蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

お裾分け

2011年01月28日 | つれづれに

 際限なく続く異常寒波に倦みながら、1月が慌しく過ぎていく。久し振りの青空が二日続いた。晴れたら晴れたで、放射冷却が容赦なく夜気を氷点下に引き摺り下ろしていく。昨日は氷点下2.5度とこの冬二番目を記録し、今朝も氷点下1.4度まで下がり、蹲に逆さツララが立った。今夜から又寒波が襲来、月末3日間は雪の予報が出ている。これが、太宰府の冬…早春を呼ぶ天満宮の飛梅が、ようやく2輪の花を開いたのが、昨年から1週間遅れの昨日である。

 束の間の貴重な日差しの中で、八朔を捥いだ。ここ数日ヒヨドリが八朔をつつき、開けられた穴にメジロが寄る微笑ましい姿が見られる。山に木の実が少ないのだろうか、例年にない現象である。庭のそこかしこに立って赤い実を着けていたマンリョウも、悉くその実を啄ばまれた。
 朝夕食事に訪れる鳥達の姿を愛でる反面、放っておくと際限なく啄ばまれてしまうのも妬ましい。少し早いかな?と思いながら梯子を立て、木の枝に跨り、身体を捩りながら捥いで手提げに落とし、広縁に運んで転がしていく。昨年の豊作に比べ、紛れもなく少ない。そして、実も小ぶりである。植木職人も「今年は裏作」と告げていた。個人タクシーが通りかかり、馴染みの年配のドライバーが声を掛けていく。やっぱり、ヒヨドリの被害が多いという。昨夏の異常な暑さ、短い秋、そして打ち続くこの寒波が、山にも異常を齎しているのかもしれない。
 斜めに差す冬日を浴び、少し汗ばみながら、小一時間でほぼ捥ぎ終わった。手の届かない2個と、小振り過ぎる実を3個、啄ばまれた実を2個…計7個を鳥達へのお裾分けに残して、76個を広縁に数えた。食べやすいように半分に割って柵や枝に突き刺したり、枝につけたまま包丁で切り目を入れたりして、硬い皮をつつかなくてもいいように、それなり気を使うのは、収穫の殆どを採ってしまう後ろめたさでもある。昨年のほぼ半分だが、我が家と孫達を潤すに不足はない。

 梯子を片付けるのを待っていたように、姦しくヒヨドリが来た。そっと覗くと、メジロもチチッと鳴きながら慎ましくつついている。その白くくるまれた目の可愛さは例えようがない。寒さに倦んだ心がホッと和む瞬間だった。

 ラカンマキに囲まれたカーポートから小さな木戸を開けると、陋屋・蟋蟀庵の庭である。東の塀際に、手前から花房をびっしり下げたキブシ、天満宮の裏山から実生で採って来て1メートルほどに育ったイロハカエデ、盆栽を地におろして、これも1メートルほどに育ちあがって、みっしり蕾をつけた枝垂れ紅梅、日差しに黄色を輝かせる満開の蝋梅、ほろほろと散る山茶花、そして八朔が2階に届く高さで茂る。その隣りに辛夷、コデマリ、山椒。
 北に回りこむと、アメリカの娘が住んだアメリカ・ジョージア州のアトランタの市の花のアメリカハナミズキの白が高く立つ。物置を挟んで、沈丁花、芙蓉、楓、槙、そして沖縄のシーサーを両側に載せた門扉の横に、アメリカハナミズキの紅が高く枝を伸ばしている。
 西側の隣家(かつて両親が住んでいた土地)との境界は、ラカンマキが連なる。
 南面が和風庭園である。父が愛しんでいた庭石や蹲、灯籠などを移し、形見の庭を作った。松、紅椿、乙女椿、躑躅、コデマリ、ユキヤナギ、山吹、石楠花、紅馬酔木などが季節を彩り、蹲の傍らには侘助が白い花を落としている。
 秋の夜、この陋屋はコオロギの声に包まれる。その切ない鳴き声に因んで、此処を蟋蟀庵と名付けた。ご隠居を名乗る所以である。

 夕暮れの八朔の枝を覗いた。夕餉を終えた鳥達は、既に姿を消し、曇り始めた冬空から冷たい風が吹き下ろしていた。
            (2011年1月:写真:八朔を啄ばむメジロ)

