、数は少ないみたいだけど……」という答えが返ってきた。翌朝6時過ぎ、うつつの目覚めの耳に、ようやくクマゼミの鳴き声が飛び込んできた。7月20日、初鳴きである。すぐに我が家の庭でも、1匹が誇らしげに声を上げた。しかし、やがて鳴き止んで既に3時間、耳を澄ませても「ワシワシワシワシ!」と鳴くクマゼミの声は聞こえてこない。子供の頃から、その鳴き声に因んだ「わしわし」という愛称で馴染んだ蝉である。油照りの夏を演出する姦しく豪快な大合唱には、まだまだ時間がかかるのだろうか?

 新聞記事の解説だけでは納得できない思いが、しきりに心をよぎる。移植された樹木と共に移動した卵が原因で関東地区のクマゼミの個体数が激増し、光通信のケーブルに産卵管を差し入れて通信障害を起こす被害が増えているという報道は昨年だっただろうか?これも人為的生態系の異変である。クマゼミの幼虫は、地下で7年間木の根の導管液を吸って育つ。7年前の親の時代から、何か異変の原因があったのだろうか?毎朝羽化出来ずに死に続ける幼虫に、いったい何が起きているのだろうか?

 消えやらぬ疑問を頭の中で転がしながら、今もじっと耳を澄ませて、遠くのセミの声を探り続けている。
        (2008年7月:写真:羽化したばかりのヒグラシの雄)

燃え尽きた夏…(終章)

2008年07月16日 | 季節の便り・旅篇

 年齢に応じて、私のダイビングは1日1本と決めていた。娘達は2日目2本、3日目3本と数をこなし、ベテラン向きの……その分ダイビングの条件が厳しいだけに、珊瑚豊かな海を記憶に焼き付けていく。連れて来てよかった……それが親としての満足だった。
 「今日は、海底洞窟に潜ります。地形を楽しむダイビングです。」というブリーフィングに心が弾む。阿真の港を出て座間味島を西から回りこみ、北西の断崖の下に向かってボートを走らせる。ややうねる外洋の波間から飛び立つトビウオの背が、美しく緑に輝いていた。
 水深4メートルから12メートルの、比較的浅いスポットである。崩れ落ちた岩盤が作る複雑な岩場の間隙を縫って洞窟の中に沈み込んでいくと、岩肌全面を色とりどりの小さな珊瑚がびっしりと覆っていた。その中を幾種類もの魚の群れが泳ぎ抜けていく。名付けて「マーメイド・ルーム」。洞窟の中にぽっかりと頭を浮かべると、岸壁の隙間から外洋が見える……初めての洞窟ダイブだった。毎回趣を変えてスポットを用意してくれる一明さんのガイドが優しい。
 日を追って楽しさを増す私の座間味島初ダイブは、目に焼き付く美しい珊瑚の洞窟で幕を閉じた。

 夕刻、6本目のダイブに満ち足りた娘達も伴って、友人の奥さんが島の西の「神の浜展望台」に夕日を見に連れて行ってくれた。車の中に、いつも通り冷えたビールとサンピン茶のボトルが用意してある。遠くに霞む久米島の影を見ながら、沈みゆく夕日を送る……それは限りなく贅沢な夕べだった。冬場には、この目の下を鯨が泳いでいくという。座間味はホエール・ウォッチングのメッカでもあるのだ。夕映えに、雲の影が美しい。夕焼けは少し雲があるほうがいい。南国特有の、今生まれつつあるような不思議な雲の造形がある。
 沈み切った太陽の残照に染まりながら宿に帰ると、その夜は豪華なバーベキュー・ディナーが待っていた。新鮮なカツオの刺身に舌鼓を打ち、焼肉を頬張り、焼きそばをすすり込みながら泡盛・久米泉に酔い、座間味最後の夜が更けていった。
 しかし、まだまだ座間味の饗宴は終わっていなかった。その夜も「ゆんたく」が待っていた。

 「ゆんたく」のあと、酔いを醒ましながら阿真ビーチに出た。明かりの少ない島の夜は闇が深い。その闇を覆うように、満天の星空が広がっていた。水平線までドーム状に広がる豪華な天蓋である。天の川が手に取るように輝く。厚みを感じる星の煌きに、さそり座や北斗七星の柄杓さえ目立たないほどに透明な夜空だった。
 都会でこの星空を見ることは、もう決してないだろう。太宰府でさえ、比較的空気が澄む冬場のオリオンや大三角はまだ仰ぐことが出来るけれども、昨年の夏はとうとう一度もさそり座を見ることなく終わった。
 夜道を宿に帰りながら、これで我が家の夏は終わったという感慨があった。寂しいけれども、明後日、娘達は那覇空港からマサ君の郷里・名古屋に向かい、6日後には又アメリカに帰っていく。ジジババ2人の日常が還って来る。存分に燃え尽きて、この夏にもう未練はない。

