蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

山村の贅……一夜の舌鼓(その2)

2019年10月30日 | 季節の便り・旅篇

 夢も見ずに、何時ものように5時半に目覚めた。風呂を入れ直す間に、30分の下半身ストレッチで身体を覚醒させる。ゆっくり温まった身体を冷ましに、30分ほど宿の周辺を歩いてみた。矢部川のせせらぎに沿って遡行すると、因縁の矢部中学校があった。ドームの屋根を持った立派な校舎が改装中である。後で訊いたら、文科省がン十億掛けて小中一貫校に造り替えているという。文科省も、金遣いだけは巧い。一見素朴な寒村だが、豊かな底力があるのだろう。
 朝焼けが残る空を、白鷺の群れが川に沿って飛び渡っていった。

 フロント棟の個室で朝食を摂った。私は洋食、カミさんは和食。旅に出ると食欲倍増するカミさんは、今朝も健啖である。
 さて、帰路に迷った。太宰府に帰るには、3つのルートがある。昨日の羊腸のクネクネ道は、「胸がモヤモヤしてくるから、イヤだ!と」カミさんが言う。星野村に北上する第2のルートも同じような山道で、しかも先年の水害復旧工事の為、迂回路が設定してあるという。結局、第3のルート、東に向かって大分県の県境を山越えし、中津江から日田に下ることにした。距離も所要時間も伸びるが、舗装された広い道を幾つものトンネルで結んで走り易いという。途中、大山の「木の花ガルテンに」寄ることにして、「道幅優先」でナビを入れた。
 中津江村、2002年サッカーワールドカップ・カメルーンのキャンプ地に選ばれて名を広めた。ネットによると、こんな嬉しい裏話がある。
 「中津江村」という村名は実は消滅の危機にあった。2005年に実施された日田市との合併の際に、まったく別の地名になる予定だったのである。ただ、あのカメルーン代表を受け入れたという事実の重さと、それによる「中津江村」のネームバリューが認められ、独立した地名としてその名を残すこととなる。

 宿から徒歩1分の物産館「杣のさと」でお土産を買い、帰路に着いた。早朝の雨も上がり、抜けるような秋空に、盛りを過ぎたススキが風に揺れていた。山道ではあるものの、昨日とは打って変わった快適な走りだった。時折、バイカーが追い上げてくる。ハザードを点けて脇に寄ると、片手を上げて挨拶しながら追い越していく。お互いに気持ちがいいマナーである。
 松原ダムで小休止して、お互いに遺影(?)を撮った。

 梅干しで有名な大山町、「木の花ガルテン」で買い物をした。田舎料理のバイキングを楽しめる場所だが、まだ11時前で、たっぷり摂った朝食で空腹感など程遠い。
 カミさんにハプニングを用意しようと、こっそりナビを入れた。心地よい揺れに舟を漕ぎ始めたカミさんを眠らせたまま日田に下り、筑後川沿いに西に向かい、この旅3つ目の夜明けダムを過ぎて、杷木ICで大分道に乗った。甘木ICで降りて向かった先は、キリンビール福岡工場のコスモス畑だった。
 背丈を超えるほどの1000万本のコスモスが圧巻だった。一面のコスモスの後ろに、メタセコイアの並木が鋭い三角錐を秋空に突き上げる。このコントラストがいい。
 出店で久し振りの佐世保バーガーにかぶりつき、ノンアルコールビールで喉を潤した。ビール工場に付随する畑なのに、飲酒運転撲滅の時勢に合わせ、ビールは売っていない。

 午後2時過ぎに帰り着いた。久々のドライブ197キロ、「80代高齢者」は、一度もヒヤッとすることもなく、無事安全運転の二日間だった。
 帰り着いたニュースは、またまた閣僚二人の謝罪と発言撤回。第2次安倍内閣は、既に9人の大臣辞任を重ねている。その度に「任命責任は、全て私にあります」と庇いながら、一度も責任を取ったことがない安倍シンゾウの強シンゾウ!
 こんな嫌な娑婆を離れて、また旅に出ようと思った。

 久住高原に、紅葉が降りてきている。10月が終わろうとしていた。
            (2019年10月:写真:満開のコスモス)

