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あなたに「ぬくもり」を届けたくてブログをつくっています

花に嵐の例えもあるぞ、さよならだけが人生だ

2020-11-24 17:24:01 | 日記

今日も穏やかな日だ。琵琶湖が真っ青だった。うつくしい。重い腰を上げてパソコンに向かった。料理やら掃除の生活に慣れると、どうも脳の神経回路が違うのかパソコンでものを処理するのが億劫になる。

「花に嵐の例えもあるぞ、さよならだけが人生だ」(井伏鱒二訳)という文面がメールにあった。そろそろNPOの活動も一区切りにする。それに対するメールなのだろう。思い出したのは、高校時代の国語の教師が漢詩の訳だと教えてくれたことだ。当時などよりも、はるか~に重い言葉になるが・・・。「会者定離」という4字熟語を思い出した。

昨日、ネットで「どう死ぬか?」という問題に答えていた。結論は「死ぬことも生きることも同じだから、どう生きるかを考えればいい」と。少し話が暗くなってしまった。

キリスト教では葬儀で「お悔やみ」は言わない。(ニコニコ喜ぶわけではないが)「天に召された」というので、神さまのもとへ還る という感じだろうか。ですから、天国ですでに亡くなった家族などに会える となる。待っていればいいのだ と思う。(先に天に召される計算)

そんなことを考えてしまった。来生たかおの「さよならは別れの言葉じゃなくて再び会うための遠い約束」を思い出した。遠くてもまた会えると信じるほうがいいのではないだろうか。別れはないのだ。

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少女のように ロマンス

2020-11-23 19:19:04 | 日記

伊吹山がくっきり見える。周りの山の稜線もきれいだし、山肌が色づいているのまでよくわかる。空気が澄んでいるのだろう。湘南の抜けるような青い空の捨てがたいが、やはりこの空気の透明感は最高だ。

焼きあがらなかった陶灯のことが心に引っかかっているが、仕方がない。割れなかっただけよかった。割れるとほかの人の作品に迷惑がかかることもある。陶芸の難しさだ。でも、陶灯に灯が入るときを楽しみに待っていよう。

昨日、お友達とドライブして行った近江八幡近くの池というか沼地というか、その水辺には鴨も来ているし、葦もかられ夕暮れ近い時間は遠い時代の近江の海のようだ。そこに月が出ると素晴らしいと彼女は言っていた。恋人を待ちながら、月を眺めている風情だった。建物も特有のものが多い。ヴォーリス記念病院が肺結核の療養所として「近江療養院」だったということも彼女の案内で知った。近江というところはロマンがある。

そういえば、話は全く違うが、駒沢公園で落ち葉を集めてたい肥にしていた。その木の囲いが、「冬ソナ」で、高校でチュンさんとユジンが落ち葉を掛け合う場面とそっくりだった。あれをやってみたい!と思うが、相手がいない!この年で何ともガキのようだ。

あくせくすることなく、少女のように王子さまが来るのを待っているような毎日だ。「ダブルハピネス」と書いたが、しあわせは、誰かと分かち合うことで始まるようだ。自分の心を素直に人に寄り添ってみるのが幸せへの一歩かもしれない。

 

 
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クリスマスツリーの原点は

2020-11-22 20:12:45 | 日記

今日は12時からポルトガル語のごミサだった。その前に、陶芸教室へ。ここで今日は悲劇が起こった。楽しみにしていた桜の花を彫り込んだ陶灯が焼きあがってくる日だった。先生が「陶灯は割れたんではないよ。色が出なかったので、もう一度焼き直すから」と。淡いピンクの色が出なかったらしい。2つとも同じ色だったので、これは悲劇だ!くしゅーん。

ポルトガル語のミサは、単語が3つしかわからず、1時間半だった。(日本語は45分くらい)でも、異文化とはおもしろい。讃美歌は全く違うし、ギターの演奏で歌う。今は、日本語などではコロナの影響で讃美歌は歌わないが、平気で歌っている。(マスクは着用)リズムが全く違う。でも、このようなリズムなら日本の若者のキリスト者は増えたかもしれない。

