太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

2017-09-26 07:28:14 | 日記
CHOZEN-JI(超禅寺)という禅寺に行った。

アート仲間のペギーがそこで働いていて、彼女から受け取るものがあったついでに

お寺の中を案内してくれるというのだ。





カリヒの山あいのどんづまり、のどかなのどかな場所に寺はある。



右側の建物が、かつては寺社であったという。



道場。

ここで剣道や合気道、華道を教えていて、毎朝毎夕、座禅も行われている。

あちらこちらに、見事な習字(習字で正しい?)がかけられている。



『只在』  ただ、ある。

まさに禅。今この瞬間に存在するだけ。

ここは曹洞の禅寺で、臨済よりも厳しくないのだそうだ。

日本人であることがいたたまれないような気持ちになるのは、こんな時だ。

禅の発祥は日本じゃないにしても、道元からあとは日本に根強く広がっているのだから

日本人として禅とはなんたるかを知っておくべきである。

ガイジンであるペギーの説明を、「ははぁ、なるほどー」と口をあけて聞いている私は

まったく情けがないことこの上なし。


「日本人なのに、禅のことを知らないなんて恥ずかしいよねえ」

と私が言うと、

「そんなの恥ずかしいことでもないよ。私だって自分の国のことを何でも知っているかといえばそうじゃないしさ」

とペギーが笑って私の肩を叩いた。




禅のことを、少し勉強してみた。


禅の始祖は、南インドで生まれ、中国にわたった 達磨 である。(なるほど)

13世紀鎌倉時代に日本にもたらされた。

臨済禅曹洞禅が主な宗派で、それからさらに細かく分けると47の流れがある。

臨済禅は、栄西がもたらしたもので、公案とよばれる「お題」が投げかけられ、それを自己を無にすることで解く。

曹洞禅は、道元がもたらしたもので、座禅を組んで、何もなかったころの自分に立ち返る。



世界はすべて無であり空(くう)である


お、なんかいいこと言ってるぞ。

人間は生まれてから死ぬまでの間に、主観ー客観、自己ー他者、善ー悪など、相対的なものを区別し、

「自己、自我」というものを作り上げてゆく。

しかし仏教において「自己」は実体のないものであり、禅においては迷い、束縛の元とされている。

自分のあるがままの姿に気づくため、座禅で心の余計なものをひたすらそぎ落としてゆく。





私は特定の宗教をもたないが、

神も救世主も霊魂すらもない、ただ宇宙が広がっているだけのような「禅」には心ひかれるものがある。

天国も地獄もない、救われるとか救われないとかもない。

なんと自由だろうか。



この寺は、気持ちがいい寺だ。

朝の座禅会に、ほんの少し心が動く。




 にほんブログ村 海外生活ブログ 海外移住へにほんブログ村