蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

歩き納める

2015年12月29日 | つれづれに


 刈り上げた頭に早朝の風が滲みて、思わず首を竦めた。朝一番の理髪店、もう40年以上の付き合いである。先代が昨年亡くなられ、今は二代目さんが手のかかる短髪の白髪頭の面倒を見てくれている。
 ようやく低い山の頂から注ぎ始めた日差しに誘われて、今年の散策納めに歩き始めた。道端で杖を突いて休むお年寄りが、「足が元気で、よかですなぁ」と声を掛けてくる。さほど違わない歳とお見掛けしたが、本当に羨ましそうな声に、少し申し訳ない気持ちになる。
 毎年百八つの煩悩を払う除夜の鐘を撞いていた、光明寺の山門の前を過ぎる。先年、住職が変わってから鐘を撞かせてくれなくなって、太宰府の大晦日の風物詩がひとつ失われた。心無いことである。

 九州国立博物館へのなだらかな九十九折れをゆっくりと辿る。ツワブキの枯れ花が侘しげに道端に立ち、この時間の人影はない。既に年末休館となった博物館は、お掃除をする人たちだけが黙々と働き、元旦から始まる特別展「黄金のアフガニスタン」(守りぬかれたシルクロードの秘宝)の開会に備えていた。
 水仙が甘い香りを漂わせる雨水調整池を廻る散策路に降りると、道端ののり面はイノシシの乱暴狼藉!まるで耕耘機で耕したように掘り返され、春の芹摘みを楽しむ湿地の水たまりも、イノシシが転げまわる「ぬた場」(身体についた虫や汚れを落とすために泥浴びをする場所)となっていた。近年、この辺りもイノシシが増えた。タヌキやノウサギは前から棲んでいたが、イノシシの激しい出没は此処数年のことである。人間に対する大自然の逆襲が始まっているのだろう。町内でも猿の目撃情報が出始めている。
 115段の急な階段を上がり、すぐに左に折れて「野うさぎの広場」への道に登りあがる。いつものように長めの枯れ枝を拾い、それで道に散った枯れ枝を左右に払っていく。次に歩く人のために、自分に課しているささやかな決め事である。といっても、行き止まりのこの道は知る人も少なく、いつも殆ど人に出くわすことはない。今日も、鳥の声と風の音だけの静寂だった。
 緩やかな上り下りの果てに登り詰めて、小さな広場に辿り着く。「野うさぎの広場」と名付けた、私の秘密基地のひとつである。時には急ぎ足の散策に煽る動悸を鎮め、滴る汗を拭い、ポットのお茶で渇きを潤し、季節によっては汗に慕い寄る藪蚊やぶよを叩きながら、落ち葉の褥にシートを敷いて木漏れ日を浴びる。時には静寂に包まれた至福の空間に、野性の雄叫びをあげそうな衝動に駆られることもある。そんな独り占めの、得難い自然の懐である。
 熱く火照った身体を風になぶらせながら倒木に腰をおろして、木立の向こうの博物館の青い屋根を無心に見下ろしていた。

 山道を戻って天神山を廻る道に移り、天満宮に下っていく。たまに行き交う散策者は、なぜか私も含めて高齢の男性ばかりである。この慌ただしい年の瀬に、おそらくあまり役に立たない「大型粗大ごみ」みたいな存在なのかな?と、ひとり自嘲しながら、それでも楽しく歩みを進めていった。
 やがて左手に、十数人の人々が立ち働く「鬼すべ堂」が見えてきた。普段は柱だけのお堂に板を張り、その前に藁を積み上げて、日本三大火祭りのひとつ「鬼すべ神事」の準備が進められていた。この神事が執り行われる1月7日は、何故かいつも酷寒の夜となる。40年以上太宰府に住みながら、寒がりの私は一度も見たことがないという「幻の神事」である。焚火の煙を盛大にあげながら立ち働く氏子たち、師走ならでは目立たない陰の風物詩である。 
 博物館のエントランスにはいり、散策の仕上げに、エスカレーターを横目に見ながら120段の階段を上がる。わずかな間に、お掃除の人の数が増えていた。