逆さツララ

2011年01月14日 | つれづれに

 小雪を散らしながら、年が明けた。多少の同情と嘲笑を籠めて語られる「福岡の豪雪地帯・太宰府」…40年ほど前に此処に住み着いた頃は、確かに雪深さを実感する日が、毎年数日はあった。20センチ以上降り積もった舗装もない地道を、長靴や登山靴で電車の駅まで歩き、ビジネスシューズに履き替えて福岡の都心・天神に出ると、雪一つない街がひろがっていた。
 それほど深く積もることはなくなったが、僅か30メートルほどの坂道が凍りつき、その為にタイヤチェーンが欠かせない冬は今も続いている。酷暑の後に短い秋を経て迎えた今年の冬は、例年になく雪の日が多い。今日こそ、珍しく雲ひとつない快晴の冬晴れだが、明日から始まる週末は、また雪マークが並んでいる。少し寝過ごして庭に降り立った朝の空気は切りつけるように冷たく、侘助の下に雫を落とす蹲の柄杓に、逆さツララが立っていた。

 確かに北西からの風が吹き抜ける谷あいの町であり、多雨多雪地帯には違いないが、しかし、これで豪雪とは言葉が過ぎよう。かつて20年以上前に、取引先をご招待して厳冬の北陸路を辿ったことがあった。絶壁で荒れ狂う真冬の日本海の荒濤を見ながら烈風に身を曝しているとき、何気なく「冬の日本海は、荒々しくていいですね」呟いた。傍らを通り掛った地元のお年寄りから「あんた達は、ここで生活したことないから…」という意味の言葉が返されて、ひどく恥じ入ったことを覚えている。生活者の目線と、旅人の目線の痛烈なまでの隔絶だった。
 
 年男となった元旦明け翌日の朝9時過ぎに、天満宮にひとり初詣に出かけた。まだお雑煮を祝っている時間帯のせいだろう、お参りする人の渦もなく(例年、この天満宮には3日間で200万の初詣客が殺到し、参道を埋め尽くした人波が渋滞して止まるというのに)この日は足を止めることもなく、本殿のお賽銭箱の正面に辿りついた。今年の2礼2拍手1礼の祈願に欲はかかない。たった一つの願いは、「家族の健康」だった。
 「開運福かさね」とお札を受けて帰る道すがら、隣り町の住宅の庭先に早くも満開の蝋梅を見た。午前中だけ眩しく晴れた真っ青な空に、黄金色の蝋梅は美しかった。厳しい寒波に叩かれながらも、紛れもなく春の足音は近付いていた。
 今年の賀状は敢えて「謹賀新年」や「明けましておめでとうございます」の文言を避け、「春よ来い」と記した。色々な意味で、例年になく待たれる春である。いつもと違う意味で、本当に心から待ち望まれる春なのである。

 我が家の庭の蝋梅は、まだ蕾も固く、紅梅白梅も、キブシの房も、まだまだ身を潜ませたままだった。その蕾の横で、緑の葉と競うように、八朔が見事に色づいた。数こそ昨年の3分の1にも満たない裏作だが、我が家や孫達の頬をすぼませるには充分な実りである。長女は、おなかの中にいる頃から八朔を味わって育った。当時住んでいた名古屋の矢田川の土手で日向ぼっこしながら、オシシバクバクにして八朔を食べた想い出がある。その娘の子ども達も、まだ幼い頃から顔を震わせながら甘酸っぱい八朔の果汁を吸っていた。

 冬空にオリオン座が戻ってきた。もう、夏場の濁った空に蠍座を見ることはなくなったが、大気が澄む冬の星座は豊かである。暖房に倦んだ身体を引き締めるために、時折夜更けの庭に降り立つ。雪雲の切れた夜空に「冬の大三角」が煌きを返してくれる。少し黄色味を帯びた「オリオン座のベテルギウス」、ひと際明るい「おおいぬ座のシリウス」、そして「こいぬ座のプロキオン」が形作る大三角が、中天をゆっくりと横切っていた。
           (2011年1月:写真:蹲に立つ逆さツララ)