山村の贅……一夜の舌鼓(その1)

2019年10月30日 | 季節の便り・旅篇

 鄙には稀な!……と言えば失礼になるが、こんな山深い村の旅の宿で、これほどのスマートなご馳走を頂くとは思わなかった。しかも、旅の宿に泊まると、ともすれば下を向けないほどの料理にお腹をかかえて呻吟することがあるのに、これは程よい満腹感だった。

 久し振りのドライブ旅行は、その豪華な佇まいに魅せられてネットで選んだ。
 「奥八女別邸・やべのもり」

 矢部川の畔、杉木立に囲まれた広い敷地に、7棟の平屋造りの離れ宿が並んでいる。それぞれが竹垣に隠され、多様な植栽に包まれた豪華な宿だった。
 その中で、最も広い73平米(23坪)の「釈迦岳」という離れを選んだ。福岡県八女市矢部村……周囲を囲む7つの山……釈迦岳、猿駈山、三国山、前門岳、文字岳、城山、高取山…それぞれが離れの名前になっていた。各離れには専用の駐車場があり、フロント棟でチェックインすれば、自分の離れの前に車で移動出来る。
 部屋に案内されれば、あとは自分たちだけの空間。接客は素朴純朴で、決してお上手ではない。しかし、何も構ってくれない気安さが却って心地よいのだ。アツアツの新婚さんや、人目を忍ぶ訳ありカップルには、格好の隠れ宿かもしれない。翌日、太陽が黄色く見えようと、朝の爽やかな大気と温かい湯煙りが癒してくれる。

 数段の階段を降り、玄関を開けると2畳ほどの広い玄関ロビーがある。そこを上がると、琉球畳を敷いた10畳ほどの座敷仕様のリビング。総ガラス張りの明るい部屋にソファーが置かれ、壁には大型のテレビが取り付けてある。その脇の8畳ほどのベッドルームには、クイーンサイズのベッドが二つ、そしてここにも40インチほどの壁掛けテレビが設置されていた。
 3間ほどの総ガラス張りの渡り廊下の奥にトイレと風呂場。2面にガラスが張られた浴室に、3~4人入れそうな御影石の大きな浴槽がある。この浴室とベッドルームに惹かれて、ネットでこの部屋を選んだのだった。
 実は此処は、八女市市有の「山村滞在施設」なのである。調光も、エアコンのリモコンも、シャワートイレも、全自動風呂も、全て最新の仕様で、居心地は申し分なかった。

 辿り着くまでに、小さなハプニングがあった。開設して1年ほどの新しい山宿である。まだカーナビに出ていないのだ。住所で入れても、以前は山林だったのか、そんな番地は存在しない。地図を睨みながら、近くの矢部中学校をナビに入れて筑紫野ICから九州道に乗った。秋の日差しが柔らかく注ぐ午後だった。
 ところが、八女ICで降りるはずなのに、何故かナビは更に南へ走れと指示する。首を傾げながら、八女ICで降りた。ナビが、離合で出来ないような細い田舎道を示し、暫く従っていると、何と一つ南のみやまICで再び高速に乗って南に下れという。道端に停めて、ナビを入れ直した。
 笑うしかない入力ミスだった。矢部中学校が、実は熊本県上益城郡にもあったのだ。十分確認しないまま、2行の上段にあった熊本県の矢部中学校を入れてしまったらしい。苦笑いしながら、みやまICから八女ICまで、九州道を走り戻る羽目になった。
 なに、急ぐことはない。365連休、無為浪々の徒食三昧の日々である。何の慌てることがあろう!……と、これは苦しい負け惜しみである。

 八女市黒木町を過ぎ、矢部村の標識を確かめる頃から、次第に山道が細くくねり始める。羊腸の曲折に神経を遣いながら登り詰めると、そこは長大な日向神ダム。右転左転に悩まされながら、「昔、ダムに沈む前に村を見ておこうと、友だちに誘われて来たことがある」と、カミさんが言う。ダム建設の計画が立ち上がったのは昭和28年(1956年のこと)、60年以上も昔々の想い出話だった。
 ダムを抜けて少し山道を脇に逸れたところに、その旅荘はあった。