 男女3人連れの若い人たちが、記念写真を撮っていた。うん、そこは惜しい!
「此処が、絶好の撮影スポットですよ!」と声を掛けて招いたら 
 「スミマセン、シャッター押していただけますか」
 丸い「九州国立博物館」と書かれた看板の脇に3人を立たせ、バックに博物館の全景を入れてシャッターを落とした。総ガラス張りの壁面に山の緑が写り込み、自然に溶け込むことを趣旨とした、この世界屈指の博物館の全容が写し込まれるのは、此処が最高の立ち位置なのだ。
 「ありがとうございました!」という声に、ちょっと気分を良くして89段の石段を下りきった県道は、三が日は車で埋まり、寸刻みで動く数時間がかりの初詣渋滞となる。

 道を横切って住宅地にはいり、筑紫女学院大学の裾を巻くように家路につき、角を曲がって我が家が見えた瞬間、携帯電話(ガラ携!)の歩数計が高らかにファンファーレを奏でた。目標の8,000歩達成!山道と階段の8,000歩だから、平地の15,000歩くらいには相当するのだろうか?痛めた膝を気にすることもなく、それなりにハードな強歩を楽しめるのも、もう2年近く続けている毎朝の30分のストレッチの成果だろう。
 年の瀬に為すべき納めを、ほぼ終えた。今年のブログも、ここら辺りでファンファーレを流して納めることにしよう。
                (2015年12月:写真:「鬼すべ堂」準備風景)
<注釈>「鬼すべ神事」
 太宰府市編纂の「太宰府市民族資料編」によれば、「鬼すべ」は寛和2年(986年)、菅原道真の曾孫・大宰大弐の任にあった菅原輔正によって始められたと伝えられる、福岡県無形文財指定の火祭り。総勢500人もの氏子達が招福・攘災を願って繰り広げる炎の祭りである。
 悪魔の象徴の鬼を太宰府天満宮の「鬼すべ堂」に追い込み、煙で燻し出して退治するというもので、太宰府天満宮の門前町六町の氏子たちが、鬼、鬼の味方・敵方に分かれて繰り広げる。
 午後9時に各町内を出発した氏子たちは、「鬼すべ斎場」に集結。堂の前に作られた燻釜に火が放たれ、唐団扇で扇ぐ燻べ手と堂内の板壁をテン棒で打ち叩く。その間、鬼係に囲まれた鬼は堂内を七回半、堂外を3回半回り、堂内では宮司に、堂外では氏子会長に一回りごとに豆を投げつけられ、卯杖で打たれ、堂の奥に退散して、「鬼すべ」は幕を閉じる
 


周章蝋梅?!

2015年12月27日 | 季節の便り・花篇

 今年最後の「四字熟語辞典」をひもどく。
 
 夫婦で漢字パズルにハマり、もう15年以上我が家のテーブルからこの種の雑誌が消えたことがない。いろいろ試してきたが、一番のお気に入りは難問満載の「ナンパラ・スペシャル」と「超特大版漢字ナンクロ」。最初の頃は解答を送り商品をゲットすることを楽しんでいたが、全問正解で米沢牛の鋤焼肉をもらっ以来気持ちも吹っ切れ、今は脳の老化防止の為のチャレンジと割り切って暇潰ししている。
 解答の基本は四字熟語にある。元々漢語や漢詩が好きで、四字熟語は、それなりに知っているつもりでいた。会社時代には年頭の本部長挨拶に必ず四字熟語をまぶして、現場の所長達を狼狽えさせるのを楽しみにしていた。ささやかな悪戯である。
 しかし、漢字パズルにハマり、四字熟語辞典」なるものの存在を知って早速買い求め、自信は一気に崩壊した。収録されている数、実に5,600項目余り!僅か100項目やそこら知っているくらいでは、「四字熟語に詳しい」なんて言っていられない恐るべき数だった。還暦過ぎて浅学菲才・無知蒙昧を思い知らされた、貴重な愛蔵辞書である。
 愛読書のひとつに、有川浩(「ひろ」と呼んで、実は自衛隊オタクの女流作家)の「空飛ぶ広報室」に、自衛隊を譬える愉快な四字熟語がある。寸借して紹介すると「勇猛果敢・支離滅裂」(航空自衛隊)、「用意周到・動脈硬化」(陸上自衛隊)、「伝統墨守・唯我独尊」(海上自衛隊)、「高位高官・権限皆無」(統幕)、「優柔不断・本末転倒」(内局)……。
 笑っていられるうちはいいが、さて安倍政権が目論む「戦争が出来る国」の行方は如何?…肌が寒くなる現実である。

