今日も暑い日でした。風はありますが、湿度が高く、陽射しも肌に突き刺さる感じです。朝から忙しい日でした。今日はここまで!と切り上げたのが17時過ぎ。がんばりました。(自画自賛)
昨年、天草を訪れました。車がないとバスでは不便でなかなかいけません。でも、行っておいてよかったです。隠れキリスタンには興味があり、本も読みましたが理解するのが、難しいです。ザビエルの属した「イエズス会」は当時修行の厳しい修道院だったそうです。(森一弘司教のお話)だから、カトリックは厳しい というイメージが出来たのでは ということです。それにしても、今でも、日本人には理解することが難しいといわれるキリスト教を当時の人々はどうして信じることができたのでしょうか?不思議です。
「祈り」とは心の深いところからの叫びである。と森司教は言われました。それはなんとかこの病気が治ってほしいとか、病気の人をどうか助けて欲しいとか、そういう切なる願いなのではないでしょうか。聖書を読破したところでわかるものではないように思います。その教えに出会って、少しずつ自己の価値観を、「神」の教えに近づけて行こうとしていくことで、別の自分が出来てくるように思います。出来てくる自己を手放したくない、なぜなら以前より心が平和だからなのです。心が渇かないのです。それは仏教でも同じような気がします。信仰とは、自己を自己から解放してくれるもののように感じるのです。
来年にでも冬の天草を訪ねてみようかと思います。