 「八女黒毛和牛フィレ&フォアグラステーキ付き特別会席プラン 1泊2食付き15、500円」税サービス込みで一人17,500円を奮発した旅だった。それを「安い!」と感じさせる部屋の佇まいと料理の内容だった。
 地下水を汲み上げた心地よい湯に浸った後、オーストラリア・ワインYELLOW TAILのCabernet SauvignonとChardonnay、赤と白をカミさんと回し飲みしながら羊腸の山道の疲れを癒し、ほろほろと酔い、たんたんと舌鼓を打った。

 今回は、お品書きだけで1編のブログになる。
 前菜八寸(茄子とろめん、栗と占地の白和え、糸雲丹、手作り蒟蒻柚香漬け、鮎万年煮、朴葉寿司、馬もつ煮込み、柿玉子、銀杏串打ち)、お造り(旬の物五種盛り)、吸い物(里の恵みの茸の土瓶蒸し)、台の物(山女魚の姿焼き、粟麩田楽焼き、霞鱒子橘釜盛り)、肉料理(八女産和牛フィレ肉のグリルとフォアグラのソテー~赤ワインソースに季節の野菜を添えて、山葵の風味と共に~)、食事(八女味噌の焼きおにぎり茶漬け、香の物)、デザート(旬の栗を使ったロールケーキに果物を添えて)、珈琲。
 八女黒毛和牛のフィレにフォアグラを載せた主菜は絶品だった。鄙にも稀な!……と敢えて言う所以である。

 酔いを醒まして、再び湯船に浸かった。背もたれして横たわっていても、油断すると頭までズブズブと沈み込んでしまいそうな大きな湯船だった。白く渦を巻いて立ち上る湯気を見上げながら、何とか乗り超えてきた夏を思い出していた。失った体重も取戻し、夏バテからも漸く抜け出した実感がある。
 傍らを流れる矢部川のせせらぎさえ聞こえない静寂の中に、あとは、ただひたすら爆睡Zzz……。
                (2019年10月:写真:主菜・フィレ&フォアグラ)

神守る島、大島

2019年10月23日 | 季節の便り・旅篇

 玄界灘の沖合遥か48キロ、強い北風に波騒ぎ、白いウサギが跳び交う波濤の彼方に、世界遺産「沖ノ島」が霞んでいた。年間僅か50日しか見ることが出来ない貴重な姿を遥拝出来た僥倖。福岡県宗像市大島の北、素朴な佇まいの宗像大社沖津宮遥拝所で、風の中に暫し佇んで感慨に耽っていた。
 神宿る島・沖ノ島、そして神守る島・大島……48キロを隔てる海に、確かな神の道を見た。

 玄界灘の真っ只中に浮かぶ周囲4キロメートルの沖ノ島。宗像大社の神領(御神体の島)で、沖津宮が鎮座している。 2017年、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群の構成資産の一つとして、ユネスコにより世界遺産に登録された。
 「神の島」と呼ばれ、島全体が宗像大社沖津宮の御神体で、今でも女人禁制の伝統を守っている。山の中腹には宗像大社沖津宮社殿があり、宗像三女神の田心姫神(たごりひめのかみ)が祀られている。
 島は一般人の上陸は許されない。男の神職がたった一人10日交代で島に渡るが、御前浜でまず全裸で海に入って禊(垢離)をしなくてはならない。そして、毎朝、神饌を供える「日供祭」が日課である。
 古墳時代前期、4世紀後半頃からとされるが、一般人の上陸が禁止されていたが故に手付かずで残ったおよそ8万点の関連遺物全てが国宝に指定されている。しかし学術調査されたのは祭祀遺構全体のまだ3割にほどであり、その多くはいまだ手付かずの状態で残っている。こうしたことから、沖ノ島は「海の正倉院」と称され、島全体が国の天然記念物に指定されている。