 閑話休題(それはさておき)。

 昨年より24日も早く、庭の蝋梅が綻んだ。師走終わり近いクリスマスの開花である。暖冬、此処に極まった。大慌てで開花を急いだ蝋梅に、思わず苦笑いする。
 例年になく師走感が乏しい年の納めである。この分では、初詣の雪の心配もなさそうだし、一番喜んでいるのは、三が日で200万人の参詣を待ち望む太宰府天満宮かもしれない。
 大渋滞と交通規制により、実は地元住民にとっては外出もままならぬ一番厄介な三日間なのだ。通常であれば、九州道太宰府インターから15分で着く天満宮が、この三が日は5時間掛かりの大旅行となる。朝早く車で出たら、暗くなるまで我が家に帰れないし、タクシーも救急車もこの時期には来てくれない。病に倒れないように、じっと「炬燵猫」を決め込んで、お節とお屠蘇とテレビと読書と転寝で、三が日が過ぎるのをひたすら耐えて待つしかないのだ。

 「周章狼狽」を「周章蝋梅」とふざけて、「四字熟語辞典」を引いた。
 ≪大いにあわてること。非常にあわててうろたえること。」「周章」「狼狽」はともにあわてる意。「狼」「狽」はともに伝説上の獣で、「狼」は前足が長くて後足が極端に短く。「狽」は前足が極端に短くて後足が長い。「狽」が「狼」の後ろに乗るようにして二頭は常に一緒に行動するとされ、離れると動けず倒れてしまうことから、うまくいかない意。慌てふためく意に用いる。「周章」に「狼狽」を添えて意味を強調する。
 類義語:右往左往、心慌意乱  対義語:意気自如、意気自若、神色自若、泰然自若≫

 この解説だけでも、知らない四字熟語が4つも現れる。言葉の世界は、実に深く広い。

 家内の治療の総仕上げの為に帰省を断ったから、娘たちも孫たちも帰ってこないジジババだけの三が日の「炬燵猫」。また漢字パズルで「閑中有閑」の日々を重ねることだろう。
 
 それもまた良し。メジロも庭先に訪れ始めたし、長閑な越年である。
                 (2015年12月:写真:綻び始めた蝋梅)

年の納めに……

2015年12月21日 | つれづれに

 師走の雨の中を、足早に年の瀬が迫ってくる。玄関の羊の飾り物の後ろには、早々と「繁栄」と書かれた木札を従えた猿の置物が蹲って出番を待っている。お気に入りの香川県出身の彫刻家・三枝惣太郎の鋳鉄の干支を集め初めて12年、最後の猿を先日天満宮の参道で求めてきた。次にこの置物を飾ることはあるのだろうか?……そんな感懐に耽ることの多い近年である。年賀状の投函も終わり、昨日植木屋さんが整えてくれた庭木には、春を待つ新芽が芽吹き始めていた。

 家内が主宰する「たまには歌舞伎を観よう会・はしばみ会」は、恒例の「博多座文楽公演」で年を納める。11回を重ねる年末二日間限りの昼夜4公演、初日と千秋楽しかない舞台だから、チケットを取るのに苦労する公演である。幸い、「はしばみ会」の団体は、一般売りに先立ってチケットを押さえることが出来るから、今回もA席34名の希望者全員の観劇を実現することが出来た。歌舞伎公演は、たまに100枚を超すこともあるが(特に要望がない限りは、3階のC席で観ることを主旨としている)、年に1回の文楽はまだまだ動員が少ない。それでも、その度に「初めて観ます!」という仲間が増えることを、家内は何よりもの楽しみにしている。

 初代吉田玉男没後10年、還暦を越えた吉田玉女が2代目を襲名、その披露公演と銘打った貴重な舞台であることに加え、三味線の鶴澤清治・鶴澤寛治、人形遣いの吉田蓑助と、3人の人間国宝の「芸」に酔いたくて、二日に分けて昼夜の席に座った。いつも思うことだが、文楽の客席には美しく着こなした着物姿の女性が多い。ついつい前の席の女性の襟足に見入ってしまうのも、文楽鑑賞の隠れた魅力のひとつかもしれない。

