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蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

逝く夏

2006年08月27日 | つれづれに

 夜風が心なし涼しくなり、庭の片隅でカネタタキが鳴き始めた。もう8月も終わり近いというのに、昼間の炎天にまだ衰える気配はなく、35度の暑熱が続いている。このところ午後の雷雨が多い。稲光の美しさに魅せられてカメラで追っかけをしたのはいつの日だったろう。腹の底に響く重い雷鳴は、不思議なときめきを呼び覚ます原始の轟きだった。その夕立の後の涼しさも何故か昔ほどではない。昨年はオンブバッタが、そして今年はコガネグモが異常に多く発生し、新聞を取りに出るたびに蜘蛛の巣に絡まれる毎朝だった。梅雨の長雨と各地の記録を塗り替えた猛暑の夏、年々季節の横顔が少しずつ変貌していくように思えてならない。
 照りつける強い日差しに葉を無残に痛めつけられながら、ヒメミズギボウシが6本の茎を立て、たくさんの花を開いた。鉢ごと部屋に持ち込み、テーブルの上で愛でながら逝く夏を想った。
 そんな一日、もう食べつくされて茎だけしか残ってないスミレのプランターに、羽が破れ飛ぶ力も衰えたツマグロヒョウモンが訪れた。どこに卵を産むというのだろう。いくつかの鉢をさまよい訪ねた後、風に乗ってまたどこかに飛び去った。1週間前まで薄明の中で朝を告げていたヒグラシの声も絶えた。代わりにツクツクボウシが梢を独り占めしている。鈍くなった人間の感性の届かないところで、静かに季節は足取りを速めている。
 2週間の「ジージといた夏」をすごした孫達も、ここで集めた草木の葉を押し花にしたりして、夏休みの宿題を終えたようだ。6月から7月にかけて1ヶ月、南カリフォルニアで夏を先取りし、その時点ですでに心の中の夏は終わっていた。孫達を連れて久住高原と臼杵の海に遊び、町内の子供達を集めて毎年開く「平成おもしろ塾」も終わった。お年寄りの先生達とお手前、お習字、大正琴、野の花の生け花を学ぶこの塾も4年を重ねた。6年の区長職を全うする今年が最後の塾長と決めていたのに、卒業した中学生まで応援に駆けつけ、「子ども会主催で続けたいから、来年も是非塾長を」とお母様方からお願いされた。週1回、述べ3回の塾が終わった夜、子供達との夕食会で可愛いお礼の手紙をもらった。もう忘れかけていた4年前のことを、子供達はしっかりと覚えている。思いがけない感激に、ひそかに思っていた「子供達の思い出作り」のお手伝いが出来た喜びが重なる。
 やがて「敬老の日」がやってくる。敬老会に去年まで出席していたのに、もうリストに載ってこないお年寄りがある。欠かさず出席していた人から欠席の返事が届く。その笑顔を思い出しながら、人生の季節も確実に秋から冬に向かっていることを痛感する。いつもこの季節に湧き上がる感懐である。
 ウインド・チャイムがコロンと鳴った。今日も黒い雲が広がり、時折風が過ぎる。逝く夏の後ろ姿に、思うことの多い昨今である。
            (2006年夏:写真:姫水擬宝珠)

旅の終わりに(夏旅・終章)

