マイケル・エディ・エドワードは、カルガリーオリンピックのスキージャンプ選手だ。
彼の物語を映画で見た。
エディは、子供の頃からオリンピックにあこがれていた。
種目はなんでもよかった。
砲丸投げでも短距離でも棒高飛びでも、遊びといったらそれらの物真似ばかりしていた。
十代のとき、スキーに注目して、ダウンヒルに挑戦するが駄目で、
ひらめきがあってスキージャンプに変更した。
もちろん1度もジャンプをしたことがない。
ジャンプ用でもないスキー板をかついで、オリンピックをめざす人々のジャンプの合宿所に行き、
ジャンプのコツを教えてくれと頼む。
どのぐらいジャンプをやっているのかと聞かれ、
「昨日からです」と言ったエディを、全員が笑いものにする。
オリンピックに出たい選手は5歳ぐらいから練習しているんだ、22歳なんて遅すぎる、と
はなからバカにした。
エディは、あるコーチに出会い、カルガリーオリンピックで
イギリス最高記録を何度も叩き出す。
こういう話を聞くたびに、胸の一部がジリジリする。
なにがなんでも成し遂げたいという、明確な夢がある人が、
それも子供の頃から、脇目もふらずにそれに向かって進める人が、
私は心の底から羨ましいと思う。
羨ましいを通り越して、嫉妬さえ感じる。
韓国ドラマに夢中になって、韓国語を覚えたり、韓国に何度も行く人達や、
芸能人のファンクラブに入って、追っかけをする人達にも、
似たようなジリジリを感じる。
私には、そのとき、そのときの目標はあっても、
他のことが目に入らないほどの情熱で、追い続けるような夢はない。
たいそうな夢じゃなくてもいい。
何をおいても優先したい、夢中になれるものが私にはないのだ。
かろうじてあるとすれば、昔、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」全巻を読んで感動し、
坂本竜馬の軌跡を追いかけて、京都や長崎、鹿児島に行ったり
松下村塾の跡を見に行ったり、幕末に凝った時期はあった。
しかしそれも、そこに行くついでに足を伸ばしたようなものだ。
私のような人がほとんどなのだろうけれど、
私はそれでもジリジリしてやまないのである。
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彼の物語を映画で見た。
エディは、子供の頃からオリンピックにあこがれていた。
種目はなんでもよかった。
砲丸投げでも短距離でも棒高飛びでも、遊びといったらそれらの物真似ばかりしていた。
十代のとき、スキーに注目して、ダウンヒルに挑戦するが駄目で、
ひらめきがあってスキージャンプに変更した。
もちろん1度もジャンプをしたことがない。
ジャンプ用でもないスキー板をかついで、オリンピックをめざす人々のジャンプの合宿所に行き、
ジャンプのコツを教えてくれと頼む。
どのぐらいジャンプをやっているのかと聞かれ、
「昨日からです」と言ったエディを、全員が笑いものにする。
オリンピックに出たい選手は5歳ぐらいから練習しているんだ、22歳なんて遅すぎる、と
はなからバカにした。
エディは、あるコーチに出会い、カルガリーオリンピックで
イギリス最高記録を何度も叩き出す。
こういう話を聞くたびに、胸の一部がジリジリする。
なにがなんでも成し遂げたいという、明確な夢がある人が、
それも子供の頃から、脇目もふらずにそれに向かって進める人が、
私は心の底から羨ましいと思う。
羨ましいを通り越して、嫉妬さえ感じる。
韓国ドラマに夢中になって、韓国語を覚えたり、韓国に何度も行く人達や、
芸能人のファンクラブに入って、追っかけをする人達にも、
似たようなジリジリを感じる。
私には、そのとき、そのときの目標はあっても、
他のことが目に入らないほどの情熱で、追い続けるような夢はない。
たいそうな夢じゃなくてもいい。
何をおいても優先したい、夢中になれるものが私にはないのだ。
かろうじてあるとすれば、昔、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」全巻を読んで感動し、
坂本竜馬の軌跡を追いかけて、京都や長崎、鹿児島に行ったり
松下村塾の跡を見に行ったり、幕末に凝った時期はあった。
しかしそれも、そこに行くついでに足を伸ばしたようなものだ。
私のような人がほとんどなのだろうけれど、
私はそれでもジリジリしてやまないのである。
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