 「足遣い十年、左遣い十五年」と言われる文楽の人形遣いは、長い修行を経て主遣いとなる。しかし、人形浄瑠璃は「とざ~い!」と紹介されるのは義太夫の太夫と三味線だけで、人形遣いが紹介されることはない。「ユネスコ世界文化遺産」として守られる日本の伝統芸の、不思議なしきたりである。私自身も、義太夫七分人形三分で、専ら義太夫を聴くことに意識を集める。
 文楽の襲名披露口上を初めて観たが、歌舞伎と違って吉田玉男本人の挨拶は一切ない。裃を着て平伏するだけの姿に、新鮮な驚きがあった。

 芝居の詳細を語るのは、この道に造形深い家内の分野であり、迂闊に書くと娘に「お母さんの世界を侵害しないで!」と叱られるから措くとして(笑)、やはり圧巻は「一谷嫩軍記」だった。「熊谷陣屋」の段で、床本の文字を目で追いながら、竹本千歳太夫の情感豊かな義太夫に聴き惚れた。吉田玉男遣う袈裟白無垢姿となった熊谷次郎直実が「……十六年も一昔、あァ夢であったなァ」と詠嘆する名場面で、歌舞伎の中村吉右衛門の姿が彷彿し、思わず「播磨屋ッ!」と声を掛けたくなった。

 「釣女」で、鶴澤清治の三味線を聴けたのは何よりだった。短いこの狂言だけの出演で夜の部に出番はなく、「随分年を取られたなァ…」と淋しさが付きまとう。2014年5月26日、国立劇場小劇場で「恋女房染分手綱」沓掛村の段のキリを務め、68年の太夫人生に幕を下ろした竹本住太夫と共演したテレビ番組、「闘う三味線 人間国宝に挑む~鶴澤清治~」の映像を思い出しながら、耳と目で鶴澤清治の姿を追っていた。

 翌日観た夜の部、「桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)」六角堂の段で、吉田蓑助が普段なら決してやらない筈の端役・丁稚長吉を遣っていたのも、襲名公演ならではのご祝儀だろう。(蓑助の出番も、この段だけだった。)

 家内はC型肝炎最後の治療中、「やっぱり私は夜は用心しておく」というので、今回は一人で観た夜の部で、嫌なことがあった。早めに着いて席に弁当と、筋書とオペラグラスを入れた袋を置き、トイレに立った。帰って来ると、その袋だけが見当たらない。周囲の人や博多座の係員も一緒になって座席の廻りを探してもらったが出てこない。諦めかかっていたが、ふと気になって後ろの席の中年の女性の足元に置かれた袋を見せてもらったら「あ、あなたのものだったんですか」
 探しているのを見ていながら、この言いぐさにムカッときた。善意に解釈すれば「昼の部のお客さんが忘れていったのかも」と思ったのかもしれないが、だったら博多座に届けるべきだろうし……探しているのを知っていながら知らん顔していたのは、あわよくば猫ババしようとしたのだろう。
 問い質そうかとも思ったが、今日は年の納めの観劇、腹立ちを鎮めて舞台に見入った。因みに、この女性、始まるとすぐに鼾をかいて寝ていた。博多座の観劇マナーはまだまだである。

 舞台の余韻に浸りながら一人走る都市高速は、暖かい雨が降りしきっていた。師走の年の瀬が迫ると、いろいろ納めることが増えてくる。願わくは、人生の納めとなりませんように!
           (2015年12月:写真:「博多座文楽公演筋書」)

 <注釈>床本(ゆかほん、ゆかぼん):義太夫節の太夫 (たゆう) が床で語るときに使う、舞台用の比較的大形の義太夫本。それを読みやすい活字にして、筋書の中に挟んである。耳に馴染まない義太夫節も、これを読みながら聴くとよく理解できる。

二十五万両の財宝!?