 NHK講座、博多座大歌舞伎の大向うの会「飛梅会」足立会長が講師を務める「歌舞伎のみかた」講座に初級・中級・上級と数年通ううちに、坐る席が固定し、近くの聴講生と親しくなり、講座が終わってお茶会をする7人の仲間が出来た。それぞれご贔屓の役者がいて、話題には事欠かない。何故かこの会も、私以外は全て女性である。
 同じ太宰府のYさん(Y農園の奥様)は、高麗屋の染五郎、糸島に住むKさんは、音羽屋の彦三郎・亀蔵兄弟、福津市のMさんは大和屋の玉三郎、太宰府のGさんは澤瀉屋の猿之助、もう一人音羽屋贔屓のSさんが転勤で徳島に去った後、新たに加わった糸島のYさんは松嶋屋の仁左衛門と播磨屋の吉右衛門。
 カミさんは、特に誰というより歌舞伎そのものが好きなのであり、その意味で歌舞伎役者全てがご贔屓ということになる。
 私は、専ら大向うで3階席から「松嶋屋~ッ!」「成駒屋~ッ!」などと声を落とすのを楽しんでいる。
 見得や所作の一瞬にタイミングを合わせて声を落とす、その緊張感がたまらない。だから、少々眠たくなる古典物でも、居眠りすることはない。但し、舞踊物だけは素人には難しく、おとなしく見入るだけである。だから、時々居眠りしてしまう。
 「飛梅会」から再三勧誘を受けたが、幕内に束縛されるのが嫌いだから、江戸庶民に留まって一般人として気儘に声掛けを楽しんでいる。敢えてご贔屓と言うならば、山城屋・坂田藤十郎の孫である成駒屋の壱太郎かな?
 もう講座は9月で閉講してしまったが、「このまま会わないのは寂しいから、時々美味しいもの食べながらお喋りしようよ」ということになった。その初回として、Mさんの縄張りで海鮮を楽しもうと、秋たけなわの一日を集まったのだった。

 Mさんが用意してくれた車に7人で乗り込み、宮地嶽神社に詣で、民宿「しらいし」のレストラン「達(だるま)」で海鮮料理に舌鼓を打ち、神湊から25分フェリーに揺られて大島に渡った。
 小さなバスに乗り込み、細く曲がりくねった山道に胆を冷やしながら、渡船ターミナルから宗像大社沖津宮遥拝所、日露戦争の砲台跡まで走り、再び遥拝所に戻って下車、沖ノ島遥拝の僥倖に巡り合ったのだった。
 Mさんが用意してくれたレンタカーで宗像大社中津宮、大島灯台まで案内してもらって、再びフェリーで神湊に戻った。
 Mさんが最後に用意してくれたのは、閉門間近に滑り込んだ宗像大社詣でだった。

 こうして、神と触れ合う一日が終わった。自ら運転することなく、巧みなMさんのハンドルに任せて、後部座席でのんびりと揺られる心地よさ!時には、こうして人の運転に身を委ねるのもいいものだ。
 朝、JR二日市まで車で送って下さったYさんのご主人に、地酒「沖ノ島」と「大島」を買って手土産とした。
            (2019年10月:写真:洋上遥かに見る「神宿る島・沖ノ島」)

遠ざかる昭和

2019年10月12日 | つれづれに

 夜の電車に乗った。始発駅だったから、幸い優先席に坐ることが出来た。次々に席が埋まっていく。発車寸前に3人連れの若い女性たちが賑やかに乗ってきた。そこまではよかった。
 坐るなり、それぞれ取り出したスマホを忙しく操作し始めた。友だち同士の会話もなく、ずっと沈黙のままである。見渡せば、前の列の乗客も、そしてこちら側の列も、そして立って吊革につかまる人も、ただ黙々とスマホをいじくる人の列である。ガタンゴトンと線路を走る電車の音だけが響き、異様な沈黙だけが車内を支配していた。
 毎度のことながら、スッと背筋が寒くなる。そこにいるのは、人であって人でない。会話も通じ合うものもない、孤立した人間の集まりでしかなかった。「スマホ依存症」が、正式な病名として定着した。車内には、無数の予備軍が溢れていた。
 日本が壊れて行っている。生きた「本人」が見えない仮想空間の電波の中でしか生きられない人間が増え続けたら、令和はどんな時代になるのだろう?

