今日も穏やかな日だ。琵琶湖が真っ青だった。うつくしい。重い腰を上げてパソコンに向かった。料理やら掃除の生活に慣れると、どうも脳の神経回路が違うのかパソコンでものを処理するのが億劫になる。
「花に嵐の例えもあるぞ、さよならだけが人生だ」(井伏鱒二訳)という文面がメールにあった。そろそろNPOの活動も一区切りにする。それに対するメールなのだろう。思い出したのは、高校時代の国語の教師が漢詩の訳だと教えてくれたことだ。当時などよりも、はるか~に重い言葉になるが・・・。「会者定離」という4字熟語を思い出した。
昨日、ネットで「どう死ぬか?」という問題に答えていた。結論は「死ぬことも生きることも同じだから、どう生きるかを考えればいい」と。少し話が暗くなってしまった。
キリスト教では葬儀で「お悔やみ」は言わない。(ニコニコ喜ぶわけではないが)「天に召された」というので、神さまのもとへ還る という感じだろうか。ですから、天国ですでに亡くなった家族などに会える となる。待っていればいいのだ と思う。(先に天に召される計算)
そんなことを考えてしまった。来生たかおの「さよならは別れの言葉じゃなくて再び会うための遠い約束」を思い出した。遠くてもまた会えると信じるほうがいいのではないだろうか。別れはないのだ。