2015年12月10日 | つれづれに

 閑中有閑にして、さらに閑有り……。

 およそ300枚の年賀状(生存証明書)も書き終わって、慌ただしい師走にもかかわらず蟋蟀庵は閑古鳥が鳴き、しめやかな雨に包まれている。ニコチャンマークを描いた八朔が2個、雨に濡れて顔中汗を流して笑う昼下がりである。
 陋屋の庭のあちこちに立つ万両(マンリョウ)の実が、ようやく真っ赤に染まってきた。数えたら25本、山の実りが悪い時にはヒヨドリが群れ為してやって来て、姦しく鳴きたてながら庭にある全ての実を食べ尽くしてしまう。幸い今年は寒椿の花を啄んで散らしまわっただけで、今のところおとなしい。その寒椿の陰に、黄色い実を着けるキミノマンリョウが1本、斜めに傾いで実を着けた。

 マンリョウは、その花言葉の一つに「寿ぎ」とあるように、正月用の縁起木として江戸時代から愛好されていたという古典園芸植物(江戸時代に日本で育種、改良され、独自の発展を遂げた園芸植物、また明治時代以降でもその美的基準において栽培、育種されている植物の総称)の一つである…と、ネットにあった。
 同じ時期に真っ赤な実を着ける千両(センリョウ)、百両(ヒャクリョウ)、十両(ジュウリョウ)、一両(イチリョウ)がある。ヒャクリョウはカラタチバナの別名、そしてジュウリョウはヤブコウジ(藪柑子)、イチリョウはアリドオシの別名であり、1の位から万の位まで揃い踏みさせて、江戸の人たちは縁起を担いでいたのだろう。このうち3つを揃えて「千両・万両・有り通し」と洒落て、常にお金に困らないことを願ったという。
 わが家の庭にはセンリョウ、ヒャクリョウ、イチリョウはないが、25本のマンリョウのほかに、数えきれないほどのジュウリョウ(藪柑子)が陋屋を囲む塀の陰に生え広がっている。「合わせて二十五万数千両の財宝!」……と悦に入って、ほくそ笑んでいる。罪のない暇つぶしである。

 「もう、欲はない」と言いながら、先日家内の病院の帰りにゲンを担いで、九州道のサービスエリアで年末宝くじを買った。10億円なんて使い道がないし(言い訳じみてるな)、より当選本数の多い7千万円に運を掛けた。当たったためしはないが、誰かが当たっていると思うと「やっぱり、買わなきゃ当たらないよね!」という、いつもの言い訳をしながらささやかな夢を買った。当たらなくても、わが家の庭には二十五万数千両の財宝がある♪♪♪

 毎朝下手な主題歌を聞かされるのには辟易するが、物語に惹かれて朝ドラを観ている。主役はともかく、脇役陣の厚みと演技に支えられているのは毎度のことながら、一日のリズムを作る数少ない日課のひとつである。
 年賀状を書きながら、ふと今年は「喪中欠礼」のハガキが少ないのに気付いた。例年の3割ほどしか届いていない。私たちの世代は、もう親の看取りも殆ど終わったという事だろうが、稀に親の喪に服しているハガキが届くと、この歳までの大変なご苦労を思いやる。我が家では16年前までに4人の親を彼岸に送り、リタイア後は自由気ままに過ごすことが出来た。頭も身体も健康なままならいいが、子供にとって長生きし過ぎる親も困ったものかもしれない。
 一方で、伴侶や兄弟姉妹を喪った「喪中欠礼」が年々増えていく。これも切ないことである。

 大晦日まで3週間というのに、1ヶ月季節を戻した異常な暖かさで、土筆や蕗の薹の便りが届く。庭のユキヤナギも狂い咲きし始めた。エルニーニョにしろ、地球温暖化にしろ、いずれはクリスマスの頃に紅葉を愛でることになるのかもしれない。

 小人閑居して為すべき不善もなく、ぼんやりと鉛色の空を見上げて、降りやまぬ師走の雨音を聴いていた。
                 (2015年12月:写真:マンリョウ)

寒月の夜に

2015年12月01日 | つれづれに


 色付きの悪い紅葉をよそに、たわわに実る八朔が見事に色付いてきた。いたずら書きしたニコチャンマークも、黄色く頬を染めて師走の日差しを浴びている。
 慌ただしく走り回る師走は、もう遠い日の記憶、365連休の身には、今日は昨日の続きでしかない。閑中有閑、そしてさらに有閑……一瞬通り過ぎた真冬の寒波も呆気なく去り、今日も11月中旬並みの小春日和である。
 40年以上の老松の枝が数本、11月初めから枯れ始めた。松食い虫とは思いたくない。今年も松の天敵ゴマダラカミキリを2度見かけた。父が生きていたら問答無用で踏み潰すところだが、「昆虫少年のなれの果て」としては殺すに忍びず、わが家から少し離れたところで空に放った。