 電車の床に座り込む高校生や、座席で化粧をする若い娘、パンやお菓子をぱくつく女の子などは、あまり目にしなくなったが、これもこちらがその時間帯に電車に乗らないようになったから目につかないだけかもしれない。
優先席での狸寝入りは少なくなってきた。譲ってくれるのは、嬉しいことに若い人たちである。「中年のおばちゃん」は、先ず100%譲ってくれることはない……と思っていたら、数日後の昼間の電車で、「中年のおばちゃん」に席を譲られた。
 「すみません、ありがとう!」と言って座らせてもらったが、譲った人は気恥ずかしそうに向こうの吊革に移って行った。席を譲る行為には、譲る方も譲られる方も、少し気まずい思いが付きまとうものかもしれない。
 優先席に坐って、持ち歩いていた文庫本を開いた。ふと気が付くと、右隣りの人も左隣の人も本を開いていた。近年の奇跡である!昔、昭和の時代は、電車に乗ったら本を読むのが当たり前のことだった。平成に喪われたものが、こんな形で生き残っていたとは!……この日は一日ご機嫌だった。

 一方通行のT字路から県道に出ようとする。或いは、一車線の道から右折しようとする。おとなしく待っていても、譲ってくれる人は殆どいない。一台譲ってくれたら、後ろに無駄な渋滞が起こることもないのに、ここでも「中年のおばちゃん」は、ほぼ100%譲ることはない。自動車学校は、技術は教えても、当たり前の常識は教えてくれないのだろう。 
 譲ってくれるのは、バス、タクシー、宅急便、ダンプカー、大型トラックなど、プロの運転手たちである。日頃から、無駄な渋滞に悩まされているから、運転者としての常識を知っている。
 しかも、譲ってあげたら、その後ろの車が手を上げて礼意を告げてくることがある。それもプロの運転手たちである。だから私も、前の車が譲ってもらってスムーズに直進出来た時には、対向車線で譲ってくれた運転手に片手を上げて挨拶するようになった。
 大型ショッピングセンターの一方通行の駐車場で、平気で逆走してくるのも「中年のおばちゃん」である。クラクションを鳴らすと、睨み付けてくる凄まじさ!女が長生きするはずである。

 ちょっとした気働き、気遣いが次第に希薄になっていった平成から令和、人と人の生身の触れ合いが急速に希薄になっていく時代に、遠くなった昭和に想いを馳せることしきりである。
 自身を振り返り、厭味ったらしい頑固爺にだけはなるまいと……いやいや、こんなブログを書いてること自体が、既に頑固爺の嫌味かもしれない。
 恨みは深し、「中年のおばちゃん」!……昭和は、いい時代だったなぁ。

 日頃の憂さを晴らし、ああスッキリした。因みに、今の私の交友守備範囲は、殆どが「高齢のおばあちゃん」である。
 せめて、綺麗な空の写真を添えよう。
                   (2019年10月:写真:昼下がりの秋空)

赤壁の賦

2019年10月11日 | つれづれに

 百舌の裂帛が朝の大気を切り裂き、唐突に秋がやって来た。

 朝焼けの微かな名残りのヴェールを纏った宝満山や四王寺山の稜線が、雲一つない青空に伸びあがる。まだ日は昇らない、午前6時半の散策である。
 起き抜けの30分間のストレッチで熱くなった身体を、一気に風が冷やしていく。朝晩だけ纏う長袖に薄いウインドブレーカーを羽織っていても、少し肌寒い朝だった。数日前の、あの33度の暑さは何だったのだろう?クローゼットの半袖を長袖に入れ換え、また慌てて半袖に戻し、また長袖に替える。この嘲笑うような季節の気紛れに右往左往しながら、何とか厳しい夏を乗り切ったかな、という安堵を感じていた。

 道の傍らの藪の中に、フジバカマの小さな群落があった。そろそろアサギマダラの南帰行の時期である。本土から遥々南西諸島や台湾に向かって、1500キロ以上の距離を、個体によっては一日200キロもの速さで飛ぶ。
 そんなひたむきな飛翔の途上の遥か上空から、僅かなフジバカマやヒヨドリバナなどの限られた花を、いったいどうやって見付けるのだろう?初夏のころ、大分県・姫島の浜辺のスナビキソウに立ち寄るアサギマダラの群舞は、あまりにも有名である。