2006年08月22日 | 季節の便り・旅篇

 人生の余白を楽しむ脱・日常の旅も終わりが近づいていた。思いがけず山道で出会ったアンテロープの群れとの戯れを名残に、Bryce canyonを後にした。また来てTrailを歩きたい…そんなリピーターへの憧れの裏で、本当に来ることが出来るのだろうか?という、淋しい疑念がある。人生の晩秋に差し掛かった旅人に付きまとうわびしい想いである。
 往路と道を変えて、12号線に抜けた。標高2,740メートルのNavajo Lakeや、若い芽吹きが輝く白樺の森を抜け、手付かずの自然に浸りながら2,855メートルの峠を越えた。Cedar Cityから15号線に戻り、再び砂漠の荒野を西にひた走る。
 初めて体感する45度の灼熱、独立記念日の休日を二日後に控え、Las Vegasは激しい混雑の中にあった。ピラミッドをかたどったホテルLUXORに泊まり、水上サーカス「O(オー)」やカジノを楽しみ、翌日も厳しい熱波に追われてモハーベ砂漠を駆け抜けた。Barstow近くで事故渋滞に遭ったり、往年のハリウッド・スターが開いた店「Peggy Sue’s」でランチを摂って、古きよき時代のハリウッドを懐かしがったりしながら、さほどの疲れもなく1,830キロのドライブを終えたのだった。
 残された8日間は、娘との「生活」を楽しむ日々となった。近場のLaguna Beachのお洒落なカフェ「Vuena」でのランチ、South Coast Plazaでのショッピング、懐かしいLong BeachのShore Line Village散策、お馴染みのSushi Bar「鯉」での鮨三昧(職人のタカさんは、今夜も工夫を凝らした見事な鮨を握ってくれた。日本の職人には及びもつかない研究と工夫で、客の好みに合わせて思いがけない鮨が出てくる。その努力がないとここでは生きていけないのだ。ここにも異国にたくましく生きる日本人の生活があった。Long Beachに住むキャメロン・ディアスなど、ハリウッド・スターもよくやってくるという。)New Port Beachの「Garlic Jo’s」でのニンニクたっぷりのステーキ・ランチ、Balboaの港から乗ったおもちゃのような遊覧船(岸辺のリッチな家々は30億の豪邸。かつてジョン・ウエインやハンフリー・ボガードもここに住んでいた。今もニコラス・ケイジの豪邸がある。船の前を2頭のイルカが先導してくれた。)…こうして楽しい時間が奔流のように過ぎていった。
 最後の夜はDana Pointの崖の上に立つレストランCharter Houseのバーで、シャンパン・ナイトと洒落込んだ。真っ赤に空を染めて夕日が沈むと、満月近い月の光がキラキラと海に照り映え、眼下のマリナーの灯し火と共に、娘と過ごす最後の夜を幻想的に演出してくれる。
 延べ走行距離4,500キロ。長い1ヶ月の滞在も、過ぎれば一瞬。別れはいつも慌しい。心配していた出国手続きも呆気なくに終わり、娘とハグして別れた。この慌しさが救いなのかもしれない。今度いつ会えるかわからない…名残惜しさと寂しさが心に去来する別れは、長すぎると、胸の奥からこみ上げてくるものが抑えられなくなる。だから、むしろ一瞬の方がいい…そんな負け惜しみで自分を慰めながら、搭乗ゲートに向かった。
 帰国した私達を、いつものように娘からのメールが待っていた。読みながら「さびしいよ~!という文字が滲んでいった。旅の終わりだった。
   (2206年夏:写真:残雪のSierra Nevada山脈)

奇岩怪石の峡谷美(夏旅・その7)