 帰り着いた太宰府に、突然の梅雨明けの猛暑が待っていた。海風に吹かれる33度の沖縄の夏が恋しくなるほどしたたかに汗にまみれて、「ゆんたく三昧」で増えた体重は、僅か3日で汗になって消えていった。しかし、瞼に焼きついた美しい珊瑚礁の海は、決して消えることはない。
            (2008年7月:写真:座間味夕景)

燃え尽きた夏…(その4)

2008年07月16日 | 季節の便り・旅篇

 島の友人から「ゆんたく」のお誘いが来た。

 親しい者同士が集い、泡盛呑みながら談笑する沖縄特有のふれあいの場である。フロントで懐中電灯を借りて、ハイビスカスやブーゲンビリアの咲く小道を5分ほど歩くと、そこが彼の「ゆんたくテーブル」。庭先のテーブルに、近所の漁師や友人が集まって、もうしっかり出来上がっている。隣りに住むダイビング・ショップのオーナーが、片手間に吊り上げてきたという160キロのカジキマグロ、地蛸、友人が採ってきたティジャラという巻貝の刺身(これが甘みがあって絶品!)が並ぶ。この「ゆんたく」が殆ど毎晩……台風が近付いていても、玄関のドアが風で開けられなくなるまで続くというから楽しい。座間味島での夜の定番である。

 翌朝2本目のダイブは、15分ほど沖に出た阿嘉島寄りの小島の陰のギナというポイントだった。空と海は一段と真夏の輝きを増し、波穏やかな絶好のダイビング日和となった。
 アンカーを降ろしたボートの中で、一明さんのブリーフィングが始まる。「少し流れがあるから、しっかりついてきて下さい。帰りは流れに乗るから楽です。もしかしたら……本当にもしかしたらだけど、海亀に会えるかも……」という。(実は、海亀がいることを予め他のボートから情報を貰っていたという、小さなサプライズの演出だった)

 嬉しかった。ここは美しい珊瑚の海だった。前日の不満を耳にしていた一明さん、「海に出て、流れと潮と風を読んで、その日のダイビング・スポットを決めます」と言いながら、ちゃんと考えてくれていたようだ。エントリーして、一気に深度を稼いでいく。透明度を一段と増した10メートルから14メートルの海底に、山脈状の根が何本も横に伸びていた。その陰に身体を沈めながら、流れに逆らってフィンに力をこめる。色とりどりの魚が群れる。向こうの根では、海蛇が立ち泳ぎしながら巣から出入している。海面の煌きに、時折雲の影が落ちる。
 やがて、行く手を遮るように立ちはだかる根が見えてきた。一明さんのシグナルに応じてゆっくり下から近づいていったそのとき、根の向こうから1匹の海亀がゆらりと泳ぎだしてきた!
 昨日訪れた古座間味ビーチでも、初めて海亀が100個近い卵を産んだという。ここは豊かな海亀の憩いの海。根の頂に頭を覗かせた瞬間、目の前の岩陰にもう1匹の大きな海亀が目を閉じて潜んでいた。「海亀の餌場であり、眠る場所だから、2メートル以内に近付かないように」と言われていたけれども、目前50センチに人間を恐れる気配もなく、悠然と目を閉じていた。泰然自若、何かホッと心安らいで、時折瞼を開く海亀と見詰め合っていた。

 根の周りをゆっくりと回遊しながら、岩礁に咲く珊瑚や藻類、魚達のウォッチングを楽しんだ。珊瑚の奥に小さな蛸も潜んでいた。潮の流れがあるから守られている自然なのかもしれない。座間味の海はまだ大丈夫かもしれない……そんな安堵感で流れに乗って戻った。敦君が指差す海面近くを、一匹のエイがゆっくりと泳ぎ抜けていった。ようやく味わった座間味らしい海底散歩だった。
 乾燥した圧縮空気を呼吸し続けると、やたらに喉が渇く。ボートに戻ると、淳君が冷たいお茶と飴玉を差し出してくれる。甘露だった。上半身脱いだウエット・スーツで、日差しを浴びる。全ての屈託を忘れて、真夏の日差しの中で至福の時が過ぎていく。
 新潟から座間味に遊びに来て、美しい海と温かい人情の虜になり、ダイビング・ショップを手伝うようになって4ヶ月の淳君。ここにも真っ黒になった即席海人(ウミンチュ)がいた。
         (2008年7月:写真:海、限りなく碧く)