 九州国立博物館・特別展「三国志」を観た。2000年の昔、漢王朝亡びた後の中国、魏・蜀・呉が天下を争った。魏の曹操、蜀の劉備、呉の孫権、……私にとっての「三国志」は、中原に鹿を追う群雄たちに血沸き肉踊らせた青春のひと齣でもあった。吉川英治「三国志」、中学生の当時は全13巻の単行本だった。
 劉備元徳、関羽雲長、張飛翼徳の絆。そして、劉備が「三顧の礼」をもって迎えた智謀の人・諸葛亮孔明。しかし、後に加わる趙雲子龍が、私にとっての英雄だった。
 関羽の愛馬・赤兎馬は、今こそ焼酎に名を残すばかりだが、稀代の名馬で一日に千里を駆けた。董卓、呂布、そして魏の曹操と渡ったが、その気性の荒さに誰も乗りこなすことが出来なかった。関羽を部下にしたくて気を惹こうとした曹操が、虜囚の関羽に与えたところ、「一日千里を駆ける馬を得て、劉備の許に帰れる」と喜んだという。関羽が処刑された後、赤兎馬は秣を喰うことなく、自ら死を選んだ。

 会場の一角、天井いっぱいに矢が飛んだ。有名な戦い「赤壁の賦」で、蜀の諸葛亮孔明が策略を凝らし、僅か3日間で10万本もの矢を集めた。その有名な場面の再現だった。
 使われているのは僅か1000本の矢ではあったが、「三国志」にのめり込んだことがある私にとっては圧巻の再現展示だった。
 「三国志」の終章近く、劉備亡きあとの幼帝・劉禅を残し北伐に臨むに際して、諸葛亮孔明がしたためた「出師の表」は、中学生の私の心を捉えて離さなかった。その全文を暗記しようと、無謀な挑戦をした。
 「先帝、創業いまだ半ばならずして。中道に崩殂せり。今天下三分し益州は疲弊す。これまことに危急存亡の秋(とき)なり。しかれども侍衛の臣、内に惰(おこた)らず、忠士、身を外に忘るるものは、けだし先帝の殊遇を身に負うて、これを陛下に報いんと欲するなり……」ここらあたりで挫折した。
 「……臣、恩をうくるの感激にたえざるに、今まさに遠く離れまつるべし。表に臨みて涕泣(なんだ)おち、云うところを知らず。」
 こう結んだ諸葛亮孔明47歳、蜀の建興5年のことだった。
 時の校長(私の母校では、校長と言わずに主事と呼んだ)が、当時は珍しかった外遊に発つに際し、今は亡き親友の一人(貝原益軒13代目の孫)が、この「出師の表」を読み上げて献じた……そんな想い出に包み込まれながら、暫く時を忘れて矢の雨を見上げていた。

 高校入試の1週間前、全ての勉強を断って、「三国志」全13巻二度目の読破に掛かった。試験までに読み終ったら合格する……何故かそう信じていた。半ば徹夜で1日2冊を詠み続け、試験前日の夜遅くに読破した。
 今なら冷や汗ものの無謀な挑戦だったが、無事に目標の高校に合格した。合格発表の後に担任の国語教師にそのことを話したら、呵呵と大笑いして喜んでくれた。おおらかな、いい時代だった。(因みに、この教師に巡り合ったことで、私は書くことの楽しさを知った。)

 帰り着いて、分厚い文庫本5巻に変わった吉川英治「三国志」、多分五度目の読破に掛かった。いまは、青春時代に想いを馳せる回春(?)の書となった。
 「読書の秋」である。
                (2019年10月:写真:「三国志・赤壁の賦」十万本の矢)

祈りの朝に

2019年10月05日 | つれづれに

 暦の上では秋たけなわというのに……33度!観測史上、10月の最高気温を記録。そんな大宰府である。
 夏バテの名残を引き摺りながら、今日も照りつける日差しの苛烈さに辟易している。また秋が短くなる。四季折々の風情を大切にしてきた日本が、急速に亜熱帯に変わりつつある。有識者の温暖化予測には、どこか大きな「嘘」が感じられてならない。