2006年08月21日 | 季節の便り・旅篇

 Bryce Canyon。20万年前の三畳紀の岩層で出来たグランド・キャニオン、16万年前のジュラ紀の岩層を含むザイオン・キャニオン、それに対しブライス・キャニオンは13万年前の白亜紀から7万年前の第三紀という比較的若く、脆い古代岩層で出来ているという。風と雨と霜が長い年月をかけて途方もない侵食を重ね、今日の奇岩怪石の偉容を谷に刻んだ。その脆さゆえに、いずれは土と化す運命にあるが、大自然が長い長い時間をかけて刻み続けた鑿の痕は、凄惨なまでの峡谷美となって私達を魅了した。
 5時起床。外気10度の冷たい風の中を、朝日に染まるブライスを見るためにホテルを出た。公園入り口のゲートに登録して、2,380メートルのSunrise Pointに立った。広大な谷底に林立する岩峰の偉容、原始地球の姿に声もなかった。日の出と共に刻々と影が動き、赤茶けた、あるいは白い岩の塔がダイナミックに浮かび上がってくる。圧倒されて声もない私達に、娘は「まだまだ!歩いて下から見上げてみないと、ここの凄さは分からないよ!」という。
 一旦ロッジに戻って朝食を摂り、8時50分、今度はSunset Pointから、今日のひとつ目のTrail・Navajo Loop(ナヴァホ・ループ)に3人で取り付いた。屈曲する急坂を谷底に下る。大きくループを描いて元のSunset Pointに登り上がる比較的短いトレッキング・コースなのだが、終点近くで落石のためにTrailが閉鎖され、再び元の道を戻ることになった。脆い岩層が絶えずこのようにルートを閉ざすのだろう、見えない岩陰には小型のブルドーザーと補修用の岩の板が隠されている。この大地は今も時々刻々侵食が進んでいるのだ。往復およそ4キロ。途中、寄ってくるリスと戯れ、2時間半後Sunset Pointに帰り着いた。下から見上げる奇岩の林は、もう言葉の表現の域を超えていた。
 Bryce Lodge で昼食を摂る頃、激しい雷雨が来た。のんびり宿の近くの散策を楽しみたい家内を残し、娘と二人で午後のTrail に出発した。14時、峡谷を縁取る長い弧状のリムの最も高い位置にある標高2,530メートルのBryce Point に車を置いて、再び急坂を巻きながら下っていく。小雨と時折轟く雷鳴が心なし不安を呼ぶ。しかし、これだけ避雷針代わりの岩塔があれば大丈夫だろう、と娘と話しながらTrailを巻き続けた。
 Peakaboo Loop (ピカブー・ループ)のトレッキングは驚異の景色に包まれた感動の連続だった。ひとつカーブを曲がる度に、ひとつ岩のトンネルをくぐる度に、姿を変えて迫ってくる岩塔の奇観。言葉でも写真でも決して表現し尽くせない大自然の鑿の痕は、ここに来て自らの目と足で確かめるしかないと思った。
 16時、朝歩いたNavajo Loop の底に辿り着いた。いつしか空は晴れ上がり、強い日差しが汗を噴き出させる。リズムに乗った足が欲を出させ、もうひとつQueens Garden Loopに踏み込んだ。やがてTrailは一気に登りとなり、息喘がせながら朝日を見たSunrise Pointに登り上がった。17時10分、ここは出発したBryce Point から最も遠い位置にある。連なるLim Trail の向こうに、ため息が出るほど遠くBryce Pointが霞んでいた。
 ひと息入れて気を取り直し、斜めに差す夕暮れ近い光の中を風に吹かれながら、広大なキャニオンの周辺部を大きく巡る4.4キロのLim Trailを歩き始めた。Sunrise PointからSunset Point 、Inspiration Point を経て、Bryce Pointに帰り着いたのは、もう19時近い頃だった。
 この日歩いた16キロ、8時間のTrailは、圧倒的な感動と心地よい疲れに包まれる貴重な体験だった。驚異の大自然の中での達成感と共に、異郷の地ユタ州で、こうして娘と二人だけで語り合いながら数十年ぶりに山道を歩いた感慨に、無量の思いがあった。
 ロッジに戻り、途中のガス・ステーションで買ってきたキンキンに冷えたビールで乾杯!甘露、ここに極まった。
     (2006年夏:写真:ブライス・キャニオン俯瞰)

不毛の大地・モハーベ砂漠(夏旅・その6)

2006年08月20日 | 季節の便り・旅篇

 アメリカ滞在もやがて3週間になるという6月の晦日、いよいよ後半最後の旅、Bryce Canyonに向かうことになった。前回の訪米で実現する筈だったこの旅は、同行者の急な病で流れていた。1年半ぶりの夢の実現だった。
 8時50分出発、カリフォルニア州を抜けて、ネヴァダ州を突っ切り、アリゾナ州を経てユタ州南部まで、片道860キロのロング・ドライブである。5号、55号、91号、15号とハイウエーを乗り継いでBarstowに向かう。珍しくトラフィックにも遭わず、順調なドライブだった。
 娘からハンドルを預かり、広大なモハーベ砂漠を70~80マイル(110~130ロ)でひた走った。岩と砂、タンブル・ウイードとメスキートの原野に、ときおりヨシュア・ツリーやサボテンが佇む不毛の大地だが、荒々しいその姿には日本では味わえない原始の美しさがあった。水平線まで続く片側2車線の一本道は、広大なアメリカ大陸を圧倒的なまでに実感させてくれる。時間稼ぎに走りながら食べたお昼ご飯も楽しかった。
 やがて1,300メートルの峠を越え、13時ラスベガスを過ぎる。前回ここを訪れたのは夜だった。真っ暗な何もない砂漠の暗闇から不夜城のように現れた光の海は圧巻だった。それを見せたくて、娘はわざと出発を遅らせたのだという。そして、期待通り私達は圧倒されて言葉を失った。真昼の今日は、44度の灼熱が蜃気楼のように街の姿を揺らしているだけだった。
 ラスベガスからほど遠くないところでトイレ・タイムに高速を降りた。熱波の中でコーヒー・ブレークして休んだ店の隣に、たまたま山岳用品の店があった。娘のリュックが細身の体に大きすぎて使いにくいという悩みがあり、体に合うリュックを買ってやることにした。何もない砂漠の中の小さな店なのに品揃いもよく、たった一人の店員の応対も確かだった。アウトドアが好きなアメリカの人達にとって、こんな小さな町の小さな専門店はそれなりに貴重な存在なのだろう。こうして娘の大きすぎるTimber Land のリュックは私のものになり、私が持ってきたColemanの小さなリュックは娘のカメラ・バッグに変わることになった。そんな道草を楽しみながら、砂漠の道を走り続けた。
 アリゾナ州を経て、15時ユタ州にはいった。右手にZion国立公園の山容を見ながら走り、Cedar Cityの街を過ぎて、17時15分、15号を20号に右折した。89号に乗るとやがてブライス・キャニオンまで30マイルの標識が立つ。標高2,000メートルの高原の風が、外気温を一気に17度まで下げる。Panguitchの街を左折し、12号を東に折れると、突然Red Canyon の赤茶けた威容が目に飛び込んで来た。圧倒されて見上げていると、娘がニヤニヤ笑いながら「ブライスはこんなもんじゃないよ!」という。期待を膨らませながら、18時20分、ようやく公園の入り口に近い宿、Bryce View Lodgeに到着した。ここが明日のトレイルを歩くベースとなる宿である。標高2,300メートル。高原の風が爽やかに吹き、目の前の牧場には牛が遊んでいる。遠くからロデオ大会のざわめきが聞こえてきた。
 近くのレストランで夕食を摂り、山岳タイムに合わせ時差を1時間進めて眠りについた。長いドライブの疲れから、この夜は夢も見ずに深い眠りに沈んだ。憧れのBryce canyonはもうすぐそこにあった。
             (2006年夏:写真:Bryceへの道)

