夜風が心なし涼しくなり、庭の片隅でカネタタキが鳴き始めた。もう8月も終わり近いというのに、昼間の炎天にまだ衰える気配はなく、35度の暑熱が続いている。このところ午後の雷雨が多い。稲光の美しさに魅せられてカメラで追っかけをしたのはいつの日だったろう。腹の底に響く重い雷鳴は、不思議なときめきを呼び覚ます原始の轟きだった。その夕立の後の涼しさも何故か昔ほどではない。昨年はオンブバッタが、そして今年はコガネグモが異常に多く発生し、新聞を取りに出るたびに蜘蛛の巣に絡まれる毎朝だった。梅雨の長雨と各地の記録を塗り替えた猛暑の夏、年々季節の横顔が少しずつ変貌していくように思えてならない。
照りつける強い日差しに葉を無残に痛めつけられながら、ヒメミズギボウシが6本の茎を立て、たくさんの花を開いた。鉢ごと部屋に持ち込み、テーブルの上で愛でながら逝く夏を想った。
そんな一日、もう食べつくされて茎だけしか残ってないスミレのプランターに、羽が破れ飛ぶ力も衰えたツマグロヒョウモンが訪れた。どこに卵を産むというのだろう。いくつかの鉢をさまよい訪ねた後、風に乗ってまたどこかに飛び去った。1週間前まで薄明の中で朝を告げていたヒグラシの声も絶えた。代わりにツクツクボウシが梢を独り占めしている。鈍くなった人間の感性の届かないところで、静かに季節は足取りを速めている。
2週間の「ジージといた夏」をすごした孫達も、ここで集めた草木の葉を押し花にしたりして、夏休みの宿題を終えたようだ。6月から7月にかけて1ヶ月、南カリフォルニアで夏を先取りし、その時点ですでに心の中の夏は終わっていた。孫達を連れて久住高原と臼杵の海に遊び、町内の子供達を集めて毎年開く「平成おもしろ塾」も終わった。お年寄りの先生達とお手前、お習字、大正琴、野の花の生け花を学ぶこの塾も4年を重ねた。6年の区長職を全うする今年が最後の塾長と決めていたのに、卒業した中学生まで応援に駆けつけ、「子ども会主催で続けたいから、来年も是非塾長を」とお母様方からお願いされた。週1回、述べ3回の塾が終わった夜、子供達との夕食会で可愛いお礼の手紙をもらった。もう忘れかけていた4年前のことを、子供達はしっかりと覚えている。思いがけない感激に、ひそかに思っていた「子供達の思い出作り」のお手伝いが出来た喜びが重なる。
やがて「敬老の日」がやってくる。敬老会に去年まで出席していたのに、もうリストに載ってこないお年寄りがある。欠かさず出席していた人から欠席の返事が届く。その笑顔を思い出しながら、人生の季節も確実に秋から冬に向かっていることを痛感する。いつもこの季節に湧き上がる感懐である。
ウインド・チャイムがコロンと鳴った。今日も黒い雲が広がり、時折風が過ぎる。逝く夏の後ろ姿に、思うことの多い昨今である。
(2006年夏:写真:姫水擬宝珠)