来週はクリスマスの飾りつけになる。初めてモミの木が元はどんな意味だったかわかった。これでも洗礼を受けて8年・・。中世のヨーロッパでクリスマス・イブの宗教劇(楽園における堕罪)で「善悪の知恵の木」として象徴する木がたてられ、ドイツではモミの木にりんごの実がささげられるようになったとか。(アダムとエバのお話)やがて宗教劇はなくなり、モミの飾る習慣が残ったとか。(この後、まだお話は続きますが)

キリスト教は厳しいようなイメージがあるが、ひとはあやまちを犯すものというところが原点だ。私は洗礼を受けて、救われ、いまも毎日祈りの中に許しを乞うている。「罪深い私をお許しください」と。

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コロナウイルス禍の平和 いいのかな?

2020-11-21 20:13:04 | 日記

静かに1日が暮れていった。風の冷たい寒い日だった。昨日、歩きすぎたので、今日は近くへ買い物に行くほか自宅待機だった。コロナウイルスの感染が止まらないのに、各地では人出がある。Go Toトラベルの影響だろう。今までご夫婦で出かけてことがないような方たちも、嬉しそうに出かけている。「お忍びで月末にそちらのほうへ出かけます」などとメールが来るが、奥さまとなのにどこがお忍び?仕事の関係だろうか。確かに私も恩恵を受けたが、どうもこのGo Toトラベルは違和感がある。うまく言えないが、これでは外国からの観光客が日本人に変わっただけなのだから、このあとはどうなるの?それに医療関係者、介護の現場などにかかわる方たちはどんな思いで見ているのだろうか。「いまは、旅行など考えつきませんね」と介護の現場の方が言っていた。医療現場や介護の現場が逼迫した状態なのに、経済を回すことが優先されていいのだろうか?

対策を打ったと思うと、また感染が広がり、新しい対策を再考しなくてはならないのではないだろう。マスクは95%以上実行しているし、手洗いも換気も三密もこれ以上どうしろというの?! という人が多い。ワクチンもまだオールマイティのカードではなく、むしろ不安のほうが多い気もする。といっても、私は医師でもなく介護士の資格もなく、何もできない。寄付もできなければ、本当に無力だ。

それでも、平和でしあわせに暮らしている。平和とかしあわせとかは「退屈なもの」だと誰かが言った。私はこんなに退屈でのんびり暮らしていていいのだろうか。

メールの返事も1通も出さず、沈んだ1日だった。

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都会のロマン ミニスカートをはいて

2020-11-20 21:30:55 | 日記

コロナウイルスの感染が拡大している東京へ取材に出かけた。それでも、慣れてきているのか、新幹線に乗るのも以前ほど神経質にならない。いつもと違うホテルなのでなにか落ち着かず、世界から切り離された気分になった。家にいる時間が長くなり、家事をしている時間でどこか安心している。生活が変わりつつある。

何十年ぶりかでミニスカートをはいた。特に意味はなく、はいていくきれいなパンツがなかったのだ。でも、何かウキウキしてうれしくなった。ミニスカートをはいていたころは・・・。

人生の半分以上は都会(東京)で過ごしていた。今の長浜の暮らしは最高だが、時々都会に出ると、何かノスタルジアがある。都会の街路樹で、今は、イチョウが葉を半分くらい落としている。黄葉は長浜のほうがはるかにきれいだが、並木の美しさはない。神宮の絵画館前はむかしは本当にロマンチックだった。そして、デパ地下がやはり好きだ。今は、ごく普通に会社帰りに利用している人が多いようだ。私は、日曜日に出かけることが多かった。手に入りにくい調味料や食材を買うのが楽しみだった。そして、おいしいフランスパンとコーヒー豆を買って帰った。ほんの少しの贅沢だった。

「後ろからみると学生みたいだよ」と取材のサッカーおじいさんたちに冷やかされた。場所は駒沢公園。木々がうつくしい!なにかとてもロマンチックで学生気分になったおばあさんだ。あなたと歩いてみたかったなぁ。

 

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