シーフードに走る(夏旅・その5)

2006年08月20日 | 季節の便り・旅篇

 俄かに夏らしくなった。乾いた空気が日陰では爽やかな風となって癒してくれるが、日差しは苛烈、まさしくカリフォルニアの夏の太陽である。寸暇を惜しんでテラスで日差しを浴び、プール・サイドでまどろむ日々を重ねて、真っ黒に日焼けした。肌に焼き付けてひそかに持ち帰りたいカリフォルニア土産である。
 6月末の日曜日、娘とキャンプ用品の片づけを兼ねてガレージの大掃除をした。男手のない異国での一人暮らし、たまに来た時くらい力仕事を手伝ってやりたかったから、娘とおしゃべりしながら、吹き込まれた落ち葉をきれいに片付け棚を整理するひと時は、何かほのぼのと楽しい時間だった。
 午後サン・ディエゴに向かった。フリーウエーを走ること1時間あまり、メキシコとの国境の街サン・ディエゴに着く。すぐ南はもうメキシコのTijuana(ティファナ。ここではティワーナと発音しないと通じない)。シャチのシャムーが豪快でユーモラスなショーを繰り広げるシー・ワールドや動物園、海軍・空軍の基地、そしてシーフードが美味しい私たちお気に入りのシーポート・ヴィレッジがある。古い街を残したオールド・タウンの散策は楽しかった。初めての学校跡や土産物を売る店、皮とベルトの専門店、カラフルなキャンディー・ストアなどが並び、ショッピングを楽しませてくれる。ここでインディアンのシンボルを彫り込んだバックルとベルトを娘が買ってくれた。
 海辺のシーポート・ヴィレッジ。4年前のクリスマス・イヴをここで過ごした。夜遅くホテルに着いたら、レストランはクリスマス・イヴの予約客ですべて満席。途方にくれて街をさまよい、たどり着いたのが、ここの落ち着いた雰囲気のレストラン・ハーバー・ハウスだった。私達をそこに残して、4時間のサルサ大会があるから踊ってくると言って娘は出かけた。(実はオーディションだったと後に白状。数日後、合格の通知が届いて娘は舞い上がった。)
 シーフード・サンプラーという楽しいメニューがある。生牡蠣4種にシュリンプ、ムール貝にハマグリ、添えられてきたメキシカン・シーフード・サラダのCevichiの酸味がこたえられない。なぜか今、この辺りの人気はクマモトという生牡蠣である。何故クマモト?と由来を訊いても誰も知らない。あるいは有明海を原産とする牡蠣なのだろうか。家内は4種類のビールの小瓶が並ぶビール・サンプラーとフィッシュ&チップスを摂った。小鳥が舞い込む2階の席でゆっくりと夕日を待った。芝生では子供達が遊び、目の前の海を遊覧船やヨットが滑っていく。見送る西日の向こうの海軍基地に、空母のシルエットが黒々と浮かぶ。
 日暮れる頃店を出て芝生に憩い、ヴィレッジでショッピングを楽しんだ。真っ赤な夕日に染まりながらそぞろ歩くひと時、ここにも日本語の聞こえない快感があった。やがて戻ってきた娘に再びハーバー・ハウスで遅い夕食を摂らせて、深夜家に帰り着いた。小さな夏旅をまたひとつ重ねて夜が更けた。
     (2006年夏:写真:サン・ディエゴのレストラン)