燃え尽きた夏…(その3)

2008年07月16日 | 季節の便り・旅篇

 見上げる海面の光の戯れからマスクを転じ、眼下の海底を見た瞬間、思わず絶句した。「何、これ!」海底を覆う一面の珊瑚のかけら、死屍累々の惨状に目を疑った。世界に誇る座間味の美しい珊瑚礁がこれである筈がない。4年前に体験ダイビングを経験し、ライセンス取得への憧れが一気に高まったあの時のスポットが、確かここだったと思う。こんな筈ではなかった。
 この4年間に2度、地球温暖化による海水温の上昇で珊瑚の白化現象が起こった。水温1度の変化にも敏感に反応するデリケートな珊瑚である。白化現象が世界的規模で珊瑚礁を破壊し続けていると知ってはいたが、現実を目の当たりにして言葉を失った。。オニヒトデの異常発生も度々あった。それ以前に、本土復帰記念の1975年(昭和50年)の沖縄海洋博がある。アメリカの言いなりに基地を残して本土復帰を果たした為政者の言い訳のように、湯水のように国家予算が注ぎ込まれた公共事業、加えて観光への本土資本の暴力的奔流が、開発という美名の下に沖縄の自然を破壊し続けた。流入する赤土に覆い尽くされて海が、珊瑚礁が荒れ、森林が舗装道路で寸断されて、ヤンバルクイナやノグチゲラなどを絶滅へと追い詰めて行きつつある。様々な要因の積み重ねのツケが、離島にまで及んだということなのだろうか?

 16メートルの海底に、点々と3つの根(岩礁)が立ち、乏しい珊瑚に魚たちが遊んでいる。美しい色彩に不満はないが、夢に見た一面の珊瑚や、群れなして遊ぶ魚影には程遠い海底風景だった。念願の座間味初ダイブがこんな形で始まったことに少々打ちのめされながら、海底散歩で暫しの時が流れた。
 初心者の久々のダイブにエアを使い、淳君のハンド・シグナルで私だけ一足早くボートに戻った。水面下5メートルでの3分間の安全停止を経て浮き上がった海は、全てをコバルト・ブルーに覆い包んで美しかった。表から見る海の美しさと、その下に横たわる不毛の海底の落差……。ボートに装具を下ろしたあと、頭を冷やしたくて暫く海面をシュノーケリングで漂った。強烈な日差しが、懲罰の鞭のように背中を叩いた。

 今沖縄で、珊瑚再生に向けて懸命の努力が重ねられている。ダイビング・スポットが幾つも閉鎖されたり、1回当たりのダイビング・ボートの停泊が2隻までと制約されたり、水槽で育てた小さな珊瑚を岩礁に戻して埋め込んだり……その「美ゅら海資金」を集めながら重ねられる努力が実り、絢爛豪華の珊瑚礁が復活するには、気の遠くなるような時間がかかる。「洞爺湖サミット」などという、各国の利権が優先する不毛の会議が笑止に思えるほど無為無策のまま加速する温暖化に、この努力が「蟷螂の斧」とならないことを、必死で祈る思いがあった。もう、時間がないのだ。

 午後、2度目のダイブに向かう娘達と別れ、家内と二人でシュノーケリングを楽しむために古座間味ビーチを訪れた。お馴染みのビーチ・ガール・のぞみちゃんが今日も砂浜のテントでレンタル・ショップを開いていた。こぼれそうなビキニが似合うビーチ・ギャルだった彼女も、今はもう大学生と高校生2児の母、「もう、ビキニ着れないさァ」と、真っ黒な顔で笑いかけてくる。
 先年このビーチで、私のマスクの下をくぐって見事なスキンダイブを見せる女性がいた。しぶきを上げて浮き上がってきたのは、雑誌の取材で来ていたアトランタ・オリンピックの水泳選手・千葉すずさんだった。気さくに語りながら撮らせてくれた彼女とのツー・ショットは、今も我が家の壁に飾ってある。日本水連との軋轢で不遇な立場にある時だった。今はアテネ・オリンピック、200メートル・バタフライの銀メダリスト・山本貴司選手(残念ながら、北京オリンピック代表選考には漏れたが)の年上女房として、幸せに暮らしている。
 真っ白な砂浜と、真っ青な空と、入道雲と、見事なグラデーションの海……フィンを履いて泳ぎ出した珊瑚の海はここも無残に荒れ果て、あれほど豊かだった魚影も哀しいほどに薄くなっていた。
 それでも、ここは美しい。ライフ・ジャケットを着て波間に漂う家内は、時を忘れていつまでも魚影を追い続けていた。
             (2008年7月:写真:古座間味ビーチの夏)