 我が家では、大きな病や治療に見舞われるたびに、不思議に何かの木が枯れる。ギンモクセイ、ハナミズキ、芙蓉……出入りの植木屋は、真面目な顔で「庭木は、そこに住む人の身替りになる」という。
 確かに思い当たるタイミングで、大きな病や手術との闘いに勝って来た。今回もまさにそのタイミングで、家内がC型肝炎根治の究極の治療にはいった。1クール4週間を無事乗り越えて、残る2クールにも不安がない。主治医のいうとおり殆ど副作用もなく、治癒率ほぼ100%という薬効に、次第に期待が高まってくる。この軽い副作用で済んでるのも、松の小枝が身替りになってくれているのだろうか。
 1錠8万円×4週×3クール=672万円、薬価市場最高といわれる薬が、健保と特別助成で5~6万で受けられる。一昨年の指宿で見事に二つの癌を消し去った粒子線治療が「神の手」とすれば、この特効薬を何と言い表せばいいのだろう。

 霜月の晦日近い宵、1年振りに区長OB会を開いた。太宰府東小学校校区5区長OBが、桜の頃と年忘れの頃に一席を囲む。もう10年ほど続く、気の置けない仲間たちとの宴席である。
 5人で始めた飲み会も、最若年の一人は呆気なく癌で彼岸に渡り、残された83歳から最年少の私までの4人のうち、二人は既に伴侶を喪ってやもめ暮らし。もう一人の伴侶は、この春に2階から階段を落ちて圧迫骨折でリハビリ中……区長(自治会長)として、それぞれ地域に尽くしてきた仲間たちにも、運命は容赦ない。
 それでも、時たま集まって近況を語り、世相に悲憤慷慨しながら酌み交わす酒は、どこか心安らぐ得難いひと時である。
 たった1杯のビールにほろほろと酔い、前日から突然襲った厳しい寒風の中で首をすくめながら家路についた。冬の夜風に雲が払われ、満々とした寒月が玲瓏と天空に躍り出た。

 いつまでも会社人生を引き摺らず、家内の勧めで区長を引き受けて6年、地域と密着した日々は新たな生き方と生き甲斐を齎してくれた。150世帯に満たない小さな地区だが、高齢化が容赦なく進む中で、家内の内助を受けながらいろいろな試みを重ね、太宰府市の中でも最も活性化した明るい地域の一つに育て上げたという自負がある。その中で得た数々の人たちとの結びつきが、老後を限りなく豊かにしてくれている。
 役目を終えて8年経った今も、その人の輪は途切れることがない。人は統計学的にいうと、常に250人ほどの人と結び付いているという。人から人へとつながる輪こそ、地域で生きるために一番大切なものだという実感がある。「輪」は「和」でもあるだろう。

 天満宮の杜から実生で芽生えた楓を庭に植え、その種から育った2代目の小さな楓が、一人前に綺麗に紅葉した。100個以上の実を着けた八朔の色付きがさらに進み、お正月が明けると、また植木屋に頼んで摘み取ってもらう時が来る。例年になく小振りな実ではあるが、味には自信がある。
 すっかり葉を落とした梅の枝に、今年もメジロの囀りが聞こえ始めた。二つ割にした蜜柑や八朔を待っているのだろうか。昨年、20個以上を啄んでくれた厄介なヒヨドリの姦しい声も、すでに石穴稲荷の杜まで降りてきている。八朔の熟すのを待っているのは、私だけではないようだ。
 春先まで食べて、皮はひと夏のマーマレードとなって朝の食卓に添えられる。薄く刻み、ことことと煮込んでグラニュー糖でじっくり練り上げるのは私の仕事である。
 冬の間の楽しみの、Y農園から届く掘りたての蕪で作る酢蕪、これもすっかり私のお手の物となった。蕪と柚子がある限り、ひと冬わが家の食卓から酢蕪が消えることはない。

 こうして今年も暮れていく。大きな波乱もなく、金婚式を祝った平成27年の年の暮れである。
                    (2105年12月:写真:たわわに実る八朔)