久しぶりに教会の御ミサに授かった。と言っても、以前のミサとはスタイルが違う。2メートルのソーシャルディスタンスを守っているので、50名が定員。讃美歌も歌わない。それでも、神様と向かい合えるようになった。お友達のお母さまが、私が知り合いもないこの地へ来ることを心配されていた。私自身は今までにも知らない土地へは引っ越したし、今回は、教会があれば大丈夫 と思っていた。共同体としての教会という意識は地方のほうが強いのかもしれない。
もう少しで8年になるこのブログは、おかげさまで何人かの方が読んでくださる。気儘な日記なのに・・・と思う。そんななかで、読まれているのがやはり「こひ」のことが多い。もちろんどのような方が読んでくださるのかわからない。「こひか?」と思う。心に残るこひというものは2つくらいしかなかったように思う。それは激しいこひよりも「淡い思い出」という感じだ。じっと掌の中であたためるようなこひがいい。それは「こひ」とは言わないのかな。大事なものとして、そっと温めたいもののように思う。
先週くらいの新聞に「過去も変えられる」というような話が出ていた。それは、今が変われば、未来も変わるし、過去への見方も変わる=過去も変えられる ということだった。過ぎし日は変わらないのではなく、いまがうつくしければ、過去もうつくしい物語に作り変えられるということだった。
掌のなかにあるものがうつくしいから、未来も過去もうつくしいものになるのだろう。そんなことを琵琶湖に沈む今日の夕日の中に感じた。