『曼殊沙華 一むら燃えて秋陽つよし そこ過ぎてゐる しづかな径』この歌を思い出しながら、車窓を見ていた。田んぼのあぜ道に水路の岸に、まさに「一むら」燃えている曼殊沙華の花が見える。前にも書いたが、根には猛毒があるという怖い花だ。この花はある日、す~っと茎が伸びてきて花が咲く。こんなとことに球根があったのか!とびっくりする。赤は燃えているだが、白は上品で同じ花とは思えない。それでも根には毒がある。
昨日は宮城の多賀城から一気に長浜まで帰った。約5時間近い電車の旅だ。多賀城の駅前に渋谷を思い出すようなTUTAYAとスタバのビルがある。外の景色を見なければ、都会かと錯覚を覚える。そして、5分も行けば、2011年には2メートルを超える津波が押し寄せたという場所になる。地域開発で新しい住宅が立ち出したのかと思うと、そうではなく復興住宅だという。なにか複雑な思いで街をみた。
きれいな花でも根に猛毒があるように、きれいな街並みになっても、まだ人の心には深い悲しみが残っているような、なにかそんな相反する複雑な思いが交錯するこの頃だ。生きるということはそういうことなのかもしれない。
今日は町内会の溝掃除をさぼり(出なくてもいいらしいが)、ミサをもさぼり(これは問題)、陶芸教室にいった。土は魔物のようで、手を抜けば乾くと亀裂が出たりしてくる。空気を抜くようにこねると柔らかさを取り戻す。まるで生き物のようだ。亀裂もうまくごまかせるようになった。土の柔らかさがわかるようになった。混ぜてこねて形を作る。これもまた生きることなのかもしれない。