 ジジババの不調を心配した長女が、早朝・深夜の格安航空券を使って助っ人に来てくれた。その前日、通勤途中の階段で人にぶっつかられ、転倒して半月板を痛めたというのに、びっこ引きながら予定通りやって来てくれた。気が緩んだのか、俄かに身体が重くなった。
 カミさんと二人、すっかり娘に甘えて家事万端を引き受けてもらった。僅か6日間の滞在だったが、老々介護予備軍みたいだった我が家に、暫しの安らぎが戻った。「持つべきものは娘」と実感しながら、朝晩少し涼しくなった日々に元気を取り戻しつつある。
 あまりにもシンドイので、掛かりつけのホームドクターに検査を頼んだ。しかし、結果は全ての数値は正常値、心配していた前立腺も異常なしだった。やっぱり、夏の暑さに負けただけらしい。(歳のせいと敢えて言わないところは、切ない負け惜しみである。)

 いつもの朝のストレッチを終えて、6時過ぎに朝のミニ散策に出る。我が家から歩いて5分も掛からない所に、石穴稲荷神社がある。石の鳥居を二つ潜り、赤い鳥居が立ち並ぶ石段を30段ほど上がると本殿。その脇を更に30段ほどを登ったところに奥の院がある。
 奇岩怪石がごろごろ転がる昼なお暗い空間に、お狐さんが睨みを利かす。不気味ささえ感じる此処は、かつて子供会の肝試しの場だった。公民館に泊まり、児童公園でのキャンプファイヤーで盛り上がった後、2人一組でこの奥の院のノートに記帳させに行かせる。中学生になっていた長女たちは、途中で子供たちを怯えさせるお化けの役だった。
 以来カミさんは、昼間でも怖いからと、奥の院までは登って行かなくなった。

 「かんなびのうましところ」……二の鳥居の側に置かれたパンフによれば、古くから博多商人の間で、佐賀県鹿島市の祐徳稲荷、福岡県飯塚市の大根地稲荷と並ぶ、九州三大稲荷として信仰を集め、特に霊験あらたかなお稲荷様として親しまれてきたという。詳しい文献資料は残ってないそうだが、明治の由緒書きや信者の家々に伝わる伝承によれば、菅原道真公が太宰府に下られた際、道真公をお守りして一緒に京都から太宰府に来られた神様とする伝説が有力という。(因みに、太宰府は菅原道真公なしには語れない。意地悪な言い方をすれば、それしか語るものがない……こんな言い方をすると、太宰府に住めなくなるかもしれない。それほどに、道真信仰が熱い土地柄である。)
 更に、こんないわれも書いてあった。幕末、尊皇攘夷の公卿五人が太宰府に身を寄せた。その筆頭で後に明治政府の太政大臣となった三条実美公が、太宰府の延寿王院に滞在中に大事な太刀を紛失した。困った実美公は石穴稲荷神社で所願成就の祈禱を行ったところ、たちどころに太刀が現出し、ご神徳のお蔭を感謝した実美公は幣帛を奉納、その後も五卿らと石穴稲荷を訪れた。三条実美公が奉納した唐櫃は、今も大切に保管されているという。
 明治31年には、膝を痛めた横綱千代の山が怪我の回復と必勝祈願に参拝、翌年の場所で全勝優勝を果たしたという。
 日頃は意識しない小さなお稲荷さんだが、どうしてどうしてとんでもない由緒を持っていた。
 
 一日の家族の平穏を祈り、お狐様の頭を撫でた手で肩の神経痛を撫でることが、この夏以来の習慣になった。仄暗い杜の中に何本ものウバユリが立つ。地味な花を愛で、やがて楕円形の実が次第に大きく膨らむ。その変わりゆく姿を見守るのも毎日の楽しみである。
 小さな池では、時折アオサギが佇む姿も見かける。
 昨夜は、この森から久し振りにフクロウの声が届いた。

 38度の酷暑に負けたのか、今年はオキナワスズメウリもカラスウリも花実を着けない。
朝晩のハナミズキの落ち葉を掃くだけの、寂しい秋である。
               (2019年10月:写真;仄暗い石穴稲荷奥の院)