燃え尽きた夏…(その2)

2008年07月14日 | 季節の便り・旅篇

 泊港午前9時。……高速船「クイーン座間味」に乗り込む頃、既に苛烈な夏の日差しは、頭頂を叩きつけるような勢いで降り注いでいた。西方40キロの海上・慶良間諸島・座間味島に向かって、双胴の高速船は50分で突っ走る。紺碧の海に入道雲が沸き立ち、沖縄は豪快な真夏の様相を呈し始めていた。
 港を出て外洋に走り込むと、珍しく大きなうねりが船を揺すり、時折頭が真っ白になる。叩きつける波しぶきが船窓を覆い尽くす。今日は偶然、座間味から那覇へのサバニ・レースの日だった。座間味の友人から「8時に古座間味ビーチから一斉にスタートしました。途中で擦れ違うと思います」というメールが届いた。このうねりの中で、漕ぎ手を乗り換えさせながら、4時間あまりかけて漕ぎ続けるのは大変な難行だろう。やがて左手遠くの島伝いに、沢山のサバニが長くばらけながら帆を掲げて過ぎていった。

 エメラルド・グリーンとコバルト・ブルーの美しいグラデーション、座間味の島を取り巻く海は限りなく美しい。真っ青な空と湧き上がる入道雲、その下にちりばめられた島々。世界でも有数の美しい珊瑚礁に囲まれた島々である。港で友人夫妻と、3泊世話になる民宿「パティオ・ハウス・リーフ」の息子さんの一明さんが出迎えてくれた。4年ぶりに会った友人のご主人は小気味良いほどに黒く日焼けし、歯だけが真っ白に輝いている。(実は彼は、島で唯一のデンタル・クリニックの先生である。)ダイバーでもある一明さんは、ちょっと小太りになっていた。懐かしさに、思わず顔がほころんでしまう。
 2台の車に分乗し、海岸沿いに5分ほど離れた阿真に向かう。「マリリンに逢いたい」という映画が、かつてこの島で撮影された。シロがマリリンに逢いたさに、隣の阿嘉島から3キロの海峡を泳いで渡るという、実話に基づいた犬の純愛物語である。そのマリリンの像が、道端で迎えてくれる。一明さんも子供の頃、エキストラで撮影に参加したという。(実はこのシロ、純愛には程遠く、阿嘉島にも座間味島にも、更に那覇にさえ子種を残しているというから楽しい。大らかな沖縄らしい裏話である。)

 民宿に荷を置き、友人のお宅で手作りのお昼をごちそうになって、さあ、いよいよ待望の座間味・初ダイブを迎えた。民宿から程近い阿真の港から、小船で沖に向かう。既に20年近くダイビングを重ね、何度も座間味で潜っているという私よりご年配のご夫婦と、娘夫婦に私、それにインストラクターの一明さんと助手の淳君7人である。一明さんの操船で5分も走れば、もうそこがダイビング・スポット。慶良間諸島には、選択に困るほど沢山のダイビング・スポットがある。メキシコ、カボ・サン・ルーカスのランズ・エンド以来7ヶ月振りに潜る初心者の私を気遣って、比較的容易なスポットを選んでくれた。小さな無人島の島影の「アダン下」というポイントが、私の日本初ダイブの舞台となった。
 5ミリのウエット・スーツを着込み、装具を点検してエア・タンクを背負い、6キロのウエイトを腰に巻き、ブーツにフィンを履き、マスク、シュノーケル、レギュレーターを手で押さえながら、船べりから憧れのバックロール・エントリーで海にはいった。水温28度、冬のカリフォルニア・カタリナ島の16度、メキシコの24度に比べて、なんて温かい海なんだろう。それでも、透明度20メートルの澄み切った水は、焼けた肌に心地よかった。「3人で座間味で潜ろうね!」という、昨冬の娘との約束がこうして果たされたのだった。
 久しぶりの耳抜きにも、やがて慣れた。淳君がバディーとして、ぴったり脇についていてくれる。アドバンス・スキューバ・ダイバーの資格を持つ娘も、インストラクターとしてカリフォルニアで高校生に教えているマサ君も、私を見守ってくれている。レギュレーターでゆっくりと呼吸しながら、徐々に深度を稼いでいく。見上げる海面は日差しを浴びてキラキラと輝き、その中を呼気の泡がゆらゆらと立ち上っていく。