Temecula Wineries(夏旅・その4)

2006年08月20日 | 季節の便り・旅篇

 南カリフォルニアの空は秋から冬が一番美しい。空気は透明に澄み渡り、紺碧の空に走る飛行機雲が最も目立つ季節である。写真に撮ると、肉眼で見たときとは比べ物にならないほどの深い青空が表われる。今は6月下旬、空は晴れていても日差しの強さが淡い霞をかけ、透明感には少し物足りないものがある。
 娘の仕事のついでに便乗し、このところ訪米の度に恒例になってしまったテメキュラ・ワイナリー訪問を決めた。「いつもと違う、好きな道を走るよ!」と娘がいう。5号線・サン・ディゴ・フリーウエーから、74号線・Ortega Hwyに繋ぎ、曲折の多い山道を抜けていく。あまり知られていない近道であり、朝夕のトラフィック(渋滞)がひどい時間帯でも、この道はすいすい走れるという。「仕事に疲れてトラフィックはいやだもん!」
 もともとが砂漠地帯である。この季節だけ緑が濃い未開発の山肌や山林が続き、ところどころにキャンプ場もある中を、760メートルの峠を越えていく。生々しいビーフ・ジャーキーの専門店、バイカー達が集う「ヘルズ・キッチン」というレストラン、ビールとおつまみだけしか置いてないバーなど面白い店が点在する道だった。峠の展望台から見下ろした盆地の底に、レニエア湖が霞んでいた。緑が少なく人口湖のような佇まいだが、近年ボート遊びのリゾート地として人気が高まっている湖である。
 一気に峠を下った。レニエア湖の脇をかすめ、15号線を少し走ると、もうテメキュラの街である。入り口近いモールで降ろしてもらい、娘の仕事の間ショッピングを楽しむことにした。小一時間は家内のサングラスと孫達へのお土産探しであっという間に過ぎた。
 再び仕事を終えた娘に拾ってもらってテメキュラ・ヴァレーのワイナリーに向かった。初めて訪れたときは17だったワイナリーが今は24に増えている。広大な丘陵地帯にのびのびとブドウ畑が広がり、個性豊かなでお洒落なワイナリーが点在するここは、私達のお気に入りのスポットだった。開発が加速し、やや観光地化される不安は漂うが、抜けるような青い空の下の大地に置かれたワイナリーはすべてが絵になる。「仕事場が近ければこの辺りに住みたいんだけどな!」と娘が目を輝かせる。職場のロス郊外・ロング・ビーチからは2時間余り、朝夕のトラフィックの中の通勤にはちょっと厳しいだろう。
 素敵なレストランでワインを飲みながら美味しいランチを摂り、二つのワイナリーで15種のワインのテイスティングを楽しんだ。土産に白を中心にお気に入りの5本を買った。10年ほど前から、ワインにこだわりを持つようになった。好みはドイツワインの白。実は私には、赤が苦手になったちょっと恥ずかしい原体験がある。高校時代、文化祭や運動会の後は必ず「打ち上げ」と称してコンパとなった。ひそかに買い求めてきたのが一番安いぶどう酒・1升ビン入りの赤玉ポートワインである。無節操に飲んでは悪酔いし、トイレやプール・サイドで反吐を吐いてひっくり返ることを繰り返す…とんでもない生徒会幹部だった。その報いが今に続いている。赤のワインの匂いが呼び覚ますのは、青春の文字通り苦い苦い思い出なのである。
 帰路、テイスティングでほろ酔いだったこともあり、ワインディング・ロードのオルテガ・ハイウエーを避け、以前の道・15号線を帰った。案の定、夕刻の厳しいトラフィックが待っていた。
      (2006年夏:写真:お洒落なワイナリー)