 ……夢にまで見た座間味の海でのダイビングが、今始まろうとしていた。
           (2008年7月:写真:ダイビング・ボート、海へ)

燃え尽きた夏…(その1)

2008年07月13日 | 季節の便り・旅篇

 表面の美しさだけで判断してはいけない……改めてそのことを痛感させられた旅になった。楽しかった高揚感の底に、冷たく暗い影が澱んでいる。

 豪雨襲来の予報を片耳に聞きながら、暗い雲に覆われた福岡空港を飛び立った。6月も末近く、愈々梅雨最盛期に差し掛かる時節である。梅雨前線を越えて飛ぶ不快な揺れもなく、雲の上の真っ青な空を見ながら南に向かった。
 ハワイ・カウワイ島でのトレッキングを楽しみ、成田経由帰省する筈だったアメリカの娘夫婦(トモとマサ)は、ホノルル空港で機材故障のためフライトキャンセルという、思いがけないアクシデントに巻き込まれた。1日足止めを食った後、名古屋経由で福岡に戻って、辛うじて日曜夜の親戚達の集まりに滑り込んだ。学校や仕事の都合をやりくりして、家族4人揃って横浜から駆けつけてくれた長女一家と共に、我が家の全家族8人が初めて…本当に初めて、故郷・太宰府の我が家で、同じ屋根の下で眠る一夜を過ごした。こんな夜が、今度はいつ実現するのだろう?……そんな思いがふと去来する。長女一家は、翌日朝一番の便で慌しく横浜に帰っていった。
 一昨年末の電撃結婚のささやかなお披露目の意味もあった帰国だったが、何しろ4年振りである。時差呆けをよそに、博多座で昼夜2回の歌舞伎にハマったり、カナダ時代の友人に会いに行ったり、玉名温泉に1泊して、霧の中を菊池渓谷から大観峰に抜けて小国から下ったり、家族の記念写真を撮りに写真館に走ったり、太宰府天満宮に詣でて九州国立博物館を覗いたり……わずか6日間に、納まりきれないほどのスケジュールをつむじ風のようにこなして、ようやく親子4人の南への旅立ちを迎えたのだった。

 1時間40分のフライトを終えて、機のドアが開いた途端、濃密な湿気を帯びた南国の熱い空気が一気に流れ込んできた。そう、これが沖縄!
 ダイビング機材一式を持ち歩いている娘夫婦は、4つものスーツケースを引き摺って移動している。合わせて6つと4人、空港のジャンボ・タクシーに積み込んでホテルに向かった。4年ぶりの沖縄、例年より2週間遅く梅雨入りし、4日早く明けた沖縄だったが、まだすっきりとは明け切れず、雲の多い夏空だった。泊港近くの定宿に荷物を置き、先ずは腹拵え……沖縄でのお昼は、いつも「ソーキそば」と決めている。キンキンに冷房を効かせたホテル近くの店で遅い昼食となった。

 壷屋の「やちむん(焼物)通り」に、行きつけの壷屋焼の店・新垣商店がある。沖縄を訪れる度に必ず寄る店である。いつも通り、お茶と黒砂糖をいただきながら話が弾み、幾つかの器を求めた。魔除け・厄除けの置物・シーサー(獅子)に魅せられた娘夫婦は、選びに選んだ挙句、足元から見上げる風情の一品を探し出した。「壷屋焼物博物館」を覗いて日差しに火照った身体を冷まし、平和通りや公設市場を冷やかして歩く。もう何年同じことやってるんだろうと苦笑いしながらも、やっぱりオバアやニイニイ達が明るく素朴に相手してくれるこの町筋の散策は、何とも捨てがたい沖縄の醍醐味なのだ。
 こうして日が傾く頃まで時間をつぶし、モノレール美栄橋駅近くの「居酒屋りょう次」に向かった。座間味島に住む友人から教えてもらった琉球料理の居酒屋である。携帯に貰っていた道筋のガイドを読みながら歩くうちに、約束の時間近に携帯に電話がはいった。初めての訪れを心配したマスターからの「店、わかります?」という呼び掛けだった。この優しさが、沖縄のもう一つの醍醐味である。

 オリオンビールと泡盛の古酒で心地よく酔い、納得の琉球料理の数々を味わいながら、4年ぶりの那覇の夜が更けていった。
          (2008年7月:写真:シーサー)